夜学寮怪筆始末
鰐淵 荒鷹(わにぶち あらたか)
第1話:夜学寮の硯
明治二十七年、霜月の末のことでございました。
私が通っておりました東京本郷の私塾には、地方より上京した書生のための小さな寄宿寮が併設されており、私もその一室を与えられておりました。
夜学を終え、油灯の下で予習復習に励むのが常でございましたが、その晩はどうにも筆が進まず、硯の水面ばかりを見つめておりました。水に映る灯心の揺らぎが、まるで生き物のように歪んで見えたからでございます。
やがて、廊下の奥より、コトリ、と小さな音がいたしました。
誰かが硯を机に置くような、鈍く湿った音でございました。
不審に思い、戸を開けて廊下を覗きましたが、人の姿はございません。夜更けの寮は静まり返り、聞こえるのは遠くの時計台の音のみ。気のせいかと部屋に戻り、再び机に向かった、その時でございます。
私の硯に、見覚えのない墨痕が浮かんでおりました。
先ほどまで澄んでいた水面に、まるで下から滲み出るかのように、黒い文字が現れたのでございます。
——「返セ」
思わず硯を取り落としました。
床に散った水と墨が、畳の目に沿ってゆっくりと広がり、その形が、まるで人の手のように見えたことを、今でもはっきりと覚えております。
この硯は、入寮の折に先輩より譲り受けたものでございました。
その先輩は、半月ほど前、何の前触れもなく姿を消しております。
その夜以降、私の部屋では、毎夜必ず硯の水が減っていくようになりました。
決して、誰も触れていないにもかかわらず。
——この出来事が、私の身に起こる長き怪異の、最初であったのでございます。
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