第2話

引っ越して三日が過ぎた。

 俺の心は、いまだに隣の二〇二号室に囚われたままだ。

​ 壁一枚隔てた向こう側からは、時折「おぎゃあ」という赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。

(……また泣いてる。家守さん、一人で大丈夫かな。あの魔王、ちゃんと手伝ってるんだろうな?)

​ そんな不安を抱えながら、俺は気分転換にベランダへ出た。

 五月の風が心地よい。……はずだった。

​「……おい」

​ 心臓が口から飛び出るかと思った。

 ベランダの仕切り板のすぐ向こうから、あの低い声が響いた。

 視線を向けると、手すりに肘をつき、鋭い眼光でこちらを睨む魔王(旦那)がいた。

​「ひ、ひいっ! あ、佐藤です! すみません、別に覗いてたわけじゃ!」

「……これ、食うか?」

​ 魔王が差し出してきたのは、中身がパンパンに詰まった保存タッパーだった。

 驚いて受け取ると、中にはドロリとした真っ赤な液体に浸かった「何か」が詰まっている。

​「じ、自家製……の……?」

「キムチだ。多めに漬けすぎちまってよ……。一晩寝かせて、味が『尖って』っから気をつけろ」

​(味が尖ってる!? 殺意の隠語か!? 毒……毒が入ってるのか!?)

​「あ、あ、ありがとうございます……! 大事に、一思いにいただきます!」

「……? ああ、おう」

​ 魔王は不思議そうに首を傾げると、部屋の中へと消えていった。

 残された俺は、まるで時限爆弾でも持つかのようにタッパーを抱え、震えながら自室に戻った。

​ ――一口食べてみると、驚くほどに美味かった。

 だが、その美味さが余計に俺を絶望させる。

(……こんなに料理ができるのに、あの威圧感。家守さんはきっと、この『尖った』味を強要されて、怯えながら暮らしているに違いない!)

​ 翌朝。

 出勤しようと玄関を開けると、ちょうど隣のドアも開いた。

​「あ、佐藤さん。おはようございます」

​ 出てきたのは、家守さんだった。

 今日は薄いブルーのブラウスに、膝丈のスカート。昨日よりも少し疲れたような顔をしている。

​「おはようございます、家守さん。あの、昨日は旦那さんにキムチを……」

「ああ、お口に合いましたか? 主人が、佐藤さんに食べてもらいたいって張り切っちゃって」

​ 彼女は困ったように笑いながら、大きな荷物を抱え直した。

 その腕には、あの赤ちゃんが、今日は「お出かけ用」の服に包まれて抱かれている。

​「これからお出かけですか?」

「ええ。実は私、この先の保育園で働いていて。この子も、一緒に連れて行くんです」

「えっ、仕事中も一緒なんですか?」

「はい。……色々事情がありまして。それじゃ、行ってきますね」

​ 彼女は軽く頭を下げると、足早にエレベーターへと向かっていった。

​ 俺はその背中を見送りながら、拳を握りしめた。

 事情。彼女はそう言った。

​ 自分の赤ちゃんを職場にまで連れて行き、働き続けなければならない事情。

(……あの魔王、自分は家でキムチなんて作ってるくせに、彼女に育児と仕事を全部押し付けてるのか!?)

​ 俺の中の正義感という名の誤解が、一気に臨界点を超えた。

 家守さんは、耐えているんだ。あの暴力的な夫と、過酷な労働環境に。

​(……許せない。絶対に許せないぞ、あの魔王!)

​ その時、俺の視界に信じられないものが飛び込んできた。

 エレベーターを待つ彼女の腕。その薬指に、指輪が……ない。

​(……指輪をしていない? それって、もしかして……心が離れている証拠か!?)

​ 勘違いの暴走機関車と化した俺は、彼女を救い出すという「禁断の決意」を胸に、会社へと向かった。

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