誘い
保釈制度について何も知らない私に、高橋先生が説明をしてくれた。
「保釈金っていうのは、裁判所に預けるものなの。芸能人が1000万とか2000万とか払ってるってニュースで見たことあると思うけど、あれは正確には裁判所に預けてるの。だから、裁判が終わったら1000万円だとか2000万だとかはキチンと返ってくる。で、お金ない人はそもそも預けられないじゃんってなるけどさ。ここがミソでさ。日本保釈支援協会ってところが、保釈金を貸してくれるのね。ユリちゃんみたいにお金がない人に、日本保釈支援協会が保釈金を立て替えてあげる。そうするとユリちゃんは保釈される。で、裁判が終わったあとに裁判所から返還された保釈金を日本保釈支援協会にそっくりそのまま返す、ってワケ」
「へぇ……」
「ユリちゃんは一銭も出す必要はないから、何も心配しないで」
「はい……ってか、ユリちゃんって」
名前で呼ばれるのが嫌というわけではないが、名前呼びされるほどの関係が構築されていないので、そこは突っ込みどころではあった。
突っ込みながら、この女弁護士さんに対して、初めて自発的に笑った気がする。
「ごめんごめん。あたしね、可愛い女の子は初対面でも下の名前で呼んじゃうクセがあるんだ」
可愛いと言われて思わず、髪に手をやった。
容姿の中で髪が一番マシだと思ったから。
根本が黒くなり始めている私の髪。
ブリーチしたあとに赤色に染めていたのだが、赤色が殆ど抜けてしまい、金色とピンク色がまだら模様みたいに散らばって醜い私の髪は、私の精神を上手く表現してくれている。
俯きながら「いやいや」と否定しつつも、お世辞として受け流せるほど私は人馴れしていない。
ドギマギする私を、高橋先生が興味深そうに見つめてくる視線を感じる。
顔を上げると、案の定目が合った。楽しそうに微笑み返された。ずっと凝視されていたわけではなく、たまたま視線がかち合ったという感じだった。彼女は礼儀正しい。そう感じる。
純粋な瞳に射抜かれてしまいそうになった私は、慌てて目線を逸らした。
「んふふ。ユリちゃんの供述調書を読む限り、今回が初犯で前科も前歴もない良い子ちゃんだから、保釈請求は通ると思う。で、ここから先が問題だね」
〝良い子ちゃん〟という響きをくすぐったく感じながらも、私は訊いた。
「裁判ですか?」
「刑務所……行きたくないよね?」
「まあ、うーん……」
社会と刑務所、どちらかマシな方に逃げればそれだけでいい、というのが私の本音だ。というか、どちらがマシなのか私にはわからない。
「さっき言った通り、ユリちゃんは今回が初犯で前科も前歴もなし。だから執行猶予は勝ち取れると思う。ただ、薬物で執行猶予の判決を勝ち取るとなると社会に出て〝コウセイ〟する見込みがあることを裁判官に分からせなければならないのよね」
「コウセイ……ですか」
コウセイって、〝更生〟のことだよね?
悪い人が立ち直って真人間になること。
確かに私は、更生が必要な状態だ。
……そのことは、なんとなくはわかる。
けれど。
でも、どうやって?
そもそも私が立ち直れる可能性なんてあるのか?
「保釈されたら、あたしとちょっと遊ばない?」
「……へ!?」
私と目が合った高橋先生が
「変な意味じゃないよ。街に繰り出して映画観たりゲームセンター行ったりメイドカフェでお茶したりさ」
遊ぶ。
街で。
女の人と2人で。
優しい眼差しを宿しながら、私の返事を気長に待ってくれている彼女の顔を観察した。
太いのに、ボサボサじゃない眉毛。
ネコのように大きな両目。
整った鼻梁。
きっといい香りがほのかにするだけのリップクリームしか塗られていないであろう、血色のいい唇。
敵意を全く感じない、中性的で幼い顔立ち。
おそらく伸ばしっ放しであろう、毛先が不揃いながらもツヤツヤでサラサラのボブヘア。それを、かるく頬杖をついた方の手の指に絡ませている。
こんなに綺麗な女の人と。
「デートするってことですか?」
「うん。まあ、そうだね」
私の弁護人は、まぶたを伏せながら、楽しそうに笑う。
幸福な人がする、笑い方だ。
唐突な提案に違いなかった。
にも関わらず、私の胸がいまにも踊り出そうとしている。
彼氏に叩き込まれたクスリがもたらす快楽物質とは違って、純粋で混ざり気のない本物の幸福感情が脳内を満たしていく。
この感覚は、久々のものだ。
「あたしと遊んだら、もしかしたら社会に落っこちてた希望のカケラが見つかって、それをユリちゃんが拾ったら『刑務所ヤダっ!!!』って気持ちになるかもしんないじゃん。そしたら更生の気持ちが芽生えて、自然と社会に溶け込むための行動につながる。ちょっと乱暴な綺麗事だけどね。いま、ユリちゃんは刑務所と社会、どっちでもいーやどーでもいーや状態になってると思うんだ〜」
〝訟廷日誌〟というタイトルの革製のスケジュール帳を、ぱらぱらぱらとめくりながら、私の本心をさりげなく探り当ててくるこの女弁護士は聡明だと思った。
「連絡先きいていい? 保釈が通ったら、スマホ返してもらえると思うから。そのタイミングであたしから連絡するよ」
私から聞いた連絡アプリのIDが書き込まれた訟廷日誌をリュックサックに仕舞い、面会室を出るために立ち上がる。
「ただ、保釈するために条件みたいのがあって……。ユリちゃん、ナイショクは得意?」
〝ナイショク〟という言葉に、どきりとする。さっきまで浮足立っていた心境が陰り始める。
まさか、保釈金を立て替えてもらう代わりに働かなければならないのだろうか。
「内職はないです。コンビニでバイトしたことはあるけれど、一ヶ月経たずに辞めちゃいました」
「そっかそっか。あのね、保釈請求の条件として身元引受人が必要になる。彼氏さんは、残念ながら刑務所行きの可能性が高いんだ。営利目的だと、ね。それに彼氏さんは大麻から始まり、覚せい剤、LSD、MDMAなどなどオールラウンダーの密売人だから、懲役も数年は覚悟しないといけない。だから、彼氏さんを身元引受人にすることはできない……となると、家族になるけど、供述調書を読ませてもらった限りユリちゃんは親御さんとも絶縁していて、ご兄弟もいない。さて身元引受人をどうするか。そこであたしから提案。形だけだけど、A型作業所っていう施設の職員さんを身元引受人にさせてね。A型作業所っていうのはね、内職みたいな作業を1日に4時間するだけで月に10万円もらえるなかなかいい場所なんだけどさ、」
「あっ……あのっ、私、その、働くとか……そういうことは考えられないです」
アクリルガラスが邪魔をして、それ以上高橋先生には近づけなかった。
私は一般的な社会に出て働くことが、壊滅的に向いていない。
過去のトラウマを思い出し、焦燥により心臓が静かに暴れ始める。
心と身体が、労働することを拒絶している。
皆が普通にできることが、私にはできない。
できない……。
学校で上手く行かなかった私は、社会に期待していた。
けれど、社会は私を強く突き放した。
社会は弱い人間をほっとけないと言いながら、あっさりと見捨てるのだ。
都合の良い建前を盾にして。
泣きそうになっている私がいる。
そして同じくらい、怒っている。
ささくれだった精神世界で、サイケデリックカラーの暴力的な感情がぶちまけられる。
秩序のない、終わりのない営みは私を窮屈で孤独な檻へ閉じ込める。
この場にクスリがあれば。
良いのにな。
マリファナでもアイスでも罰でもなんでもいい。ほしいほしいほしい。
「だぁーいじょーぉぶ」
高橋先生の明るい声で、ぶり返し始めた薬物への欲求が霧散する。
「実際に働く必要はないよ。あくまでカタチだけ」
べっ――。
そう言いながら、いたずらっぽく舌を出す。
プルオーバーのお化けと、持ち主、同じカオをしてる。
なんかそういう漫画なかったっけ?
ともかく、高橋先生に救われた。
「身元を保証してくれる人がいないと、万が一被告人に逃げられたり証拠を隠されたときに裁判所として示しがつかないでしょ? いわゆる体裁ってやつ」
素直に頷く私。
「ってか、働くか働かないかはユリちゃんが決めればいいことじゃん。社会に出るか出ないかを選択する権限はユリちゃんにある。かといって、社会に出たくないからといって刑務所に行く必要はない。生活保護をもらいながら、〝安全〟なお家に引きこもりながらゲームしまくる人生ってのも正解のひとつではあるよね」
「はい」
「……べつに敬語なんか使わなくていいんだよ?」
「……はい」
「また、裁判終わったら、いろいろ考えよ?」
「……はい」
高橋先生に出会うまで、私には社会復帰するという選択肢がなかった。
ほんの一分、三十秒でさえも。
それなのに今、私はこうして〝更生〟に向かって舵を切ろうとしている。
高橋先生の、〝言葉〟を羅針盤にして。
操縦士が彼氏から高橋先生に変わる。
私は、それをどこかわからんところから傍観する。
「あ、でも保釈されたら私、住むところが、ないです……」
「泊まればいいじゃん。判決までの間、泊めてあげるよ。うるさい妹がいるけど、それでもいいなら、ね」
「いや、すごく嬉しいですけど、私、ヤク中ってやつですよ!? 怖く……ないんですか?」
は? なにそれ、とでも言いたげに、高橋先生が乾いた笑い方をした。けれど私を責めている訳ではないことが伝わってくる。
「少なくとも、ユリちゃんはいま、普通にあたしと会話できてる。薬物中毒の人たちの1日のルーティンって、大体、ユリちゃんとおんなじ。たとえば、午前7時に目覚めのシャブを一発、最高にアガった気分のところで午前8時朝食としてのマリファナ、シャブ打つと食欲なくなるのはユリちゃんも知ってるでしょ、で、午前8時15分にマリファナ吸ってから歯磨き、その後仕事して10分休憩中に煙草吸いに行く同僚を尻目にトイレでこっそりマリファナ、お仕事頑張って残業せずに上がろうと画策していたところ、午後5時、上司に何か言われてムカついたからとりあえずマリファナ吸って……風呂入ってテレビドラマ見ながらエクスタシー噛み砕いて、シャブ打って追いLSDでラリっていつの間にか知らない人とキメセクした後、泥のように眠る……みたいな感じで日常の中に薬物が自然と溶け込んじゃうのね。だから、意外とフツーの人多いよ? ってか、フツーの人ばっかだよ」
「…一体、誰がモデルなんですか?」
「あんま言えないけど、今まであたしが出会った、薬物で捕まった被疑者や被告人の生活をキメラにしてみた! ちょっとオーバーだったかな」
「けど、万が一、私が急に暴れ出したらどうします?」
「ユリちゃんが暴れたら、押さえつけるから安心して」
嗜虐的な光を瞳に宿らせて、高橋先生が昏く微笑んだ。
ほしいほしい、この人が、私の日常に溶け込めば……!
クスリは要らなくなるのかな?
じゃあ、またね。
友達にするような軽さで、別れの挨拶をしながら手を振り、瑠璃子先生が背を向け、面会室を出るためにドアへ向かう。
拘置所に来て始めて、人間的な暖かさに触れた。
ああ、もう帰っちゃうんだ。
もっと話していたい。
黒ストッキングに包みこまれた脚に穿いた、細い脚が際立つショートパンツ……に見惚れながらも、さっき抱いた暖かい気持ちが冷め始めていることに気がついた。
それはクスリが切れたときの感覚に酷似していた。
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