第4話:返却箱

名を置いて行け——。

あの文字以来、私は自分の名を口にすることを、無意識に避けるようになっておりました。誰かに呼ばれても、返事が遅れ、時に聞こえぬふりをしてしまうのです。名を呼ばれるたび、何かが削り取られるような感覚があったからでございます。


ある朝、寮の玄関脇に、見覚えのない木箱が置かれておりました。

古びた杉材で作られ、蓋には墨で二文字。


——「返却」


塾監に尋ねても、そんな箱は知らぬと言います。

誰が持ち込んだのかも分からぬまま、箱はその場に置かれました。


やがて書生たちは、使わなくなった筆や紙屑を、冗談半分にその箱へ入れるようになりました。すると不思議なことに、箱はどれだけ物を入れても、決して満ちる様子を見せないのでございます。


私は、その箱に近づくことを避けておりました。

硯の文字と同じ墨の匂いが、微かに漂っていたからです。


その日の夜、筆音が、これまでになくはっきりと聞こえました。

机の上の半紙には、既に文字が整っております。


——「足リタ」


安堵よりも先に、恐怖が込み上げました。

何が足りたというのか。私は何も返していないはずです。


翌朝、返却箱の前に人だかりができておりました。

中を覗いた者が、青ざめた顔で後ずさったのです。


箱の底に、紙片が一枚。

そこには、先輩書生の名が、名簿と同じ筆致で、はっきりと記されておりました。


しかし、名の下には、赤い印が押されていたのでございます。


——「済」


その日から、箱は忽然と姿を消しました。

誰も運び出したところを見てはおりません。


けれど夜になると、私の机の下から、空洞を叩くような音が聞こえてまいります。

まるで、何かを収める場所が、次を待っているかのように。


私は理解しておりました。

返却とは、物ではない。

名であり、時であり、そして——人そのものなのだと。


次に「済」の印を押される者が、誰であるか。

その答えが、日に日に近づいていることを、私は否定できずにおりました。

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