第11話 血濡れのスニーカーと、最高記録の嘘

夏祭りが近づくにつれて、街は少しずつ浮き足立っていた。

 商店街には提灯が吊るされ、コンビニには花火セットが並ぶ。


そんなある日の夕暮れ時。

 私は、陽に呼び出されて、河川敷のグラウンドに来ていた。


「悪いな、碧。付き合わせちゃって」


陽はジャージ姿で、念入りにストレッチをしている。

 部活を離れてからも、彼女はこうして一人で自主練を続けていた。誰もいない河川敷の土手。ここなら、幽霊部員の彼女が走っていても、誰にも文句は言われない。


「いいけど。足の調子、どうなの?」

「ん?ああ、絶好調だぜ!今日はなんか、自己ベストが出そうな気がするんだ」


陽は屈託なく笑って、その場で軽くジャンプしてみせた。

 でも、私には分かっていた。

 彼女が着地した瞬間、顔を一瞬だけ歪めたのを。


「無理しないでよ。明日はスタジオ練習もあるんだから」

「分かってるって。一本だけ。一本走ったら帰るから、タイム測ってくれよ」


陽は私にストップウォッチを預けると、スタートラインについた。

 風が止まる。

 彼女の背中が、すっと伸びる。

 その姿は、かつて陸上大会で何度も見た、誰よりも速く、誰よりも美しいエースの姿そのものだった。


「位置について、よーい」


パンッ。

 私が手を叩くと同時に、陽が飛び出した。


速い。

 魔法を使っていない生身の身体でも、彼女の走りは風のようだ。

 地面を蹴り、腕を振り、ぐんぐんと加速していく。


あともう少し。

 五十メートル地点を過ぎたあたりで、彼女のスピードが最高潮に達しようとした、その時だった。


「っ!?」


陽の身体が、ガクンと大きく傾いた。

 何かに足を掴まれたように、右足が動かなくなる。

 バランスを崩した彼女は、勢いを殺せないまま、激しく地面に叩きつけられた。


ザザーッ!!


乾いた土の上を、彼女の身体が滑っていく。

 見ていられないほどの派手な転倒だった。


「陽!!」


私はストップウォッチを放り投げて駆け寄った。


「陽!大丈夫!?足!!」


陽はうつ伏せに倒れたまま、動かなかった。

 ジャージの膝部分は破け、そこから赤黒い血が滲み出ている。擦り傷なんてレベルじゃない。皮膚がえぐれ、土と砂利がめり込んでいる。

 痛い。見ているだけで痛い。


でも、もっと深刻なのは右足だ。

 彼女は右のふくらはぎを両手で抱え込み、脂汗を流して震えていた。


「ぐ、ぅ……あ、ああ……」


声にならない呻き。

 筋肉が断裂したかのような激痛。魔法の代償による過負荷が、限界を超えたのだ。


「救急車呼ぶ!?それとも紬先輩に……」

「だめ!」


陽が、私の袖を掴んだ。

 泥だらけの手。


「呼ぶな。ただの、転んだだけだから」

「でも!」

「大丈夫、大丈夫だから」


陽は痛みに顔を歪めながら、無理やり身体を起こした。

 膝からの出血が、足首へと伝っていく。

 彼女は震える手で膝の砂を払い、そして――笑った。


「かっこ悪いなー。石につまずいちゃったよ」

「タイム、どうだった?途中まで結構速かったろ?」

「碧。ほら、血が出ちゃった。名誉の負傷ってやつだな」


彼女は自分の傷を指差して、おどけてみせる。

 その痛々しさに、私は言葉を失った。


彼女は気づいている。

 もう、二度と以前のようには走れないことに。

 この脚は、大人の燃料として使い潰され、もうボロボロのガラクタになってしまったことに。


それでも彼女は認めたくないのだ。

 認めてしまえば、自分のアイデンティティが崩壊してしまうから。


「……速かったよ」


私は、嘘をついた。


「すごく速かった。転ばなかったら、間違いなく自己ベストだったよ」


私の言葉に、陽は心底嬉しそうに目を細めた。


「だろ?やっぱりなー!僕の脚はまだ鈍っちゃいないぜ!」


陽は私の肩を借りて、よろめきながら立ち上がる。

 右足を引きずっている。体重をかけられないのだ。


「帰ろうぜ、碧。あーあ、バンドの練習までに治るかなー」

「治るよ。魔法少女なんだから、これくらい」


夕日が、私たちの長い影を作る。

 陽の影は、片足を引きずって、いびつな形に揺れていた。


夕日が、私たちの長い影を作る。

 陽の影は、片足を引きずって、いびつな形に揺れていた。


翼を折られたエース。

 彼女の夏は、もう終わろうとしていた。


(続く)

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