第1章 偶像の求心力 第8話 永遠の偶像

その惨劇を、真希はホテルのベッドの上で眺めていた。

リリスとしての勝利。だが、彼女の胸を満たしていたのは、勝利の美酒ではなく、荒れ果てた砂漠のような喪失感だった。

ナイトとの密会は続いていた。

だが、配信で見せていたイメージと違うと罵る男、暴力的な態度を隠そうともしない男が、混じり始めていた。

「……なによ、これ。私は、女神じゃなかったの?」

肌には覚えのない痣が増えていく。

精神を保つため、真希はアダルトグッズを使った、さらに過激な配信へと傾倒していった。

しかし、本職のAV女優やプロの風俗嬢が次々と参入するSNSの戦場で、素人の「エロ売り」はすぐに限界を迎える。

数字は頭打ちになり、残ったのは、擦り切れた肉体だけだった。

帰宅すると、健太がリリスの動画を眺めながら、独り言を漏らしていた。

「このリリスって女、マジでエロいな。お前もこれくらいサービスしてくれりゃいいのに」

真希は、目の前の男が自分自身に欲情していることにすら気づかない、その滑稽さに、笑い声さえ出なかった。

さらに、彼女が「自分より下」だと見下していた由香が、皮肉な形で光を浴び始める。

ソープ嬢としての過酷な現場や、男たちの醜い本音を赤裸々に綴った由香の「リアルな独白」は、大衆から「偽りのない叫び」として支持を集め、急速に人気を伸ばしていた。

かつて自分が「記号」として完成させたリリスは、今やネットの嘲笑の的。

一方で、自分より下にいたはずの由香は、真希が切り捨てた「リアル」を武器に輝いている。

鏡に映る佐藤真希は、うねった髪と荒れた肌をした、ただの「空っぽな女」だった。

真希は震える指で、リリスのアカウントに表示された「削除」ボタンを見つめる。


【ゲームへの棄権は認められません】


画面には、無常な一文が表示された。

運営による「断罪」の波は、さくらの中の人々を粉砕したあと、当然のようにリリスにも牙を剥いた。

画面には、佐藤真希の氏名、年齢、勤務先の住所、そしてナイトと密会していたホテルのロビーでの防犯カメラ映像までもが、鮮明に映し出されていた。

「……あ」

翌朝、真希が会社に行けるはずもなかった。

出社する前に、上司から「一度話を」とだけ書かれた冷徹なメールが届き、同僚たちのグループチャットからは一斉に退会させられていた。

身勝手な露出と、ナイトとの密会を繰り返した「堕ちた女神」。

その正体が、地味で冴えない事務員だったという事実は、ネット住民にとって最高の玩具だった。

会社を追われ、四面楚歌となった真希のスマホに、一通のメッセージが届く。

由香からだった。

『真希、大丈夫? 大変なことになっちゃったね……。あ、これ見て! 来月、担当と箱根の高級スイート予約しちゃった! 奮発して新しい下着も買ったんだ。見て見て、可愛くない?』

添付されていたのは、ブランド物の紙袋と、真希がリリスとして纏っていたものより、遥かに高価で上品なランジェリー。

由香は相変わらずホストに利用され、底の抜けたバケツに金を注ぎ込んでいる。

それでも彼女は、「今、この瞬間」を誰よりも生々しく、幸せそうに謳歌していた。

真希が軽蔑していた「搾取される女」は、真希が失ったすべて――他者との繋がりや、明日への期待――を、その手に握りしめていた。

真希に残されたのは、自分を「景色」としか思っていない健太だけだった。

「おい、ネットで見たぞ。お前、あんなことしてたんだな」

健太はニヤニヤと下卑た笑いを浮かべ、真希の髪を乱暴に掴む。

「会社もクビだろ? まぁ、俺が置いてやってるうちはここに居させてやるよ。その代わり、今まで以上に尽くせよ。リリスなんだろ?」

以前の真希なら、その傲慢さに耐えられなかっただろう。

だが今の彼女は、健太のシャツの裾を震える指で掴み、縋り付くことしかできなかった。

「捨てないで……。どこにも行かないで、健太。私、何でもするから」

彼に捨てられれば、この世から完全に消えてしまう。

事務員Aという記号を失い、リリスという偽神を破壊された彼女にとって、健太の冷酷な執着だけが、唯一自分を縛り付けてくれる鎖だった。

生活費を稼ぐため、真希は夜の街の最底辺へと沈んでいく。

かつてリリスとして、画面越しに男たちを跪かせた誇りは、今はもうない。

選んだのは、本名も源氏名も、誰一人として気に留めない激安のデリヘルだった。

「名前?……佐藤、です」

偽名を使う気力すらなく、本名を名乗る。

だが、客は返事すらしない。彼らが求めているのは「佐藤真希」という人間ではなく、ただの「肉」としての機能だけだ。

若さという鮮度が落ち、精神が摩耗した真希が、この業界で生き残る術は、本職の女たちですら顔を背けるような、自傷に近い過激なサービスを受け入れることだけだった。

脂ぎった男の体を受け入れながら、真希はホテルの天井を見つめる。

リリスとして虚像の玉座にいた時間は、遠い前世の記憶のようだった。

今、自分を抱いている男は、かつてリリスにチップを投げた信者かもしれない。

あるいは、自分を嘲笑った「さくら」の運用チームの一員かもしれない。

だが、そんなことは、もうどうでもよかった。

名前を失い、記号を失い、ただの「使い捨ての肉」へと成り果てる。

佐藤真希の「物語」は、ここで冷たく、無機質に完結した。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る