フォーゲルヴァイデ家、追放される

第1話 なにかの欠けた世界で

 何かが足りない、この世界には決定的に。

 火の焼べられていない暖炉を囲んでいるような熱のなさが、いつだってこの身の中心から消えない。それは、自分の趣味に合うものばかりで作り上げられた、16年間生まれ育ったこの部屋で、好みの濃さと温度で淹れたお茶を飲み、着心地の良いドレスを着て、体に合わせて作ってもらった椅子に腰掛けて、心から信頼する従者の帰りを心待ちにしているときでさえ。

 蔦の葉を模した縁取りの窓から見える空はいつも通りの曇天。風が強いのか、枯れかけた木の細枝が揺れている。曇天と雨と雪、それ以外の空を、少女はほとんど知らないのだから、それはこの心の晴れなさの理由ではない。

 とんとん、と騒がしくはなく、しかしはっきりと存在を主張するノックの音が鳴った。

「フィリアお嬢様、ただいま戻りました」

 きりりと硬質な声に、部屋の主である少女、フィリアはその表情からさっと憂いを隠した。

「おかえりなさい、エム。入りなさい」

「失礼致します」

 無駄な騒音を一切立てることなく重厚なドアが開き、タキシードスタイルの執事服を纏った長身の女性が入ってくる。黒豹のようだ、とフィリアはいつも思う。首元で結んだ艶やかな黒髪は長い尻尾のようだ。凜とした、という形容詞に、執事、エムの印象は集束する。

「お嬢様がご所望の本ですが、こちらで間違いございませんか?」

「ええ、ありがとう。図書館まで寒くはなかった?」

「良い馬を使わせていただきましたので、寒さなど感じる間もありませんでした」

「さすがね。先日兄上が行かれた時は朝出て行かれて、お帰りになった頃には日が暮れていたわ」

「きっとどの本になさるかでお悩みになられたのでしょう。アルベルト様もお勉強熱心な方でいらっしゃいますし、一度に借りられるのは10冊まででございますから」

「ふうん?」

 ティーテーブルに置かれた本は11冊あるというのに、涼しい顔でエムは言う。並ぶ題名は歴史、地理学、政治経済など多岐に及ぶ。そのうちの1冊、『茶会』と書かれた背表紙に、フィリアは目を留めた。

「……今日もお嬢様は、物憂げでございますね」

「そうかしら、なにも不満はないのだけれど。少しでも私を喜ばせたり驚かせようとしてくれるあなたのような忠義者もいるのに、暗い顔をしているなんて贅沢だわ」

 フィリアは笑って、その本を手に取った。その厚さの本にしては明らかに軽いそれの中からは、微かにからからと音がする。

「これは、あなたが私と一緒に楽しむために持ってきてくれた11冊目なのでしょう?」

 エムはその表情の読み取りにくい切れ長の目に、フィリアであればわかる程度の微笑みを浮かべた。

「流石でございます」

 表紙に偽装された蓋を開ければ、中には丁寧にアイシングされたクッキーが2枚。そのうちの一枚を手に取り、じっくりと眺める。咲き誇る花々の模様が、一輪一輪、花びらの一片に至るまで丁寧に描かれている。きっとデザインした人物は、さぞ花の美しさに感動したのだろう。あるいは、見たこともないそれへの憧れを込めたか。

「座って。まだポットにお茶があるわ。少し冷めてしまっていて申し訳ないのだけれど」

「いえ、私が」

「いいのよ。労らせてちょうだい」

「ありがとうございます。では」

 忠実な従者は形ばかりの遠慮を一度は示して、実質素直に聞き入れる。

 戸棚から一人分のカップとソーサーを取り出してお茶を注ぎ、クッキーを添えてエムの前に置けば、恭しく一礼し、お茶を口にした。フィリアもクッキーを半分に割り、口に運ぶ。甘い香りがいっぱいに広がり、自然と口角が上がった。それを確認し、エムもクッキーを口にする。

「……お嬢様はよくおっしゃいますね。『そんなの贅沢だ』、と」

 エムの言葉に、フィリアは顔を上げず答える。

「事実だからよ。こんな世界だというのに、食に事欠くどころか、お菓子をいただく余裕さえある。あなたも、お父様もお母様も、兄上もお兄様も、みんな私を心から愛して下さる。これ以上何かを望むなんて贅沢よ」

 偽りはない。こんな幸せの中に、どうして自分がなんかが包まれているのだろうと思うほどに恵まれている。生まれてからずっと、愛されたことしかないはずなのに、時折そんな疑問に駆られる。

 だというのに、常に心のどこかに穴が空いているような感覚がなくならない。

 なにかが決定的に足りないのだ。物質的に満たされていても、どれだけ愛されていても、どれだけ愛していても、それに疑いなんか微塵もなくても。

 元を辿れば王家と同じルーツに辿り着くと言われる名門、フォーゲルヴァイデ伯爵家の3兄妹の末っ子たる令嬢、それがフィリア・フォン・フォーゲルヴァイデの立場だ。家柄や経済状況のみならず、人格者ばかりの家族に囲まれて育ち、これ以上恵まれた生活を送る者が、この世界にどれだけいるだろうか。

 だから、絶対にこの心の空隙を、他人に悟らせてはいけないと思って生きてきた。そんな強欲な人間だと知られなくなかった。これだけ愛してくれる家族を悲しませたくなかった。けれど、エムを含めた家族は気づいているし、きっと隠しきれずに様子に顕れてしまっているのだろう。学園で周囲の生徒達に馴染みきれず、うっすら孤立してしまっているのは、たまたま同学年に平民や下級貴族の子女が多いが故の育ちの違いによるものだけではおそらくない。

「……ところでエム、お兄様がどこにおいでか知らない? さっきお茶に誘おうと思ったのだけど見当たらなくて」

「イデア様でしたら、旦那様と神殿に出向いておいでです」

「そう。最近多いわね。……お父様のお加減は、そんなにお悪いのかしら」

 仮にフィリアが不幸だと人前でこぼしても許されるとすれば、父の健康状態についてであろう。もとよりあまり丈夫な質ではなかったが、ここのところ目に見えて顔色が悪く、寝込んでいることが多い。伯爵家当主としての役割のうちのいくつかを長男のアルベルトに引き継がせてはいるが、まだ年若く、酸いも甘いも噛み分けた立ち回りは到底できない彼では代われないことも多々あり、完全に隠居して療養に専念することができない。勿論医者にもかかりはしたが薬石が奏功しているとは言い難く、残されている手段は『教団』による『奇蹟』ぐらいのものだ。

 この世界は、『世界樹』と呼ばれる、とてつもなく大きな樹の根の上に存在する。

 人も、動物も、植物も、すべての生命の力の源は世界樹そのものであり、死したものは土となり樹に還る。世界樹が青々と生い茂る限りこの世界には多様な生命が栄え、樹が枯れる時、すべての命は弱っていき、やがて絶える。

 『教団』は世界樹の上に広がるこの世界において、その力を引き出し、超自然的な『奇蹟』を起こせる唯一の存在だ。

 人々の病や怪我を治したり、荒れ地に麦を実らせたり、干魃に見舞われた地域に雨を降らせたり、人間の技術力では実現できない『奇蹟』の効果は多岐に及ぶ。庶民も貴族も王族も、『教団』に寄進し、願いを伝え、『奇蹟』を起こしてもらう。他の何者にも扱えない、門外不出の秘術。

 世界樹が枯れゆき、終わりつつあるこの世界でせめてなんとか今このときを生きるため、人は教団の『奇蹟』に頼る。日に日に土地は痩せ、大気が澱み、水が腐りゆくこの世界では、最早『奇蹟』なしで生きていくことはできない。それが延命処置でしかないことがわかっていても、せめて少しでも長く、楽に生きたいと人々は願う。

 ふと馬車の車輪の音が聞こえ、フィリアは窓から下を覗き込む。その隠しきれない憂いのある顔にぱっと生気が満ち、目がぱっと輝いた。

「お兄様! お父様!」

 窓を開け、玄関に続く階段の下に着けられた馬車に向かって呼びかける。左右から支えられながらよろよろと降りてきた初老の男性は顔を上げることはなかったが、片側から父を支える柔らかな茶色い髪の青年はその声にフィリアを見上げ、ひらひらと手を振った。3階であるこの部屋の高さから表情が見えるわけでもないのに、優しく笑っていることが、どうしてかその立ち姿からも伝わる。

「出迎えに行きましょう」

「ずっとご一緒に暮らしておいでですのに、本当にお嬢様はご家族が大好きでいらっしゃいますね」

「当然でしょう」

 優雅に、それでもできる限りの早足で部屋を出て行くフィリアを、エムはそれ以上の俊足でしなやかに追い抜き、当たり前のようにエスコートする。

 2階から1階へ続く大きな円状の階段を半分も降りたところで、外套を執事に手渡す青年の姿が目に入ると、フィリアは顔いっぱいに笑みを満たして彼に駆け寄った。

「おかえりなさい、お兄様!」

「ただいま、フィリア」

 フィリアの3歳差の兄にしてフォーゲルヴァイデ家の次男、イデアは、穏やかという概念に青年の姿を与えたらこうなるだろう、と思わせる佇まいで笑った。

 ふわふわした髪の毛にアーモンド型の大きな焦げ茶色の目や骨張ってない輪郭は、全体的に柔らかな印象と親しみを感じさせるが、よく見るとそのバランスは非常に整っていて、兄ながら美男であるとフィリアは思う。見るだけで、人をどこか温かい気持ちにさせる。似ていないわけでもないのに可もなく不可もない顔の自分とは何が違うのだろう。別に見た目を武器に玉の輿を狙う必要があるような立場ではないので実害はないけれども。身長は高くはないが手足は長く、身振り手振りの大きさはその感情を言葉よりも雄弁に語る。

「お寒い中、神殿への参拝、お疲れ様でした」

「僕が一番暇だからね」

「お父様は?」

「もう寝室にお連れしたよ」

 そう言って微笑むイデアは、しかしすぐに顔を曇らせて、周囲を見回し、フィリアの耳元で小さく囁いた。

「……父上が参拝なさるのは、多分、今日が最後になると思う」

 ぎりぎり聞こえた小さな声が、はっきりと震えていた。

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