二少女へと伸びる魔手

黒実 操

二少女へと伸びる魔手

 この顔のことですか?

 あなた随分ずいぶんと遠慮のないことを。……

 いいえ。

 見ない振りをしてちらちらと目を寄越よこす連中などよりも、ずっと好ましく思います。

 いいですよ。

 お話しいたしましょう。

 

 昔、小さな村にいたことがあります。

 昔といっても、ほんの五年前のこと。でも子供だったわたしにとっては、昔々に思えます。

 まだ子供じゃないか、って?

 そうですね。あなたから見ればそうでしょう。でもあなた達だって。……

 何せそこはとても小さくて、御一新ごいっしんから何十年もったというのに、かつての庄屋が村のすべてを牛耳ぎゅうじっておりました。

 原野はらの、という家でした。

 原野の家にはかないませんが、やはり力のある家に瀬田せたというのがありました。村にただひとつのお寺の家です。

 お坊さん、ですね。死ねばここにほうむられるしかないのです。葬式も供養も、ここでしかできない。

 なので村人はこのふたつの家には、ふたつの家の家族の者には逆らえません。

 気に入らなければ村を出ればいい?

 まさかまさか。

 先祖代々の家や田圃たんぼ、お墓を捨てて?

 逆らえばいい?

 生計たつきを失くして? 先祖の供養を諦めて?

 原野の家が仲介をしなければ、作物さくもつのひとつも売れないのです。もし家族の誰かが死んだら、お墓はどうします? まずその死体は?

 何より村の下々達しもじもたちは、長年続くその状況にすっかり慣れていたのです。

 やり過ごす。

 頭を低くしてやり過ごす。

 大人達はそうしていました。

 子供時代からのしつけや成長するまでの体験で学んでいった、村で生きる為の知恵。

 不思議そうなお顔ですね。

 もっとはっきり言いましょうか。

 原野と瀬田の家の者は、揃って腐りきっておりました。

 家風かふうとでもいうのでしょうか。大人ばかりかその子らまでも。……

 原野の家と瀬田の家には、同い年の娘がいました。

 原野の娘は、名を駒子こまこ。誰に似たのか美貌に恵まれ、さながら蝶のようだと持てはやされておりました。

 瀬田の娘は、名を吉乃よしの。真っ白できめ細やかな肌が美しく、さながら雪のようだとめそやされておりました。

 これはおべっかなどではなく、全くの事実でした。

 ふたりの娘も己の美点を認めていて、みなからの賞賛や感嘆を当然のものとしていたと聞きました。言葉を選んでこの言いようでしたから、さぞ傲慢ごうまんな振る舞いだったのでしょうね。……

 わたしはその年の節分に両親を失くしました。

 係累けいるいもないために処遇しょぐうに困ったのでしょう、それまで住んでいた家の大屋おおや伝手つてで「親方」という人に引き取られました。

 家財はすべて大屋が始末をし、わたしは無一文むいちもん身一みひとつであの村へと連れて行かれたのです。

 自動車に乗せられて来たのですが、わらやトタンで屋根をいた小さな家々を何軒も通り過ぎてから、村の最奥さいおうに現れた瓦葺かわらぶき御殿ごてんのような家に驚いたのは忘れません。

「あれが原野様のお屋敷だ。裏手の丘みてえなところに瀬田様の寺がある。俺達が世話になってる殿様方だ」

 それまで助手席で運転手にへつらっていた「親方」が、わたしを振り向いて言いました。

 原野の家のすぐ側にある、藁葺だけれど大きな造りの家の前で自動車は止まりました。

「原野様からお借りしている家だ。おまえも今日からここで暮らすんだ」と「親方」はわたしを中に押し入れました。……

 ……

 この村には学校などなく、子供は皆、山を二つ越えた先まで歩くのですが、もちろん駒子と吉乃は違いましたね。かなり遠回りをしたようですが、原野の家の自動車での送り迎えがありました。

 のちに知ったのですが、わたしの乗ってきたあの自動車です。

 あの村では、自動車は原野の家だけが持つものでした。大人も子供も、如何いかにあの家が特別なのか、朝に夕に駒子と吉乃を乗せた自動車を目にするたびに、思い知ったものだと聞いています。……

 わたしはといえば家から出ることを禁じられていて、学校に行くことはありません。

「親方」がやとった「先生」からいろいろと習うのです。

 書き取りや鶴亀算つるかめざんはもちろん、東西の歌を唄うことや本を朗読すること、芸者踊り、ソシアルダンス、そういったものも習いました。

 三味線も教わったのですが、これだけはどうもいけなくて、「親方」も「指の形が悪くなるかもな」と辞めさせてくれました。……

 勉強は大好きでした。本当に楽しかった。それによくできました。先生が「砂に水を吸わせるようだ」と誉めてくれたのを懐かしく思います。

 わたしはなかなか賢かったのですよ。

 でも、それ以外は、そこにいるのは苦痛でした。

 わたしに与えられたのは三畳ほどの一室でした。窓は明かり取りの小さなものが、ひとつだけ。

何時いついつに晴れ着を着て正座をしていろ」と「親方」が命じることがありました。

 そのときは「親方」がいいと言うまで足を崩さず、できるだけ動かないようにしていなければなりません。

 一度、頬がかゆくてうっかりいたら、あとから「親方」に怒鳴り飛ばされました。

「馬鹿者が、うちにしらみがいるみたいだろう」ですって。

 だけど、わたしは手をあげられることはありませんでした。他の子は打たれたり蹴られたり物を投げつけられたり、そりゃあ非道ひどいものだったんですけどね。

 ええ。他にも子供がいました。わたしより小さい子、男の子も女の子も。でもわたしと他の子は話すことを禁じられていて、顔も合わさないよう「親方」は気をつかっていましたね。

 梅雨つゆ気鬱きうつなときも、夏の蒸されるような暑さのときも、わたしは諦めと遣瀬やるせなさに心を覆われていて、ただ勉強と習い事だけを楽しみに日を送っておりました。

 破綻はたんはある日、おとずれました。

 風がなく、小さな窓を開けていても何処か胸苦むなぐるしくて、畳に横になっていました。

 すると、うーうー、と耳慣れない音が聞こえます。機械、いや違う、生きもののように思えました。言いつけを破り、三畳間を抜け出ます。見つかればご不浄ふじょうだと言えばいい。

 音のした方向は北側の奥でした。

 ご不浄を通り過ぎ、見当けんとうを付けたその部屋のふすまを開いたそのとき「親方」に見つかってしまいました。

 襟首えりくびを捕まれて引き戻されたのですが、ほんの少しだけ開いたその隙間すきまから、畳の真ん中に置かれた大きな箱が見えました。

 雨戸が閉められていたらしく中は暗かったのですが、襖の間から光が入ってわずかに見えた。

 箱の上には何やら丸いものが突き出ていて、ぐらりと揺れたような。

 一拍いっぱく遅れて、非道く嫌な臭いが漂ってきたので、わたしは素直に「親方」について自分の部屋に戻りました。……

 ひとしきり怒鳴り飛ばされましたけど、やはり手はあげられなかった。

 それからひとりになると、わたしは恐ろしい考えに取りつかれました。

 箱から突き出ていた丸いもの、あれは子供の頭だったような。

 そんな馬鹿なこと。あの箱は大きいとはいってもせいぜい二尺程。

 丸いものがぐらりとしたのは、あれは光に驚いてこちらを見たのではないか。ふたつの目が、しっか、とわたしを見たのではないのか。

 わたしの聞いたあの音は、あの子が苦しさを訴えつている声だったのではないか。

 理性のしるしが、あの目にはなかったか。

 唇が動き、ものを言おうとしたのではなかったか。……

 十歳程の子供に見えました。あの丸いものは。

 けれどもわたしには、確かめる勇気はありませんでした。

「親方」の剣幕けんまくがかつてないものであったのと、「おまえもああなりたいか」という言葉に、そんなものは消し飛んでしまいましたからね。

 ああ、いけない。余計なことまで話しました。……

 ……

 わたしがそこに連れてこられたのは、その年の春のことでした。自動車の窓から見える、菜種畑なたねばたけがそれはきれいでした。

 ねえ、それまではわたし、ずっと普通の暮らしをしていたのですよ。

 父母を失くした理由わけですか? それは、そんなことどうでもいいではありませんか。……

 その「箱」を見たのは秋の始め。

 わたしは急に、自分の置かれているところが怖ろしくなりました。父母の死で麻痺していた心が、「箱」をきっかけに戻ってきたのだと思います。

 わたしは何という目に遭っているのだ。 ……

 逃げました。

 夜明け前でした。

 まだ体の小さかったわたしは、文机ふづくえを足場に明かり取りの小さな窓から抜け出すことができました。

 原野御殿の反対に、自動車が辿たどったのとは反対に。

 走りました。

 走りました。

 夢中で走った先に、ちた神社がありました。

 雄鳥おんどりが時をつくり、しらじらと夜が明けていきます。

 見つかることを恐れ、ぼろぼろになったやしろへと身を隠しました。

 何ヶ月もろくに動かなかったせいで、息は上がり胸が破裂しそうでした。足の裏も焼けるように痛い。足袋たびで走ったのだから当然です。

 水が欲しかった。

 でもここから出たくはない。

 見つかりたくない。

 喉がからから。

 足が痛い。

 助けて。

 誰か、

 神様、

 神様、

 神様!

 朽ちてはいても神社です。神様はいるはずだと、わたしはただただ祈りました。……

 ……

 泣きました。

 どうしようもなくて泣きました。

「お嬢ちゃん、どうしたの」

 いきなりの声に、心臓が止まるかと思いました。

怪我けがをしているの?」

 優しい声でした。

 思い切って顔を上げると、扉の格子こうしの間からおかっぱ頭のおねえさんがこちらをのぞいていました。

「まあ、綺麗な子。どうして泣いているの」

 おねえさんも泣きそうな顔をします。

「ね、あたしそばに行ってもいい?」

 わたしはうなずきました。

 おねえさんはわたしの足袋を脱がせると、怪我の具合を見てくれました。お水も持ってきてくれました。

 わたしにお水を渡すと、

「何かあったら呼んでね」

 と言って境内けいだいのお掃除を始めました。

 境内といっても狛犬こまいぬ灯籠とうろうもありません。だけど、以前はそこに何かがあったとおぼしき石の土台がわかりました。

 普段から手入れをしているのでしょう。さほどかからず、辺りはすっきりとなりました。

「さあ、今度はこちら」

 おねえさんは社に上がると、崩れた床をいて、平たいところはいていきます。

 それからまた出て行くと、コップに入ったお水を持ってきて社の奥に置きました。

「本当はもっときちんとしたいのだけど、お父さんに見つかると叱られるの」

「叱られる? どうして?」

 思わずそう訊いたわたしに、おねえさんはぽつぽつとお話しをしてくれました。

「この神社はお寺の邪魔になるんですって。だからもうせんに村のみんなで壊したそうよ」

「お寺の? どうして?」

「ここの神様が仏様の邪魔になるんだそうよ。村の皆が神様を信じると、村の信心が全部集まらないって」

 部屋に籠もりきりだったわたしが、どうしてあの村のことをよく知っているか、不思議だったでしょうね。おねえさんが話してくれたからなのですよ。

 もちろんこのときは、田圃の実りや山の恵み、今鳴いた鳥の名前。優しい話がほとんどでした。

 けれど、原野と瀬田の話も少し出ました。来たばかりなら村の仕組みを教えてあげる、と。

 もちろん悪口にならないように、言葉を選んでの。それでも、わたしが子供でも察することはできました。

 さっきも言ったでしょう、わたし賢かったんです。…… 

「あたし川井信子かわいのぶこ

 わたしの気持ちがほぐれた頃、おねえさんはそう名乗りました。

 あなたは? というように、わたしに向けて小首をかしげて見せました。

「わたしは」

 嘉穂かほ、と答えました。

 わたしが物心ものごころつく前に死んでしまったお祖父じいさんが着けた名です。

 自分の名前を意識したのは、どれほど振りだったでしょう。「親方」からはおまえとしか呼ばれていませんでしたから。……

 それを機に、わたしは自分がどういう目に遭っているかをおねえさんに話しました。

 父母を失くし、「親方」にここに連れてこられ、あの家に閉じ込められていることを。

 おねえさんに、わたしはここから逃げたいと伝えました。

 おねえさんは、今は無理だと首を振りました。

「そんな足じゃダメでしょう。靴がいるわ。それといろいろ準備も。頼れるところはあるの?」

 わたしも首を振りました。やっぱりどうにもならないのか、とまた涙が出そうになりました。

「それじゃあ、余所よその町に着いたらおまわりさんに助けてもらえばいいわ。きっと助けてもらえる」

「えっ、わたし、助かるの」

「助かるわよ。あんまり非道いわ。こんなにしっかりしているんだもの。あたしも一緒に行くから。ふたりでお話しすれば大丈夫よ」

 だから今日のところは帰りなさい、とおねえさんは言いました。大丈夫、あたしが送ってあげるわ、と。

 そして、

「ここで逢いましょう。お寺に遠慮して、この神社には誰も近寄らないから。それに、もともとうちの社だもの。誰にも遠慮はいらないわ。あたし神様にご挨拶するために、毎日朝早くここに来るの」

 と、指切りをしてくれました。……

 でも、神社を出てからすぐにたくさんの村人に囲まれました。おねえさんは突き飛ばされ、わたしはかつぎ上げられて「親方」の元に連れ返されたのです。

 親方は怒り狂っていましたが、やはりわたしに手をあげることはしませんでした。

 わたしは散歩くらいしないと気が変になると訴え、ついには「親方」みたいに大声を上げて手足をばたつかせてやりました。それでも足りないようなので、ますますおかしくなった振りで自分の頬に爪を立てて、軽く引っ掻いて見せました。

 やめろ、傷を付けるな、わかった、と「親方」もこれには慌てたようで、朝方の外出を許してくれたのです。……

 このときの「親方」の言葉から、わたしを探すのに、原野の力を借りたことを知りました。わたしがここにいることと、原野の家長が何か関係があるようで、村中にわたしを探せとおふれを出したのは原野の家長だったそうです。

 ええ、もちろん娘の駒子の知ることではなかったでしょうね。わたしが連れてこられたあの家だって、あんな使われ方をしているなど、夢にも思いはしないでしょう。

 法外な家賃を取っていたようですよ。

 小さな村とはいえ、筆頭の名士のお膝元であんなことをしようなどとね、いい隠れみのだったと今でも思います。……

 ……

 それから秋の終わりくらいまでが、わたしにとってどんなに幸せな日々だったか。

 栗を拾って焚き火にくべました。に深く切れ目を入れないと、ぜて危ないことを教えてくれたっけ。

 すすきほうきを作って社を掃除して、たいして役に立つわけもなく、仕舞しまいにはふたりして大声で笑ったこともありました。

 社の床に寝っ転がって、屋根に開いた穴から見える空。雲を数え、つらなる渡りの鳥を数えました。

 そしてないしょ話。

 山を二つ超えた先の、学校のある町のこと。

 派出所がある。お巡りさんがいる。

 鉄道の駅もある。そこから三つ先の駅で降りると、大きな町。

 大きな警察署がある。新聞社がある。

 お巡りさんもいいが、新聞記者に打ち明けるのもいい。両方を味方にできればもっといい。

 ああ、おねえさんは、とてもとても考えてくれていました。わたしをただ逃がすだけではなく、それからどう生きていけばいいか。生きるためにどうすればいいかを。

「ううん、嘉穂ちゃん。あなたも原野の犠牲者だわ。あの家を貸しているのは原野だもの。あたしとあなたのかたきだわ。原野と瀬田がこの神社を壊させた。それにあそこのふたりの娘。あたしと同級なんだけど、ううん、いいわ。今は嘉穂ちゃんのことよ。だけどね、やっぱり神社のことは悔しいわ」

 あたしの神様にこんな非道いことを、とおねえさんの目に涙が浮かびます。

 わたしはたまらず、おねえさんの手を取りました。おねえさんは目を上げると、

「嘉穂ちゃん。あたしね、あなたと初めて逢ったとき、あなたをこの社に見つけたときね。あんまり綺麗で、神様が、神様が泣いているって思ったの」

 おねえさんがわたしの手を握り返しました。

「まだこんなに小さいのに、あなたはとっても綺麗。うちの神様は女のかたなの。きっとあなたにそっくりよ」

 わたしは恥ずかしくって、顔を隠したくなりました。でも両手はしっかりとおねえさんに握られていて、できません。

「あなたと出逢えてよかった。あなたを助けることで、あたしも救われるの。きっと神様も助けてくれるわ」

 ……

 それが、おねえさんとわたし、最後の幸せなときでした。……

 夜。

 おねえさんに逢うために、わたしはずっと早寝をしていました。

 その日に限って何故なぜか寝付きが悪く、やっととろとろとしたときです。

 かすかな音。

 何かこすれるような。

 襖が開く音、と心づきました。

 やはり微かな衣擦きぬずれの音。

 また襖から音。今度は閉められているのでしょう。

 はっ、はっ、という犬の呼吸のような音。

 ず、と重い何かが畳を滑る音。

 ぶわっと何かが伸び上がる気配。

 わたしは蒲団ふとんから飛び起きました。

 明かりはありません。

「起きていたか」

 知らない男の声。

 舌打ち。

 ばさばさと蒲団をめくり、探る音。

「何処だ」

 怖ろしい声。

 その声に弾かれ、わたしは窓から外に転げ出ました。

 裸足でした。今度は足袋さえない。

 それでも走りました。あのときよりも早く。

 神社へ。

 おねえさん、

 おねえさん、

 おねえさん、

 祈りのように。

 おねえさん、と。

 向かう方に明かりが見えました。

 社に明かりが。

 おねえさんは、わたしを神様みたいと言いました。

 わたしには、おねえさんが神様です。

 社に明かりが。

 神様、

 ああ、神様がいる!

 わたしは何の疑問も持たず、高揚こうようした気持ちのまま社へと飛び込んだのです。

 ……

 絢爛けんらん

 自分が何を見ているのかわかりませんでした。

 立っているのは、あでやかな色をした袖の長い着物姿のふたりの少女。こちらを振り返りました。

 右の少女は蝶のように美しかった。

 左の少女は雪のように白い肌をしていた。

 太い蝋燭ろうそくが一本、社の床に突き立てられていて、それがあたりを照らしていました。

「あんた誰?」

 右の少女が言いました。

「何しに来たの?」

 左の少女が言いました。

 さっぱりわからず、わたしは、

「おねえさんは」

 とだけ言いました。

「おねえさん?」

 右の少女が眉をひそめました。

「ああ、おねえさん」

 左の少女がうなづきました。

 こいつのこと?

 声を揃えて言いました。

 豪華な扉が開くように、ふたりは身体をこちらに向けます。そこに生まれた隙間から、妙なものが見えました。

 朽ちた社の床の上に襤褸布ぼろきれかたまりのようなものがあるのです。

 蝋燭の明かりの下、床は赤いもので汚れています。襤褸布の周りには黒い毛束が散らされていて、とても汚らしく見えました。

 目を凝らすと、襤褸の塊は動いています。震えているように思えます。

 あう、あう、といううめきのような、泣き声のようなものも聞こえます。

 ふっ。

 ふたりの少女のどちらかが、笑いました。

 わたしは一歩踏み出しました。

 あれが何かわかりかけて、でもそんなはずはないと。

 確かめようと。

 確かめたくない、と。

 聞こえるその声は。

 その声に聞き覚えなどあるわけが。

 散らばるのは髪の毛のようではないか。

 床を汚すのは血のようではないか。

 転がっているのは、着物を乱された人間のようではないか。

 その頭はまだらられ、乱暴にやられたのでしょう、あちこちから血が流れておりました。落ちている毛束を見れば、地肌ごと持っていかれたものもありました。

 おねえさん、

 わたしは声を掛けました。

 返事をしないで欲しいと願いながら。

 その人ではないことを願いながら。

 神様に願いながら。

「かほ、ちゃん」

 願いは届きませんでした。

 知らず、どうして、とわたしは口にしていました。

「どうしてって、だってこいつ楽しそうにしてたんだもの。ちょっとだけなら許してやってもよかったけど、もうずっとここ二ヶ月も楽しそうにしてたのよ。川井の家のくせに」

 おまえに訊いたわけじゃない、とわたしは駒子だか吉乃だかに思いました。もうどちらがどちらかなんて、どうでもよかった。

「だから思い出させてやったのよ。自分がどんなにみじめで可哀相な身の上なのか。こんだけやればもう忘れることはないでしょうよ」

 もうひとりが、こう続けました。

 わたし賢いんですよ。こんなふうに、とっても憶えがいいんです。一言一句、忘れはしません。

「で、あんた誰? 知らない子ね」

「待って吉乃、この子だわ。ほら、ちょっと前にお父様が村で人探しをさせたとか、作造さくぞうが言っていた、あれ」

「ああ、あったわね、そんなこと。あんた、お父様と何か関係なの」

「おじさまに迷惑を掛けたに違いないわ。相当に探したと訊いたもの」

 ふたりは、じわじわとわたしに近付きます。

 美しい顔、白い顔。

 わたしは何も言えず、ただ立ち尽くすだけでした。

「おや」

 美しい方がわたしの顔を凝視します。

「この子の顔」

「あら、よく見れば」

 白い方も屈み込んで見てきます。

「ねえ」

「そうねえ」

 互いに頷き合うと、すっと表情を消しました。

 今のうちに壊しましょ、と白い方がわたしの腕をつかみ、ぐいっと引き寄せると、すぐに突き飛ばしました。

 わたしはおねえさんのすぐ隣に倒れ込みました。

 すかさず美しい方が馬乗りになってきて、何かをわたしの頬に当てようとしました。

「駒子、こっちのほうがいいわ。確実よ」

 白い方の声に、美しい方が持っていた物を放り投げました。剃刀かみそりでした。

流石さすがじゃない、吉乃」

 白い方が美しい方に手渡したのは、火のついた太い蝋燭。床に突き立てられていた、あの蝋燭でした。

 炎が近いせいでしょう。胸の上の少女の顔が赤く燃えているようになりました。

 見開いた目は爛々らんらんと、喜びをあらわにした口元は大きく開き、美貌のせいもあったのでしょう。本当に怖ろしいものでした。

「熱っ」

 頭に、額に、熱いものが雨垂あまだれのように降りそそぎます。そのときはわかりませんでしたが、あれは蝋燭の蝋でした。    

 ただ熱くて、わたしは逃れようと必死に手足を動かしました。

「吉乃!」

 わたしの上で赤く染まった少女の声にこたえるようにして、わたしの腕が押さえつけられました。

白い方の両手でしょう。

 ぐいぐいとわたしの両耳を潰すようにして、暖かい何かが頭を押さえ込んできます。白い方の両の膝だったのでしょう。……

 ……

 そして、

 わたしの眼前に、

 頭を挟み込まれ、動かすことのできないわたしの眼前に、

 熱く、熱く、熱いものが、

 蝋ではない、

 熱く燃えるものが、

 肉の、焼ける、臭い。……

 …………

 気が付いたのは、あの三畳間でした。

 引き裂かれでもしたかのように、顔の左側が痛みます。

 手をやると、がさがさしたもので覆われていました。……

「なんてこった、これじゃ売れやしねえ。大損だ。この役立たず、穀潰ごくつぶし、トンマ」

「親方」は顔に火傷やけどを負ったわたしをひとしきりののしると、どうしてこうなったかを訊きました。

 わたしは喋るのも苦痛でしたが、正直に総てを話しました。

 聞き終わると「親方」は、

「駒子様と吉乃様が。へえ」

 と部屋を出ていきました。

 ……

 どれくらい時間が過ぎたのか。

 痛みに浮かされていると「親方」と誰か男の人が大声で話しているのが聞こえました。

「家に来るなと言い渡しただろう」「そうは言っても話をしなきゃ始まらないんで」「おまえみたいな」「駒子様はどう言っているんで」「瀬田の娘がそそのかしたんだ」「金はいただきますからね」「馬鹿なあんな化け物」……

 途切れ途切れに聞こえました。

 そのうちわたしは気が付きました。

「親方」ではない方の男の声。あの夜、わたしの部屋に忍んできたあの声に間違いないものでした。

 結局「親方」は相当なお金をあの男から巻き上げることができたようです。

 わたしをこの部屋に座らせていたのは、き見をさせるためでした。あの男や他にも何人も。わたしの容貌を確かめさせて、幾らで買うかを競わせていたそうです。

 勉強や習い事をさせたのも、その為でした。

 わたしに手をあげなかったのも、わたしに傷が付くのを嫌ったからです。だから頬を引っかいて見せたときに、あんなに狼狽うろたえたのでしょう。

「おまえは化けもんになっちまったが、それならそれで買い手があるだろう」

 わたしが起き上がれるようになったときに「親方」が教えてくれました。

 随分な饒舌じょうぜつ。お金のお陰でかなり機嫌がよいようです。

 だから訊きました。訊くのは怖かったけど、知らないのはもっと怖い。

 おねえさんはどうしていますか、と。

「おねえさん、ああ、川井の娘か。あれもむごいことだなあ」

 惨い、そうでしょう。

 地肌ごと剃り落とされた頭髪を思い出す。あれでは髪の毛は元のようには生え揃わない。

「死んじまうんだもんな、あっけないもんだよ」

 わたしは、えっ、と乗り出しました。

「おまえ知らなかったのか。いやそうか知らないよな。駒子様が使った剃刀がびててな、そっから黴菌ばいきんが入ったんだと」

 破傷風という言葉を、そのときまだ知りませんでした。だからどんなにその死に様が非道いものだったのか、わたしは、ずっと後になってわかったのです。

 そのときは、ただ死んだ、ということだけで。……

 おねえさんはあれより二時間ほど前に、駒子と吉乃にあの神社に呼び出されたそうです。

 お使いの人の話をご両親も聞いていて、嫌だと言ったおねえさんを、お父さんとお母さんがたしなめて行かせたと聞きました。

 帰りが遅いと待ちきれなくなったお母さんが、倒れているおねえさんとわたしを見つけてくれたのだそうです。

 ご両親が原田と瀬田の家に、何か言ったのか。

 それはわたしの知らないことです。

 おねえさんの亡骸なきがらは、瀬田のお寺に葬られたのか、それもわたしの知らないことです。

 いいんです。知りたくはありません。

 死んでまで、いいえ殺されてまで、そんな。

 駒子は吉乃に、吉乃は駒子に。それぞれ誘われたから断れなくて、と話したそうです。

 お互い、あいつのせいで、と。……

 ……

 焼けただれたわたしの顔は、左の額と頬に掛けてこんなふうになりました。前髪も、ここから半分生えてきません。視力は残りましたが、まぶたがこうでしょう? 見えると思いますか?

 構いませんよ。見てください。どうぞ、存分ぞんぶんに。……

 ああ、それから、ですか?

「親方」の元から逃げました。

 まとまったお金が、かなりの額ありましたから。

「親方」は用心深いのか間抜けなのか。原田の家長から巻き上げたお金を、金庫にも入れず銀行にも預けず、胴巻どうまきに仕込んでいたのです。肌身離さず、というやつですね。

 だけど風呂には入ります。

 そのすきに抜き取って、わたしはあの家から逃げました。今度は靴を履いて。

 もちろんすぐに気付いたでしょうね。

 わたしは死に物狂いで走りました。

 おねえさんが話してくれた、あの町を目指して。

 道筋は何度も聞いていました。月明かりが味方をしてくれました。

 原田などとは違い「親方」には村人を動かす力はありません。せいぜいあの家にいる子供達に命じるくらいでしょう。わたしよりも小さかった子供達。箱の中のあの子はどうしたでしょうね。

 わたしは逃げました。

 まだここのつでした。

 非道い痛みがぶり返すのをこらえて走りました。

 山道を無事に越え、学校のあるという町に着いてからは髪で顔を隠し、鉄道の駅から汽車に乗って、おねえさんが話していた大きな町を目指しました。……

 ……

 わたしは警察には行きませんでした。

 新聞社にも行きませんでした。

 大きな町に着いたとき、わたしを助けてくれる人に出逢えたからです。

 駅から出て、まごまごしていたわたしを見つけてくれた人。

 「お嬢ちゃん、大丈夫?」

 思わず振りあおぐと髪が流れて、隠していた火傷やけどのところがき出しになりました。

 声のぬしは顔色ひとつ変えないまま、

「怪我をしているの?」

 と言いました。

 おねえさんが初めてわたしに掛けてくれたもの同じ、その言葉……

 ……

 そうしてわたしは、今、こうしているのです。

 あなた達、まだ仲良しなのですね。驚きました。てっきりあのことから仲違なかたがいしたものとばかり。女学校に通っているそうですが、毎日どう過ごしていますか。

 何にせよ、ふたりが一緒にいてくれてよかった。

 手間がはぶけました。

 暴れないでください、傷が付いてしまいます。

 大丈夫、この剃刀は新品です。

 わたし、腕も確かなんですよ。上手に剃れます。だからじっとしててください。

 髪の毛なんていらないですよ。その美しい顔は余すことなく皆様に見ていただきましょう。

 あなたも。なんて滑らかな白い肌。髪の毛で隠れているのは勿体もったいないです。

 ねえ、わたし、あなた達に相応ふさわしい綺麗な名前を考えたのですよ。

 蝶のように美しいあなたには、蝶にちなんだお名前を。

 雪のように白い肌のあなたには、雪にちなんだお名前を。

 ……

 今、なんと言いました?

 神様に、助けを求めるのですか。

 あなた達が? なんて矛盾むじゅん。笑われますよ。

 教えてあげますね。

 神様なんていないんです。

 神様なんていない。

 いなかった。

 呼ぶのなら、お父様ではないですか。

 仏様を呼ばないのですか。

 わたし、知っています。

 神様は、いないんです。……

 さあ、もうお話はお仕舞しまいですよ。……

 …………



 副題──『脳ミソ相撲「遡」』

  

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二少女へと伸びる魔手 黒実 操 @kuromimi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ