第3話

その日の仕事は全く手につかなかった。

 頭の中にあるのは、指輪のない彼女の細い指と、魔王が作った「尖った味」のキムチのことばかりだ。

​(きっと、精神的に追い詰められているんだ。指輪を外すことで、せめて心だけは自由でいたい……そんな悲痛な叫びに違いない)

​ 定時退社を決め込んだ俺は、夕食の買い出しのために近所のスーパーへ立ち寄った。そこで、俺の「運命」はまたしても交差する。

​「あ……佐藤さん」

​ 惣菜コーナーの隅で、半額シールを待っているかのように佇む彼女を見つけた。

 大きな買い物カゴの中には、お徳用のオムツと、野菜の切れ端。そして、これ見よがしに置かれたレトルト食品。

​「家守さん! 奇遇ですね」

「ふふ、本当ですね。佐藤さんもお買い物ですか?」

​ 彼女の笑顔は相変わらず聖母のようだが、その目の下にはうっすらとクマがあるように見えた。

 レジを済ませた彼女の買い物袋は、驚くほど重そうだった。買い物袋二つに、腕には赤ちゃん。

​「持ちます! 家まで、僕が持ちますから!」

「えっ、悪いですよ。すぐそこですし」

「ダメです! こんなに重いもの、女性が一人で持つなんて……!」

​ 俺は半ば強引に袋を奪い取った。……重い。この重さは、彼女が背負っている人生の重さそのものに感じられた。

 マンションまでの帰り道、沈黙に耐えかねて俺は禁断の質問を投げかけた。

​「あの……旦那さんは? 今日はお仕事、遅いんですか?」

​ 彼女は一瞬、困ったように視線を泳がせた。

​「ええ……主人は仕事が忙しくて。特に夜は、いないことが多いんです。だから、いつも家では私一人で……」

「一人で……?」

「はい。この子と二人きりなので、少し心細い時もありますけど……慣れちゃいました」

​(……確信した。あの魔王、夜な夜な彼女を放置して遊び歩いているんだ!)

​ 実際は、義兄(魔王)が夜勤の姉を車で送り迎えし、そのまま家事や買い出しを手伝っているだけなのだが、俺の脳内フィルターを通すと「ネグレクト夫による孤立無援の妻」という地獄の縮図に変換される。

​「そんなの、あんまりだ……。家守さんは、こんなに頑張っているのに」

「えっ?」

「……いえ、なんでもないです。とにかく、何かあったらすぐ呼んでください。隣なんですから」

​ マンションの玄関に着き、俺は祈るような気持ちで彼女に袋を渡した。

 その時、彼女がふと、僕の顔を覗き込むようにして言った。

​「佐藤さんって……本当に、お優しいんですね。……ありがとうございます」

​ 夕闇の中で、彼女の頬が少しだけ赤らんだように見えた。

 それは、暗い洞窟の中で一筋の光を見つけた迷子のようでもあった。

​ 自室に戻り、俺は暗いリビングで一人、拳を握りしめた。

 あの魔王に、彼女を独り占めする資格なんてない。

​「守らなきゃ……俺が、彼女とあの子を……」

​ 二十七歳、独身。

 俺の初恋は、不倫という名の「救済」を掲げて、後戻りできない領域へと足を踏み入れた。

​ ――しかし、翌朝。

 そんな俺の決意を嘲笑うかのような「赤い衝撃」が、ベランダから舞い込んでくることになる。

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