第5話:呼ばれぬ名
返却箱が消えてからというもの、寮では妙な出来事が続いておりました。
書生たちが互いを名で呼ばなくなったのでございます。あだ名や役目で呼ぶ者が増え、名を口にした瞬間、空気がひそりと冷えるのを、皆が感じ取っていたのでしょう。
私自身、講義で指名されても、声が耳に届くまでに、わずかな間が生じるようになっておりました。呼ばれたのは確かに私のはずなのに、その名が、自分のものでないように思われるのです。
ある晩、帳面を開くと、表紙に薄く文字が浮かんでいるのを見つけました。
消し跡のようでありながら、確かに書かれております。
——私の名でございました。
驚いて頁を繰ると、本文のあちこちに、同じ名が散らばっております。
講義の書き取りの合間、余白、行間。まるで、誰かが名を練習するかのように、何度も何度も。
硯に水を注いでいないにもかかわらず、墨の匂いが立ち上りました。
筆が、引き出しの中で静かに動き、穂先が、こちらを向いて止まります。
その夜、夢を見ました。
暗い部屋で、名簿の前に座らされ、名前を呼ばれるのを待っている夢でございます。しかし、どれほど待っても、私の番は来ません。頁が進み、名が一つ、また一つと消されていく中、私の名だけが呼ばれぬまま、最後まで残るのです。
目が覚めると、喉がひりついておりました。
声を出そうとしても、音になりません。
朝、同室の書生が、怪訝そうに私を見て申しました。
「……君は、そんな顔だったか」
鏡を覗くと、見慣れぬほど輪郭が曖昧で、どこか筆で擦ったような影が、頬に残っております。
名が呼ばれぬということは、忘れられるということではございません。
それは、まだ返されていないものとして、留め置かれている——。
私は悟りました。
返却は、終わっていない。
そして、その続きを書かされる役目が、私に回ってきたのだということを。
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