第4話

その日は、朝から風の強い日だった。

 休日、ぼんやりとベランダで洗濯物を干していた俺の顔面に、それは音もなく、だが強烈な勢いで張り付いた。

​「ぶふっ!? ……な、なんだ、これ」

​ 視界が真っ赤に染まる。手に取って、俺は石像のように固まった。

 それは、鮮やかな真紅の。そして極限まで布面積が削ぎ落とされた――いわゆる「勝負下着」というやつだった。

​「……っ!!?」

​ 慌てて隣のベランダを盗み見る。

 そこには、風に激しく煽られる二〇二号室の物干し竿。そこには、俺が知る「清楚な家守さん」のイメージとは真逆の、派手で攻撃的なデザインの衣類が並んでいた。

​(……そんな、馬鹿な。家守さん、あんなに慎ましい人なのに、夜は……夜はこれを!?)

​ 実際は、夜の仕事に向かう姉(金髪ギャル)が、妹に洗濯を頼んで干してあっただけなのだが、今の俺にそんな正論は届かない。

​(そうか……わかってしまった。あの魔王だ。あの男が、彼女の趣味でもないこんな格好を強要しているんだ! 彼女は、あんな男を繋ぎ止めるために、あるいは無理やり……)

​ 手の中にある「赤」が、彼女の流す血の色に見えてくる。

 これを放っておくわけにはいかない。だが、直接渡すのは変態だと思われる。……いや、すでに手に持っている時点でアウトか。

​ 葛藤の末、俺は意を決して、隣のインターホンを押した。

 数秒後、ドアが開く。

​「あ、佐藤さん! すみません、何か飛ばしちゃいましたか?」

​ 出てきた彼女は、よりによって「エプロン姿」だった。

 お花柄の、いかにも保育士らしい慎ましい装い。その清潔感と、俺の手の中にある「暴力的な赤」のギャップに、脳がバグりそうになる。

​「あ、あの、これ……ベランダに……落ちていたので……」

「わあ、ごめんなさい! それ、姉……あ、あはは。本当にお恥ずかしい。わざわざありがとうございます!」

​ 彼女は顔を真っ赤にして、ひったくるように下着を受け取った。

 「姉」という言葉は、彼女の照れ笑いにかき消された。

​(……今、「姉」って言おうとして、言い直した? やっぱり、自分のものだと認めるのが恥ずかしかったんだな。それとも、家庭内の恥部を隠そうとしたのか……!)

​ 彼女の健気な嘘(という誤解)が、俺の胸を締め付ける。

​「家守さん! あの、無理はしないでください。僕にできることがあれば、なんでも……!」

「えっ? あ、はい。……佐藤さんって、本当に心配性なんですね」

​ 彼女は不思議そうに首を傾げた。その無防備なうなじに、ほんのりと汗が滲んでいる。

 その時、部屋の奥から魔王の野太い声が響いた。

​「おい、いつまで喋ってんだ! 早くこっち来い!」

「あ、はーい! ……すみません、佐藤さん。主人が呼んでるので」

​ バタン、とドアが閉まる。

 俺は冷たい廊下で、一人立ち尽くした。

​ あの魔王。彼女にこんな恥ずかしい思いをさせておいて、さらに高圧的な態度を取るなんて。

 俺の心の中で、何かが音を立てて切れた。

​(助けなきゃ。このままじゃ、彼女の心が壊れてしまう)

​ しかし、この時の俺はまだ知らない。

 「赤」の衝撃など、これから訪れる「真夜中の密室」の事件に比べれば、まだ序の口だったということを。

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