過去
目を細めて気持ちよさそうに喉を無らし続ける黒猫の背中を、自分の愛猫のように撫でながら、私の質問に答える。
「あたしね、獣医目指してたんだ」
「え」
意外な答えに、素っ頓狂な声が出て、黒猫が薄目を開けたがすぐに目を瞑った。高橋先生に撫でられて気持ちよさそうな猫と、猫を撫でて心底幸せそうな高橋先生を見て合点がいった。
「あたし、小さい頃から動物が好きだったから」
白衣を身にまとった高橋先生は想像するに容易かった。慈愛に満ちた表情で、診察台に乗せられた犬や猫に優しい声かけをしながら診察する姿がありありと脳内に映し出される。
猫カフェに来たときから彼女の猫に対する接し方を見てきたから言えるけど、はまり役の職業だと思う。反対に今の高橋先生は、時折見せる聡明さは除いて、弁護士さんには見えないと思うことの方が多い。
「何でいきなり弁護士に方向転換したんですか?」
司法試験が日本最難関の試験であることくらいは私も知っている。そんなに難しい試験を通るくらいの頭があるのなら、獣医の免許を取るのも彼女にとっては苦ではなかったはずだ。
「動物も好きだけど、人間も好きってことに気がついたから」
高橋先生の顔が僅かに翳っている。昏い雰囲気をまとった彼女を私は初めて目の当たりにした。彼女の猫を撫でる手が、さっきとは違ってぎこちなくなっている。黒猫は相変わらずマイペースに喉を鳴らしているけど。
私が触ろうとすると、するりと避けて逃げてしまう猫のように高橋先生も、過去に触れようとする私をうまくかわそうとする。そうされると、余計に気になった。
動物好きな社長令嬢は、獣医を夢見た。けれど、何らかの理由があって畑違いの職種である弁護士になった。弁護士は基本的に、犯罪者と関わる仕事だ。先生の過去に、〝犯罪〟が何かしらの形で絡んでいるような予感がした。
知ったところで、何がどうなるかの話ではなく、人生を捨てて、擦れてしまった私のような人間ですらをも惹きつける聖女を作り上げた背景を知りたかった。美しい芸術作品を生み出す作家そのものに憧憬を抱くのと同じ理屈で。
「獣医って動物を診る仕事ですよね? なら、何で人間の医者にはならなかったんですか?」
「鋭い突っ込みだね」
高橋先生が、負けを認めて苦笑いする。参ったなと言わんばかりに首の後ろに手をやったそのとき、店員さんがおずおずと近づいてきて遠慮がちに、そろそろ時間だと私たちに告げる。
私は内心、ほっとした。猫は可愛いけど、猫に好かれる才能が致命的にないらしく、癒しを提供するはずの猫カフェは、私をほんのり疲れさせた。
店員さんにコロコロを受け取り、私たちは衣服にまとわりついた猫の毛を粘着テープで絡め取る作業に追われる。
「裁判まであまり時間がないから、明日はユリちゃんと一緒に
片足を上げて、足の裏にコロコロしながら忙しない口調で高橋先生が言う。そうだ、私たちの関係性は弁護人と被告人なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。波が引いていくように私の昂りは冷めていく。それでもこの先に起こるかもしれない何かを期待してしまう。
「わかりました。大丈夫です。よろしくお願いします」
コロコロを身体に這わせながら、ちらっと私の顔色を伺った高橋先生は私に告げた。
「今日はウチで休もっか」
喜びと安堵を悟られないように、俯き加減で頷いた。喫茶店を二店舗はしごして、これ以上また別な場所へ言っても純粋に楽しめないほど私は休息を欲していたし、高橋先生の家で起こり得る何かを私は期待していてそれが垂涎するほど欲しくて仕方がないのだ。
本来ならば自己申告しないといけないことなのに、私は高橋先生に言わせた。自分で言い出した末に嫌われるのを恐れて。こういういい加減で無責任な質だから、クスリの快楽に操縦桿を握られてしまうのだとわかってはいるけれど。
「ね、背中向けて。コロコロしてあげる」
「そんなについてますかね?」
背中に猫の毛が付着するようなことがあった覚えはあまりない。けれど、私は、高橋先生の言葉に素直に従う。彼女が何かの過ちで私の身体に触れる可能性があるかも知れないことを期待して。
背中を転がるのは粘着テープの塊なのに、そこに高橋先生の意思を感じた。私を一人の人間として扱ってくれている、そのことが粘着テープの転がし方からして伝わってくる。これ以上、大切に扱いようのないボロボロ人間のクズだというのに。しかも好み好んで、そうなったということを知ったうえで。
突如、背後から両肩に手を置かれたことが理解できた。何事かと振り向く間もなく、片耳に熱を感じた。自分のものではなく、他人のだと直感したときには遅かった。
「あたしと仲良くなったら、もっといろいろ話してあげるね。過去のこと、とか」
と耳元で囁かれ、声がした方向に首を曲げた瞬間、
「んふふ」
ほんのり悪戯っぽい笑みを浮かべた高橋先生の顔が接近する。
「!?」
何をされたか頭で理解する前に、唇に柔らかいものが、ぷに、とぶつかり、私の唇の弾力に弾き返されたその感覚が全身を駆け抜けた。
頬に、耳に、そして全身が熱を帯び始める。
「えええぇぇぇ!?!?」
一瞬何が起こったかわからず放心状態になりながら目を白黒させる私に、
「まだ仲良くない人には、教えたくないな〜」
悪戯っぽく言いながら、前に回り込んだ高橋先生が、上半身を屈ませて私の顔を覗き込んだ。澄んだ瞳、重力に従って落ちるサラサラの髪、そして健全な女子から漂う類の甘い香り、私はいま、〝楽園〟にいる。
高橋先生が私にキスした瞬間から、目に映る全ての世界が〝楽園〟と化した。
無数の猫たちから、湧き起こる鳴き声は天使の祝福に違いなくて、私に懐いてくれない猫が愛おしく思えて仕方がなかった。
るりちゃんに穿たれたい もものかおり @momonokaori93
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