第30話 帝国

 目を開けると、世界は暗かった。

 意識が浮上するのと同時に、頭の奥で鈍い痛みが脈打つ。朝なのか夜なのかも判然としない。ただ、天井のどこかに走った亀裂――あるいは裂け目のような隙間から、細い光が一本、埃を照らしながら垂れていた。


 身体を動かそうとして、すぐに理解する。

 両腕も脚も、硬いロープで幾重にも縛られている。関節の遊びは一切なく、呼吸に合わせて縄が軋むだけだ。


 ここは……工場の地下か。

 湿った空気。油と錆と、かすかな鉄臭。だが、視線を巡らせて、俺は息を呑んだ。


 空間の中央に据えられているそれは、明らかに“廃棄物”ではなかった。

 巨大なパイプオルガンを思わせる、荘厳で異様な機械。無数の管が絡み合い、低く、確かに鼓動している。中心には水槽のような構造体が鎮座し、装飾的な金属と配線に囲まれて、まるで祭壇の心臓部みたいだった。


 ――ここは、処刑場か。

 それとも、礼拝堂か。


 その答えを遮るように、闇の奥から、くすくすと笑う声が漏れた。

 子どもの笑い声だ。無邪気で、愉しげで、それゆえに背筋を凍らせる。


 やがて、影が動く。

 暗闇から現れたのは、制服姿の少女たちだった。数人、いや、それ以上。肩を寄せ合い、囁き合いながら、まるで見世物でも眺めるようにこちらを囲んでいる。


「……禿の渦虫、か」


 呟いた声は、やけに空虚に響いた。


 その輪の中から、一人だけが前に出る。

 黒を基調にした制服。シックで、無駄のない佇まい。どこか育ちの良さを感じさせる仕草で、彼女は微笑んだ。


「お目覚めになるのを、待っていたのよ」


 翡翠だった。


 彼女の手にあるものを見て、喉がひくりと鳴る。

 丸い――人の頭。

 乱暴に掴まれているそれは、間違いなく、スオウの頭部だった。


「……っ」


 声にならない息が漏れる。


「公認魔女……魔法少女でありながら、魔法少女を狩る者に手を貸す。下品な裏切り者」


 翡翠はそう言って、それを雑に放り投げた。

 転がったスオウの頭部は、血に汚れることもなく、まるで眠っているかのように静かだった。その無防備さが、胸を締めつける。


 翡翠はスカートを整えると、優雅な動作で俺の前にしゃがみ込む。距離が近い。香水とも油ともつかない匂いが鼻を刺す。


 彼女は、スオウに持たせていたペン型カメラを指先で摘まみ、俺の目の前に突き出した。刃物で裂かれた傷が走り、もはやただの金属片に成り下がっている。


「これで、見て、聞いていたでしょう?」


 柔らかな声だった。だからこそ、言葉が残酷に響く。


「貴方も……私の父のようになりたくなければ」


 その言葉の続きを引き取るように、別の少女が一歩前へ出てきた。

 無邪気な笑顔。場違いなほど明るい表情。彼女はバインダーとペンを手にしている。まるで街頭アンケートでも取るみたいな軽さで、俺の前に立った。


「魔女狩り課の魔女狩り官、全員の名前を教えて頂きましょうか」


 地下の機械が、どくん、と一度、大きく脈打った。


「……そうだな。さすがに手足を落とされて、ただ“生きる肉”として飼われる趣味はない。ただ――俺からも条件を一つ、いいか?」


 バインダーを抱えた少女がぴくりと眉を動かしたが、翡翠は軽く手を上げて制した。相変わらず、余裕を貼りつけたような微笑みを崩さない。


「一応、聞くだけは聞いてあげるわ」


 俺は顎で、空間の中央を示した。


「あのでかい機械だ。さっきからやけに存在感がある。どうせこの後、生きて帰れる雰囲気じゃないしな。冥土の土産に、正体くらい教えてくれても罰は当たらないだろ」


 翡翠は一度、機械のほうへ視線を投げた。巨大な管と歯車の集合体。鼓動するたび、空気がわずかに震える。それから、こちらを振り返る。


 ――語りたくて仕方がない、という顔だった。


「あれはね。“裏切り者算出機”よ」


 その言葉を、彼女は誇らしげに、噛みしめるように発した。


「友達の輪を乱す存在。裏切る可能性を孕んだ存在を算出し、召喚し、処刑するための機械。仲間の裏切りを決して許さず、必ず“首”という結果をもって証明する。そのための機構よ」


「……なるほど」


 俺は小さく息を吐いた。


「つまり、お前の“友達”になるってことは、最終的にそいつの支配下に置かれるってわけだ。少しでも裏切る素振りを見せたら、どこにいようが、即アウト。……首チョンパ、か」


「ええ。場所は関係ないわ」


「筋は通ってるな」


 思わず、感心したように言ってしまう。


「じゃあ、人造人間(ホムンクルス)が消えたのも、それが理由か。佳奈子の代わりに、あれが“裏切り者”として認識されて、ここに呼ばれた」


 翡翠の唇が、わずかに持ち上がる。


「正解。裏切り者算出機は、あの人型を佳奈子本人だと誤認した。だから召喚し、あとは機械が自動で処理しただけ。首を落とすまでわね」


「……面白いな」


 俺がそう呟くと、翡翠は一瞬、言葉の意味を測りかねたように目を細めた。


「……面白い?」


「ああ。ここまでやらないと、お前は友情を維持できないってところが、特に」


 空気が、目に見えて冷えた。


 翡翠の笑顔が、音もなく剥がれ落ちる。彼女は立ち上がり、腕を組んでこちらを見下ろした。


「――無駄話は終わりよ」


 その声には、さっきまでの芝居がかった優雅さは残っていない。


「さっさと答えなさい。魔女狩り課の魔女狩り官――全員の名前を」


「じゃあ――」


  その瞬間だった。


 翡翠の足取りが、不自然に揺れた。

 一歩、半歩、踏み直そうとして、彼女は反射的にこめかみを押さえる。


 ――立ちくらみ。

 最初は、誰もがそう思ったはずだ。


 だが、翡翠はその場に踏みとどまったまま、しばらく微動だにしない。

 揺れは収まらない。むしろ、体の内側から何かが這い上がってくるみたいに、動きが鈍く、重くなっていく。


「……どうしたの、翡翠?」


 制服姿の少女の一人が、恐る恐る声をかける。


「だいじょうぶ……たぶん……」


 翡翠はそう言おうとして、言葉を途中で切った。

 喉が詰まったように息を吸い、今度は口元を押さえる。


「うっ……」


 吐き気だ。

 隠そうとした仕草が、かえってそれをはっきりさせた。


 ついに翡翠は膝を折り、床に片手をついてうずくまる。

 制服のスカートが広がり、整えられていた髪が乱れた。


 少女たちが一斉に駆け寄る。


「翡翠!?」


 ざわめき。

 焦り。

 だが、誰も何が起きているかは掴めていない。


 ――いや。

 ひとりだけ、掴めているやつがいた。


 俺だ。


 この光景は、初めてじゃない。

 むしろ、嫌というほど見てきた。


 それが態度に出たのかもしれない。

 少女の一人が、鋭く俺を睨みつけた。


「あんた……何かしたんじゃないでしょうね!?」


「勘弁してくれ」


 俺は肩をすくめる。


「俺は呪術師じゃない。単なる縛られた囚人だ」


 だが、翡翠の異変は止まらない。

 むしろ、悪化していく。


 呼吸が浅くなり、額に汗が滲み、肩が小刻みに震えだす。

 そして――


「……っ、う……」


 今度は、別の少女が口元を押さえた。


「気持ち……悪……」


 ひとり、またひとり。

 同じ症状が、波紋みたいに広がっていく。


 まるで、見えないガスがこの地下空間に充満しているかのように。

 誰も逃げ場を知らず、誰も原因を掴めない。


 混乱の中で、翡翠がふらつきながら立ち上がった。


 彼女は震える指で、胸元を探り、首から下げていたものを引き上げる。


 ――十字架。


 銀色のそれを、翡翠は苦しげな息の合間に唇へと運ぶ。


 そして、口づけた。


 次の瞬間、

 ぱちん、と空気が弾けるような音がして、

 巨大なシャボン玉みたいな光の球が、翡翠の身体を包み込んだ。


 淡く、柔らかく、しかし確かな隔絶。

 光の内側と外側で、世界が分断される。


 その光景を見て、

 ――ずっと死んだふりをしていた、床に転がされた頭部だけのスオウが、ゆっくりと目を開いた。


 濁りのない声で、感心したように呟く。


「“変身”まで残しているとは、珍しいケースですね」


 光がゆっくりと収束していく。


 泡のような膜が弾けると、そこに立っていたのは、さきほどまでの制服姿の少女ではなかった。


 青を基調としたフリルのドレス。丈は短く、動くたびに布が軽やかに揺れる。装飾過多とも言えるほどの意匠だが、不思議と下品さはない。胸元から腰にかけて走るラインは凛としていて、舞台衣装というよりは、儀式用の戦装束に近かった。


 髪はハーフアップにまとめられ、ボリュームを持たせた毛先が肩口で跳ねる。先ほどまで垂れ流されていた黒髪は、今や意思を持ったかのように整えられ、その表情までも別人のものに見せている。


 右手には、西洋剣。


 華奢な体躯には不釣り合いなはずの刃だが、彼女はそれを自然に携えていた。柄を握る手に迷いはなく、剣先はわずかに震えながらも、確かな殺意を宿している。


 それでも、完全ではない。


 翡翠は一歩踏み出しかけ、僅かに体勢を崩した。変身の余波か、さきほどの異常がまだ体内に残っているのだろう。肩で息をし、唇を噛みしめながら、それでも剣を手放そうとはしなかった。


 ――かつての姿。


 魔法少女として、世界のために戦っていた頃の、あの形。


 だが、その瞳に宿るものは、もう純粋な正義ではない。


 復讐と執着と、友情への渇望。


 それらすべてを身に纏ったまま、翡翠は“魔法少女”として、再びこの場に降臨していた。

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