第2話:消えぬ筆音
硯の怪異より三日が過ぎました。
私はそれ以降、夜になると机に向かうことを避け、灯を早めに落として床に就くようにしておりました。しかし、学業を疎かにすれば郷里の期待を裏切ることになります。意を決し、再び夜更けの自習を始めたのは、月のない晩でございました。
油灯を低くし、半紙を広げます。
硯には水を張らず、筆も洗わず、念のため机の引き出しにしまい込んでおりました。
——それでも、音はいたしました。
ス、ス、と紙を撫でるような、筆の走る音。
耳を澄ますと、確かに私の背後、誰もいないはずの空間から聞こえてくるのでございます。
振り向いても、何もありません。
机の上の半紙は白いまま、筆も引き出しの中に収まったままです。にもかかわらず、音だけが、まるで目に見えぬ誰かが書き続けているかのように、止むことなく続いておりました。
耐え切れず、私は引き出しを開けました。
中の筆が、穂先を下にして、わずかに震えていたのでございます。
その瞬間、半紙の上に、淡い墨の跡が浮かびました。
最初は掠れた線でしたが、次第に形を成し、一文字、また一文字と書き連ねられていきます。
——「マダ 足ラヌ」
胸が締め付けられるようで、息が詰まりました。
足らぬとは何が。何を求めているのか。
文字が書き終えられた途端、筆音は止みました。
静寂の中、油灯の炎だけが不自然に揺れております。
翌朝、同室の書生にそれとなく先輩の失踪について尋ねました。
すると、声を潜めて、こんな話を聞かされたのでございます。
消えた先輩は、寮に残された書物や筆記具を、いくつも人に譲っていたということ。
中でも、例の硯と筆は、決して手放したがらなかった——と。
その日より、私は夜になると、筆音を待つようになってしまいました。
聞こえぬ夜ほど、胸騒ぎが強くなるのでございます。
それが、「足らぬ」ものを、私が無意識に差し出し始めている徴であるとは、まだ知る由もありませんでした。
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