第8話
決行の日は、皮肉なほどに晴れ渡っていた。
俺は朝からレンタカーのワゴン車をマンションの裏手に配備し、自室でその時を待った。
(いいか、佐藤。これは犯罪じゃない。救出だ。人道支援なんだ)
自分に言い聞かせ、俺は隣の二〇二号室のインターホンを、壊れんばかりの勢いで連打した。
「……はーい? あ、佐藤さん?」
出てきた彼女は、Tシャツに短パンという、いつになくリラックスした格好だった。相変わらずその腕には赤ちゃんが抱かれている。
「家守さん、時間がないんです! 今すぐ必要なものだけまとめてください!」
「えっ? え、何、どうしたんですか?」
「逃げるんです! 僕と一緒に!」
俺は困惑する彼女の肩を掴んだ。
彼女の瞳に、驚きと戸惑いが広がる。
「あの魔王……いえ、旦那さんの支配はもう終わりです! あなたが夜の街でドレスを着て、無理な笑顔を作らなきゃいけない生活なんて、僕が全部終わらせてみせる! 僕が、あなたとこの子を、死ぬ気で幸せにします!」
「……佐藤さん、落ち着いてください。あの、主人は……」
「主人の肩を持つ必要なんてない! あんな男に、あなたの人生をこれ以上搾取させてたまるか!」
俺は彼女を抱き寄せる勢いで、必死に訴えかけた。
彼女の頬が朱に染まり、潤んだ瞳が俺を見つめる。
「……佐藤さん、私……そんなに一生懸命、私のことを……」
「一生懸命どころじゃない! あなたの指に指輪がないのを見た時から、僕は……!」
その時だ。
「……あーあ。こりゃ、盛大に盛り上がってんなぁ」
背後から、凍りつくような低い声が響いた。
振り返ると、そこにはスーパーの袋を両手に下げた魔王(義兄)が、虚無のような表情で立っていた。
「ひ……っ! 旦那……!」
「佐藤。お前、昨日言ったよな。刺し違えてでも、ってよ……」
魔王がゆっくりと一歩踏み出し、スーパーの袋を地面に置いた。
俺は彼女を庇うように前に出る。終わった。今日こそ本当にキムチの具材にされる。
ところが、その緊迫した空気を、場違いなほど高い笑い声が切り裂いた。
「アハハ! ちょっと何これ、ドラマの撮影!? ヤバいんだけど!」
廊下の向こうから、カツカツとヒールを鳴らして歩いてくる人影。
派手な金髪、ミニスカート、そして俺がベランダで見たあの「赤い下着」を彷彿とさせる、ド派手な格好をした美女。
「……え、お姉ちゃん?」
彼女――リリが、呆然と呟いた。
「お……姉ちゃん?」
俺の脳内で、バラバラだったピースが、とんでもない音を立てて組み合わさり始めた。
「そうそう、リリの姉のミカでーす! あ、そこのデカいのが私の旦那ね。……で、あんたが噂の、うちの妹を誘拐しようとしてる王子様?」
金髪の美女は、ニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んできた。
「…………え?」
俺の口から、魂の抜けたような声が漏れた。
魔王は深い溜息をつき、金髪の妻に言った。
「……ミカ。こいつ、本気でリリを救い出すつもりだったらしいぞ。俺がリリを監禁して夜の店で働かせてる悪党だと思ってやがったんだ」
「爆笑! リリ、あんた愛されてんじゃん!」
俺の視界がぐにゃりと歪む。
魔王は旦那ではなく、義理の兄。
彼女は奥さんではなく、独身の妹。
赤ちゃんは彼女の子ではなく、姉の子。
そして夜の店は――。
俺は、あまりの恥ずかしさと衝撃に、その場に膝をついた。
「……あ、あ、ああああああ……!!!」
二十七歳の夏。
俺の「命がけの不倫」は、人類史上最も恥ずかしい「ただの勘違い」として、爆辞の結末を迎えようとしていた。
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