第3話 はじめての名前

​ 湖のほとりで、夜風が二人の間を通り抜けていく。

 女性は脱いだ帽子を膝の上に置き、銀色の髪を指で軽く整えた。

「私の名前は、シルフィ。……ただの、お節介焼きな魔女よ」


​ シルフィ。その響きは、少女が今まで聞いてきたどの言葉よりも柔らかく、心地よかった。

「シルフィ……さま。とっても、素敵な響きですわ」


​ 少女は口の中でその名前を何度も繰り返した。まるでお気に入りの宝物を確かめるように。

 シルフィは微笑みながら、今度は少女の目をじっと見つめ返した。

「次はあなたの番よ、お嬢様。あなたのことも、教えてくれるかしら?」


​ 少女は背筋をぴんと伸ばした。

 数百年、誰も呼ぶ者のなかった名前。かつては誇りであり、いつしか呪いのように自分を縛り付けていた、その名を。

「わたくしは……ルナですわ。ルナ・フェリシータ・ヴァンパイア。……そう、名乗るように教わりましたの」


​ ルナ。その名が呼ばれた瞬間、止まっていた彼女の時間が、ようやく本当の音を立てて動き出したような気がした。

「ルナ。いい名前ね、きっと月の子なのね。」


​ シルフィはそう言って、ルナの小さな手をそっと握りしめた。


「ねぇ、ルナ。さっき、アンさんのことを呼んでいたわね。……彼女は、あなたのことを大切に想っていたのでしょう?」


​ アンの名前を出されると、ルナの瞳が少しだけ揺れた。


​「はい……。アンは、わたくしのわがままを何でも聞いてくれましたの。お外には出られないけれど、お部屋の中でも楽しく過ごせるようにって……。最後の日も、

『いい子にしていたら、きっと迎えは来ますから』って、笑って言いましたのよ」


​ その約束を、ルナは三百年も守り続けてきたのだ。

 シルフィは悲しげな顔をせず、ただ静かに頷いた。

「アンさんの言った通りね。あなたは最高に『いい子』にしていたわ。……だから、あとの半分は私が引き受けるわね」


​「あとの半分、ですの?」


​「ええ。これからは、『いい子』でいるのを少しだけお休みして、『楽しい子』になるの。それがあなたの、新しいお留守番の代わりの任務よ」


​ シルフィのお茶目な提案に、ルナは思わず、「ぷっ」と小さく吹き出してしまった。

「おかしな任務ですわね。……でも、シルフィさまと一緒なら、わたくし、頑張れる気がしますの」


​ 初めて見る、ルナの心からの笑顔。

 シルフィは満足げに立ち上がると、ルナに向かって恭しく手を差し出した。

「それじゃあ、改めて。……はじめまして、ルナ。これから世界中を旅して、あなたの知らない『楽しい』を全部、探しに行きましょうか」


​「はい! よろしくお願いいたしますわ、シルフィさま!」

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