第6話:代筆帳
名が呼ばれぬまま数日が過ぎ、私は塾の内でも、まるで影のように扱われる存在となっておりました。呼び止められることも、叱責されることもなく、ただ「そこにいる」ことだけが許されているようでございます。
ある夕刻、机の引き出しに、見覚えのない帳面が増えているのに気づきました。
表紙には題も名もなく、ただ墨の滲みが一筋走っております。
頁を開くと、最初の一行にこうありました。
——「代筆帳」
以下には、私の字に酷似しながら、決定的に異なる筆致で、文章が書き連ねられております。
それは日記のようであり、また供述書のようでもございました。
「明治二十七年 霜月我は筆を借り、名を預けた返却は未だ半ばなり」
読み進めるにつれ、記されている出来事が、私の記憶と微妙に食い違っていることに気づきました。私がしていない選択、口にしていない言葉が、確定した事実として書かれているのです。
そして末尾には、空白の頁が続いておりました。
その余白に、うっすらと補助線が引かれております。まるで、これから書かれる文字のために。
夜更け、油灯の下で帳面を閉じようとした瞬間、私の手が勝手に動きました。
筆を取り、墨を含ませ、空白の頁へと伸びていくのです。
私は必死に抗いましたが、指先は命じられたとおり、文字を刻んでいきました。
——「本日、名を一つ預かる」
書き終えた瞬間、強い眩暈に襲われ、机に突っ伏しました。
目を覚ますと、外は白み始めております。
帳面を確認すると、昨夜の一文の下に、赤い印が押されていました。
——「受領」
その日、講義に現れなかった書生が一人おりました。
名簿から、その名が、きれいに消えていたことを知ったのは、夕刻になってからでございます。
私は理解いたしました。
この帳面は、記録ではない。
返却のための、仮受証なのだと。
そして、代筆を続ける限り、私は名を失わぬ代わりに、他人の名を預かり続けねばならないのでございます。
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