第9話
「……いいか、一度しか言わねえから、その耳にしっかり叩き込め」
家守家のリビング。俺は畳の上で、額を擦り付けるようにして正座していた。
目の前には、腕組みをしてソファに深く腰掛ける魔王(義兄)と、その膝の上で「あぶー」と無邪気に笑う赤ちゃん。そして、隣でケラケラと笑い転げている金髪のミカさん(姉)。
そして、俺のすぐ隣には、顔を真っ赤にして同じく正座しているリリさん……いや、妹の「凛(りん)」さんがいた。
「まず、俺の嫁はこのミカだ。このガキは、俺とミカの子供。……で、こいつはミカの妹で、保育士の試験に受かったばかりの、正真正銘の独身だ」
魔王――義兄の悟(さとる)さんが、呆れたように吐き捨てた。
「妹がな、うちの育児を手伝うために住み込みで来てくれてんだよ。ミカが夜の仕事に復帰したから、俺が送り迎えして、その間、妹が家で子守をしてる。……わかるか? 誰が誰を搾取してんだ、あぁ?」
「……も、申し訳ございませんでした!!」
俺の声が震える。
つまり、こういうことだ。
ベランダに干してあった派手な下着は、姉のミカさんのもの。
夜の店でドレスを着ていたのは、姉が急病の時に妹が「リリ」として一度きりの約束でヘルプに入っていただけ。
そして彼女が「主人が、夜はいなくて……」と言ったのは、姉と義兄がセットで出かけていたから。
すべて。すべてのピースが、俺の「こうあってほしい」という歪んだ妄想によって、悲劇の不倫ドラマへと改竄されていたのだ。
「あー面白い! でもさ、あんたマジで凄かったわよ? 『あんな男に搾取させてたまるか!』だっけ? うちの旦那、あれ以来ずっと『俺、そんなに悪い顔してるか?』って鏡見て落ち込んでんだからね!」
ミカさんが腹を抱えて笑う。俺はもう、このまま畳に吸い込まれて消えてしまいたかった。
「……あの、佐藤さん」
隣から、消え入りそうな声がした。凛さんだ。
恐る恐る顔を上げると、彼女は耳まで真っ赤にしながら、膝の上の拳をぎゅっと握りしめていた。
「私……嘘をつくつもりはなかったんです。指輪をしてなかったのは、保育園の仕事で傷をつけたくなかったからで。それに、佐藤さんが一生懸命助けようとしてくれるのが、その……」
凛さんは、潤んだ瞳で俺をじっと見つめた。
「……少し、嬉しかったんです。本当の私を見てくれてる気がして」
「え……?」
「佐藤さん、私のこと『救いたい』って言ってくれましたよね。不倫とか、勘違いじゃなくて……一人の女性として、あんなに必死に。……私、あんな風に言われたの、初めてで」
リビングに、静かな時間が流れる。
ミカさんと悟さんが顔を見合わせ、ニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「おい、佐藤。お前、レンタカーまで借りて連れ出す準備してたんだろ?」
悟さんが、わざとらしく低い声で俺を追い詰める。
「……はい」
「落とし前、つけてもらうぞ。あいつをあそこまで勘違いさせた責任、取れ」
「責任……ですか?」
「ああ。……今度は、勘違いじゃねえ『デート』に連れてってやれ。これ以上あいつを赤面させたら、今度こそキムチの具にするからな」
俺は、呆然と凛さんの顔を見た。
彼女は、はにかむような、でも最高に幸せそうな、あの天使の微笑みを浮かべていた。
「……佐藤さん。今度は、逃げるんじゃなくて……普通に、お出かけしませんか?」
二十七歳の夏。
俺の「史上最大の勘違い」は、世界で一番甘い「恋の始まり」へと、大逆転を遂げた。
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