第6話

「佐藤、今日は接待だ。気合入れろよ。都内でも指折りの店を予約してあるからな」

​ 上司のその言葉に、俺は重い腰を上げた。

 正直、隣の家守さんのことで頭がいっぱいで、酒を飲む気分ではない。だが、会社員としての付き合いも重要だ。

​ 連れて行かれたのは、華やかなシャンデリアが輝く高級キャバクラだった。

 重厚な扉が開くと、香水の香りと共に、非日常の空間が広がる。

​「ここは新人のリリちゃんが最高なんだ。品があって、最近何度か姉の代わりに……いや、ヘルプで入ってるんだけど、客の間で話題になっててさ」

​ 上司が鼻の下を伸ばしながら語る。俺は適当に相槌を打ちながら、差し出されたおしぼりで手を拭いた。

​「お待たせいたしました」

​ その声を聞いた瞬間、俺の全身が凍りついた。

 ゆっくりと顔を上げると、そこには豪華な漆黒のイブニングドレスに身を包んだ「彼女」が立っていた。

​「……っ!?」

​ いつもの保育士らしい慎ましいエプロン姿ではない。

 大胆に露出した白い肩、丁寧に巻かれた黒髪、そして照明の下で妖艶に輝く瞳。

 家守さん――リリは、俺の姿を認めると一瞬だけ目を見開いた。だが、彼女はプロだった。すぐに完璧な営業スマイルを作り、俺の隣に腰を下ろした。

​「初めまして。リリです。よろしくお願いしますね……佐藤さん?」

​ 囁くような声。グラスに添えられた細い指先。そのすべてが官能的で、俺は心臓が口から飛び出るかと思った。

 上司が取引先と盛り上がっている隙に、彼女は俺にだけ聞こえる小さな声で耳元に口を寄せた。

​「佐藤さん……ここで会うなんて、驚きました。……今日のことは、内緒ですよ?(保育園の仕事もあるので)」

​ 吐息が耳をくすぐる。

 彼女が夜の店で働いている。その事実が、俺の脳内で最悪の形に変換されていく。

​(……なんてことだ。昼間は保育園で働き、赤ちゃんの面倒を見ながら、夜はこんな店にまで出ているのか!?)

​ 実際は、姉(金髪ギャル)の店が急な欠員で困っており、妹の彼女が数回だけ「リリ」として助けに入っているだけなのだが、今の俺には「搾取される悲劇の妻」にしか見えなかった。

​(あの魔王……! 自分は家でキムチを漬けてブラブラしているくせに、彼女に三足の草鞋を履かせているのか!? 彼女のこの美しいドレス姿は、あの男の贅沢のためにあるというのか!?)

​ 義憤が、沸点を超えた。

 目の前で微笑む彼女の、ドレスのスリットから覗く脚が痛々しく思える。

​「家守さん……無理、してませんか?」

「えっ……? ふふ、大丈夫ですよ。私、これでも結構、頑丈なんです」

​ 健気に笑う彼女。その強がりが、より一層俺の独占欲と救済欲を刺激する。

 店を出た後、俺は上司たちを先に行かせ、ビルの影で彼女を待った。

​「佐藤さん、まだいらしたんですか?」

「家守さん。僕は……僕は、あなたがあんな男に虐げられているのを見ていられません!」

「え? あの、主人……あ、お兄さん……」

​ 彼女はまたしても、魔王のことを庇うように言葉を濁した。

 その優しさが、俺を狂わせる。

​「もう我慢できません。家守さん、僕が……僕があなたを、あの地獄から連れ出します!」

​ 暗い夜道、俺は彼女の白く細い手を、強く握りしめていた。

 この時の俺は、自分がどれだけ滑稽な勘違いをしているのか、まだ一分も理解していなかった。

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