お隣の「奥さん」に恋をした。

暇ジーン

第1話

人生には、出会った瞬間に「あ、これ終わったな」と確信してしまう瞬間がある。

 二十七歳の春。転勤に伴う引っ越し初日。

 新しいマンション、二〇一号室。俺、佐藤(さとう)の人生は、隣の二〇二号室のインターホンを押した瞬間にデッドエンドを迎えた。

​ ピンポーン。

 軽快な音が鳴り、重厚なドアが開く。

​「……ああ? 誰だ、お前」

​ 出てきたのは、人間ではなく「山」だった。

 身長は一九〇センチ近い。剃り込みの入った短髪に、彫りの深い強面。首元からは、いかにも「その筋」の人が好みそうな黒いインナーが覗いている。

​(ま、魔王だ……。隣に魔王が住んでいる……っ!)

​「あ、あの……隣に越してきた佐藤と申します! これ、つまらないものですが!」

​ 震える手で差し出したタオルセットが、情けないほどに小刻みに揺れる。魔王は俺の顔とタオルを交互に眺め、鼻を鳴らした。

​「……チッ。おい、挨拶だってよ。出てこい」

​ 魔王が部屋の奥に向かって怒鳴る。暴力的なその声に、俺は思わず身をすくめた。

 ――が、次に現れた光景に、俺の心臓は別の意味で跳ね上がった。

​「あ、すみません。今、手が離せなくて」

​ そこには、一人の女性が立っていた。

 白く透き通るような肌。控えめにまとめられた艶やかな黒髪。

 彼女は、小さな、本当に小さな赤ちゃんを大切そうに抱き上げ、俺を見て柔らかく微笑んだ。

​「ご丁寧にありがとうございます。二〇二号室の『家守(やもり)』です」

​ 時が止まった、と思った。

 鈴を転がすような澄んだ声。少し乱れた前髪を耳にかける仕草。その瞳に宿る穏やかな光。

 それは、俺が二十七年間の人生で夢想し続けた、理想の女性像そのものだった。

​ しかし、現実はあまりに冷酷だ。

 彼女の腕の中には、幸せそうに眠る赤ん坊。

 そして彼女の背後には、威圧感の塊のような「夫」が、仁王立ちで俺を睨みつけている。

​(……ああ。終わった)

​ 俺の人生、初めての「運命」を感じた相手。

 それは、出会った瞬間に「略奪」か「諦め」かを選ばされる、絶望的な既婚者だった。

​「……おい、いつまで見てんだ。さっさと帰れ」

​ 魔王の地を這うような声に弾かれ、俺は「失礼しますっ!」と叫んで自室へ逃げ帰った。

 ドアを閉め、心臓の音だけが響く静寂の中で、俺は天を仰いだ。

​ お隣さんは、幸せな子連れの若夫婦。

 常識的に考えれば、手出しなどできるはずがない。関わってはいけない。

​ それなのに。

 網膜に焼き付いた彼女の微笑みと、赤ちゃんの泣き声が、俺の胸の奥を激しく掻き乱していた。

​ この時の俺は、まだ知らなかった。

 この「家守さん」が、実は育休中の姉の代わりに、文字通り「家を護りに」来ているだけの、誠実すぎるほどに独身な保育士の妹さんだということを。

​ そして俺の誠実な「正義感」が、この後とんでもない方向へと暴走していくことを――。

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