第5話

その夜、街は重苦しい熱気に包まれていた。

 不意に、部屋の灯りがふっと消え、唸りを上げていたエアコンが沈黙した。

​「……停電か?」

​ 窓の外を見ると、街灯も信号も消えている。広範囲の停電らしい。

 静まり返ったマンション。その静寂を切り裂いたのは、隣室から聞こえる、火がついたような赤ん坊の泣き声だった。

​(……家守さん!)

​ 魔王(旦那)は今夜も「仕事」で不在のはずだ。真っ暗闇の中、彼女が一人で怯えている姿が目に浮かぶ。俺はキャンプ用のLEDランタンを掴み、廊下へ飛び出した。

​ 隣のドアの前で躊躇していると、内側から勢いよくドアが開いた。

​「……あ、佐藤さんっ!」

​ ランタンの光に浮かび上がったのは、あまりの暑さに耐えかねたのか、肩を大胆に出した薄手のキャミソールワンピース姿の彼女だった。

 乱れた黒髪、鎖骨に光る汗。ランタンの逆光で、彼女の柔らかな肢体のシルエットが透けて見える。

​「すみません、怖くて……。それに、あの子が暑がって泣き止まなくて……」

「大丈夫です、家守さん。これ、使ってください」

​ 俺たちは、より風通しの良い、リビングの窓際に並んで座った。

 闇の中で、ランタンの淡い光だけが二人を照らす。密室、熱帯夜、そして彼女の甘い石鹸の香り。

​「佐藤さんの手……冷たくて、気持ちいいです」

​ 赤ちゃんの汗を拭くのを手伝う際、彼女の指先が俺の腕に触れた。火照った彼女の体温が、直接俺の脳に突き刺さる。

 彼女は不安を紛らわせるように、小さな容器を取り出した。

​「あ、すみません。少し粉を……」

​ 彼女は自分と赤ちゃんの首筋や胸元に、パフでベビーパウダーを塗り始めた。

 白く舞う粉が彼女の鎖骨に溜まり、じわりと汗に溶けていく。そのあまりにも無防備で、官能的な光景から、俺は目を逸らすことができなかった。

​(人妻だ。隣の旦那の奥さんなんだ。落ち着け、俺……!)

​ 必死に理性を繋ぎ止めようとする俺の耳元で、彼女がふと、吐息混じりに囁いた。

​「……こんな格好、主人に見られたら怒られちゃう。佐藤さん、今夜のこと……主人には内緒ですよ?」

​ 彼女にとっては「だらしない格好を見せたこと」への気恥ずかしさだったのかもしれない。だが、今の俺には、それが**「真夜中に二人きりで過ごした秘密の共有」**にしか聞こえなかった。

​「……はい。僕たちだけの、秘密です」

​ その時、マンションの電力が復旧し、部屋中にパッと灯りが点いた。

 明るくなった部屋で、乱れた自分の格好を自覚したのか、彼女は顔を真っ赤にしてワンピースの裾を整えた。

​「あ、あの……ありがとうございました! おかげで助かりました!」

​ 逃げるように帰っていく彼女の背中を見送りながら、俺は膝から崩れ落ちた。

 もはや、ただの「隣人」としての同情ではない。

​ 俺は、彼女を奪いたいと思っている。

 あの魔王から、この天使を。

​ ――だが、翌週。俺のそんな「救済者気取り」を根底から揺るがす、さらなる衝撃の現場を目撃することになる。

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