第2話 計測開始、渋谷駅第一層

青白い膜は、水面みたいだった。


踏み込んだ瞬間、足首から冷たさが這い上がる。耳の奥が詰まり、外の喧騒が――切れた。

音が無い。あるのは、自分の呼吸と心臓だけだ。


視界が戻る。


そこは渋谷駅の改札前――のはずの場所だった。

けれど天井が高すぎる。蛍光灯は消え、代わりに青白い“月明かり”みたいな光が、どこからともなく降っている。床のタイルの隙間から黒い霧が染み出し、広告看板は全部、真っ黒に塗りつぶされていた。


背後を振り向いて、息が止まる。


入口だったはずの場所が、ただのコンクリートの壁になっている。

膜は、最初から存在しなかったみたいに消えていた。


「……戻れない?」


隣でスマホを横に構えた女――記録担当が、小さく唇を噛む。

「閉じた。……一方通行ね」


俺の袖が、弱い力で引かれた。


「おにいちゃん……こわい」


子どもが泣き声を噛み殺すように俺へ顔を押しつけてくる。母親は青い顔で周囲を見回し、震える手で子どもの背中を撫でていた。


膜に入る直前、母親が縋るように言ったのを思い出す。

「一緒に……行ってもいいですか」


その瞬間、選択肢が視界に浮かんだ。

置いていくか、連れていくか。


後悔修正は使えない。だからあの場で、二度とやり直せない決断だった。

俺は――連れて来た。


正しかったかどうかは、まだ分からない。

でも、置いていく選択だけは、もう取りたくなかった。あのルートを、頭の中に残したままでは。


視界の中央に、透明なウィンドウが開く。


---


【SYSTEM:渋谷駅 第一層 攻略開始】

【計測開始:00:00.00】

【踏破条件:第二層ゲートへ到達】

【帰還:不可】

【救助点:同行者の生存/保護で加算】

【後悔修正:使用不可(23:59:34)】


---


秒が、走り始めた。


計測。

つまりこの空間は、ただ生き残るだけじゃなく“速さ”まで競わせる。


女が俺の横に並び、息を吸って言った。

「私は天瀬(あませ)綾。記録する。あなたは?」


今ここで名乗る余裕があるのか。

でも、名乗らないまま死んだら――それはそれで、何かが壊れる気がした。


「……蓮(れん)」


苗字は出さなかった。出したくなかった。

現実の俺を、ここに持ち込みたくない。なのにもう持ち込んでる。


天瀬は即座に切り替えた。

「了解、蓮。第一問。目的は?」


「第二層ゲート」


即答する。迷うな。

俺は母親に低い声で言った。


「子どもを抱いて。走ると転ぶ。歩幅を合わせろ。勝手に曲がるな」


母親が必死に頷く。

子どもは嗚咽を飲み込んでいる。泣き声は、呼び鈴だ。


――その“呼び鈴”が鳴る前に。


遠くで、金属が擦れるような音がした。

闇の奥、改札の向こう側で何かが動く気配。


「来る」


天瀬がスマホを胸に押し付ける。

「撮る。でも走るなら走る」


「走る」


俺は案内板を見上げ、体を向けた。

“銀座線連絡通路”。


地上へ戻るルートは遠回りだ。地下の直線を取る。

足を出した瞬間、また文字が浮かぶ。


---


【決断点:00:06】

A:改札を突破する(最短)

B:駅員室を探す(安全確保)


---


二択。

選択肢を増やせない。Lv4じゃない。今の俺は、提示された二択を切るだけだ。


安全確保が正しい。たぶん。

でも最短を捨てた瞬間、次の決断点で“取り返しのつかない遅れ”が発生する。


俺はAを切った。


「改札を越える。ついて来い」


母親が息を呑む。

「でも……中、暗くて……」


「暗いほうがいい。見つかりにくい」


根拠は半分、直感。

残り半分は、何千回も“最短の安全”を探した経験だ。


改札機は死んでいた。バーは開かない。

だが下は、人がくぐれる高さ。


俺はしゃがみ込み、子どもを先に滑らせる。母親を引っ張り、天瀬が続き、俺が最後にくぐった。


その瞬間。


「グゥ……」


吐息みたいな唸りが、すぐ背後で重なった。


振り向く。


靄犬。

横に裂けた口。縦に細い瞳。


――一匹じゃない。闇の中に、同じ瞳が点々と浮かんでいる。


「走れ!」


声が跳ねた。

俺は母親の手首を掴んで引く。天瀬が子どもの肩を押して前へ送る。


靄犬が跳んだ。


俺は右へ斜めに切る。壁際。足元の白線を踏む。

線は滑りにくい。摩擦が残っている。


牙が空を噛んだ。

代わりに改札機のプラスチックが砕け散る音が、無音の駅にやけに大きく響いた。


「こっち!」


連絡通路は狭い。直線。逃げ道が少ない。

でも狭いからこそ、遮断が効く。


俺は壁にある赤いボックスを見つけた。非常停止。

迷わず押す。


カチッ。


上からシャッターが降り始める。駅の店舗の、防犯シャッターだ。


天瀬が驚く。

「それ、何――」


「閉める!」


シャッターが半分降りたところで、靄犬が突っ込んできた。

俺は母親と子どもを先に潜らせ、天瀬の背中を押し込む。


次に自分が潜ろうとした瞬間、シャッターの隙間に犬の爪が引っかかった。


ビリッ、と金属が歪む音。

シャッターが止まる。犬の力で。


俺の喉が乾く。

ここで噛まれたら終わりだ。今日は戻れない。


――なら。


足元に倒れていた傘立てを蹴り、転がった折り畳み傘を掴む。

金属の中棒。尖っている。


犬の顔面へ、突く。


「ギャァ!」


犬が怯んだ。その瞬間、シャッターが落ち切る。

ガンッ、と音がして通路が完全に遮断された。


俺は膝が震えているのに気づく。

でも、心は――動いていなかった。


怖いとも、気持ち悪いとも、怒りとも違う。

ただ「処理が終わった」としか思っていない。


それが、いちばん怖かった。


視界の端にウィンドウが浮かぶ。


---


【討伐:靄犬(小)×1】

【後悔蓄積:+0】


---


天瀬が息を整えながら言った。

「今の、言語化できる。『改札で視線を切って、シャッターで遮断』。……あなた、駅を“マップ”として見てる」


「駅は迷路じゃない。迷路だと思うから迷う」


口にして、気づく。

俺はもう、当たり前に“攻略”の言葉を喋っている。


通路の先が、薄く青白く揺れていた。

改札の膜とは違う、小さな結界みたいな光。


駅員室の扉に、光の縁取りがある。


---


【セーフポイント:駅員室】

【収容可能:5名】

【効果:侵入不可/簡易回復】

【注意:踏破条件の進行には寄与しません】


---


寄り道。

でも、寄り道の中に“生存”がある。


母親が縋るように言った。

「ここにいれば……助かるんですか?」


助かる、という断言はできない。

けど、今の俺に言える最大はこれだ。


「少なくとも、今すぐは死なない」


扉を押す。

中は現実の駅員室とほとんど同じだった。椅子、机、無線機、落書きだらけのホワイトボード。


違うのは、窓の外が闇で、闇の向こうに何かが蠢いていることだけ。


母親が子どもを抱いて座り、震える手で頭を撫でた。

天瀬がそれを撮る。止めようとして、止めなかった。記録は、誰かを救うためにある――そう言ったのは彼女だ。


俺が最後に扉を閉めると、光の縁が強くなり、外の闇が押し戻された。


---


【救助点:+2】

【同行者:保護状態】


---


数字が上がる。

けれど胸の温度は上がらない。


天瀬が俺に向き直る。

「ここで置いて行く?」


置いていく。

その言葉が、棘みたいに刺さる。


「置く。守るために置く」


言い換えだ。逃げだ。

それでも、今は必要な言葉だった。


天瀬が言う。

「私も行く。」


視界に、また決断点。


---


【決断点:02:18】

A:天瀬と共に進む(速度低下/救助点維持)

B:単独で進む(速度上昇/救助点低下)


---


やめろ。

こういう二択を、俺の目の前に置くな。


でも見えた以上、切るしかない。


天瀬の手は白い。怖いはずだ。それでも来ると言っている。

俺はAを切った。


「来い」


天瀬が短く頷いた。

「了解。……『救助点を捨てなかった』って記録する」


救助点。

捨てる、拾う、そんな言葉でしか語れないのが最悪だ。


俺たちはセーフポイントの外へ出る。

闇が押し寄せ、遠くで犬の群れが壁を引っ掻く音がした。


案内板の矢印を追う。

“東横線”の文字の先――そこに、薄く光る表示。


【渋谷駅 第二層ゲート】


あと少し。


だが通路の真ん中に、黒い影が座っていた。


靄犬より大きい。

背中に、改札のバーみたいな突起が生えている。

口元からは、切符みたいな紙片が垂れていた。


影がゆっくり顔を上げる。

縦の瞳が、俺を見た。


視界に最後のウィンドウ。


---


【決断点:02:47】

A:正面突破(最短)

B:迂回路を探す(安全)


【後悔修正:使用不可(23:57:13)】


---


二択。

今日の俺は、戻れない。


だから――迷うな。


俺は息を吸い、拳を握った。


「最短は、Aだ」


天瀬が息を呑む。

影が立ち上がり、渋谷駅の闇が軋んだ。

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