第2章 14歳の夏、やりたいことリスト
第7話 不協和音と、初めてのスタジオ
駅の反対側、雑居ビルの地下にある貸しスタジオは、カビと煙草の混じった独特の匂いがした。
防音扉の向こうからは、他の部屋で練習しているバンドの重低音がドンドコと漏れ聞こえてくる。
普段の私たちなら絶対に足を踏み入れない、大人の秘密基地のような場所。
「うわ、狭っ。ていうか湿気すごくない?」
ましろが、鼻をつまみながら文句を言う。
彼女の目の前に鎮座しているのは、中古ショップで激安で販売されていたキーボードだ。文句を言いつつも、セッティングは誰よりも早い。
「まあまあ、ましろちゃん。一時間五百円なんですから、贅沢言えませんよ」
紬先輩は、慣れない手つきでギターを抱えている。
真っ赤なストラトキャスター。おっとりした彼女には似合わない攻撃的な色だが、「初心者は形から入るのが大事です!」と店員に乗せられて買ったものだ。ストラップが長すぎて、ギターの位置が膝くらいまで下がっているのが微笑ましい。
「よし!みんな準備いいかー!?」
ドラムセットの奥から、陽の元気な声が飛んでくる。
彼女はTシャツの袖を捲り上げ、スティックを器用に回してみせた。
様になっている。運動神経のおかげか、あるいは「形から入る」才能があるのか。
そして私は、重たいベースを肩に担いでいた。
大剣に比べれば軽いものだが、弦の感触はまだ指に馴染まない。
「とりあえず音出してみようぜ! 曲はまだ練習してないから、ジャムセッションってやつだ!」
「ジャムって何?美味しいの?」
「ノリだよ、ノリ!いくぞ、ワン・ツー・スリー・フォー!」
陽のカウントに合わせて、私たちは一斉に楽器を鳴らした。
ジャァァァン!!
ドゴォ! ピロロロ! ボン。
ひどいものだった。
リズムはバラバラ。音程は滅茶苦茶。
ましろのキーボードだけが正確な電子音を奏でているが、そこに紬先輩の調律の合っていないギターが被さり、陽のドラムが走りすぎて全てを置き去りにしていく。私のベースに至っては、どのタイミングで弾けばいいのか分からず、ただ低い音で唸っているだけだ。
音楽じゃない。ただの騒音(ノイズ)。
敵である『ノイズ』の方が、まだマシな音を出すかもしれない。
演奏?が止まると、スタジオに微妙な静寂が流れた。
「……うん。解散する?」
ましろが真顔で言った。
それに耐えきれず、最初に吹き出したのは紬先輩だった。
「ふ、ふふっ……あはははは! ひどい、ひどすぎます私たち!」
「だ、だってリズム速いんだもん陽!」
「違うよ、みんなが遅いんだってば!」
「あはははは!」
つられて、陽も、ましろも、そして私も笑い出した。
腹を抱えて、涙が出るほど笑った。
上手く演奏することなんて、どうでもよかった。
ただ、こうやって四人で同じ時間を共有して、バカみたいな音を出して笑い合えること。
それだけで、胸がいっぱいだった。
「はー、笑った。腹痛てぇ」
陽が涙を拭いながら、ドラムスツールに座り直す。
スタジオの薄暗い照明の下、彼女の笑顔は、ステージライトを浴びているよりも輝いて見えた。
「でもさ、なんかいいな。こういうの」
「まあね。悪くはないかも」
ましろが少し照れくさそうにキーボードの鍵盤を叩く。
ポーン、と澄んだ音が響く。
「私、上手くなりますからね。文化祭では、みんなをあっと言わせちゃいますから」
紬先輩がやる気満々でギターの教則本を開き始めた。
私はベースのネックを握りしめる。
指先に伝わる弦の感触。スタジオの匂い。みんなの笑い声。
五感を、記憶を、総動員してこの瞬間を焼き付ける。
あと三十日。
あと何回、このスタジオに来れるだろう。
文化祭の本番、私はそのステージに立てないかもしれない。
それでも、今この瞬間、私がここにいて、みんなと笑っている事実は嘘じゃない。
「よし、もう一回! 次はもっとマシにするぞ!」
「おー!」
陽の掛け声に、私たちは拳を突き上げた。
再び鳴り響く不協和音。
けれどそれは、私にとって世界で一番愛おしい音楽だった。
一時間の練習を終えて、スタジオを出ると、外はまだ明るかった。
夏の夕暮れ。
ひぐらしの声が遠くで聞こえる。
「あー、喉乾いた!炭酸飲みたい!」
陽が自販機に駆け寄る。
小銭を探しながら、彼女はポケットから一冊のノートを取り出した。
可愛らしいファンシーな表紙のノート。
「何それ?」
「ん? これか?『夏休みにやりたいことリスト』だよ」
陽は誇らしげにノートを開いてみせた。
そこには、丸っこい文字で、箇条書きのリストが書かれていた。
☑ みんなでバンド練習する
□ みんなで海に行く
□ 新しい浴衣を着る
□ 夏祭りで一番デカい花火を見る
□ 最高の曲を作る
□ 大人になるまで生きる
一番上の項目に、赤ペンでチェックが入っている。
そして、一番下の項目。
『大人になるまで生きる』
陽は、ペンのキャップを口で外しながら、一番上の項目を指でなぞった。
「一つクリア!次は海だな、海!来週あたりどうだ?学校のプールじゃなくて、ちゃんとした海!」
「いいねぇ。新しい水着、買わなきゃ」
紬先輩が乗り気になる。
私は、陽のノートから目が離せなかった。
やりたいことリスト。
それは、未来への希望のリストだ。
彼女は信じているのだ。このリストを全部埋めて、大人になれる未来が来ることを。
私の視界の右端にある黒い靄が、少しだけ濃くなった気がした。
三十日。
私の残された時間は、このリストを全部叶えるのに、足りるのだろうか。
「碧、どうしたの、海は嫌い?」
「ううん」
私は首を横に振って、精一杯の笑顔を作った。
「行こう、海。絶対楽しいよ」
「だろ!? よーし、じゃあ次は水着選びだな!」
陽が私の背中をバンと叩く。
その痛みすら、今は愛おしい。
私は心の中で、静かに誓った。
このノートの項目を、一つでも多く叶えよう。
たとえ、最後の一つだけは、絶対に叶わないとしても。
(続く)
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