第29話 戦闘:翡翠
気づいた時には、俺はもう考えるのをやめていた。
M4カービン銃のケースを肩に引っ掛け、ほとんど反射みたいにホテルの部屋を飛び出していた。
自動ドアが開く。夜気が肺に流れ込む。
ロータリーで手を上げると、運よくタクシーが滑り込んできた。迷いはない。後部座席に身体をねじ込み、ドアを叩くように閉める。
「この住所まで急いでくれ」
運転手はバックミラー越しに俺を一瞥し、苦笑する。
「さっきもお客さんをそこまで運んだんだよ。学生さんだったけどね。何かイベントでもあるのかい?」
「ああ。廃墟マニア向けの、物騒なイベントだ」
「変わってるねぇ……」
アクセルが踏み込まれる。
街灯が後ろへ流れ、海の匂いが車内に入り込んでくる。やがて道は荒れ、舗装は途切れ、コンビナートの影が巨大な壁みたいに立ち上がった。
タクシーを降りた瞬間、空気が変わった。
画面越しに見ていた景色と同じはずなのに、現実の夜は重い。静かすぎて、音が吸い込まれていく。金属の冷えた匂いと、海風の刃が肌を刺す。
月明かりに浮かぶ廃工場。
鉄骨の影は歪み、闇は深く、どこかで誰かが息を潜めているような気配だけが残っていた。
ケースの金具を外し、静かに開く。
中から現れたM4カービン。慣れた重さ。指に馴染む冷たい金属。
俺は呼吸をひとつ整え、銃を構えたまま、翡翠の幻影が現れた廃工場へ足を踏み入れる。
扉は開け放たれたまま、錆びた蝶番が微かに軋んだ。
床に広がる血溜まり。
乾ききっていない。生々しい匂いが残っている。
慎重に近づき、視線を巡らせる。
「……持ってかれたか」
スオウの姿は、どこにもない。
――その瞬間。
「貴方、あの魔法少女の彼氏?」
背後から、鈴を転がすみたいな声がした。
反射で振り向き、銃口を上げる。
そこに立っていたのは、翡翠の“幻影”。
夜の工場の空気を歪ませるように、輪郭だけが妙に鮮明だ。
俺は照準を、迷いなく額に合わせる。
翡翠は小さく首を傾げた。
「佳奈子を攫った人ね」
「佳奈子……あいつか。随分と口が堅かったぞ。よく仕込んでる」
翡翠はわずかに目を細めた。
「変な人型に、佳奈子の意識をコピーさせたのも、あなたでしょう?」
「なるほどな」
点と点が繋がる。
「じゃあ、人造人間を、訳のわからん魔法で掻っ攫ったのも――お前だな」
翡翠は、即答しなかった。
計算するような沈黙。
「そう……でもないわ。あれは、私が築いた“仕組み”。裏切りを起こさないための、システムよ」
「ほう。日記にちょろっと書いてあったやつか」
翡翠の幻影が、手のひらでスパークを散らした。
火花が弾け、形を持ち、やがて一本の剣になる。
西洋剣。
均整の取れた刃。
スオウの映像越しに見たのと、同じ“合図”。
翡翠はそれを騎士のように構え、俺を正面から見据えた。
「魔女狩りはね――大嫌いなの」
声は静かだが、底に殺意が沈んでいる。
剣先が、わずかに持ち上がる。
「あなたには……“死より辛い罰”を、味わわせてあげる」
「置物の幻影のくせによ……」
幻影のはずの刃が、確かな圧で空気を裂いた。
――戦闘開始の、合図だった。
翡翠は、躊躇という概念を置き去りにした速度で距離を詰めてきた。
床を蹴る音すら、もう聞こえない。
俺は反射的に、すでに起動させていたボイスレコーダーに向かって、ほとんど呪文のように言葉を叩き込む。
「超越病者措置法特例措置第三条――魔女強襲による防衛発砲を開始……するっ!」
引き金を引いた。
乾いた銃声と、白いマズルフラッシュが工場内を裂く。
だが、弾丸は翡翠に届かない。
彼女は剣を一閃させ、金属音とともに弾丸を弾き落とした。
火花が散り、床を転がる薬莢の音がやけに大きく響く。
距離は、さらに詰まる。
俺は前傾姿勢で踏み込み、翡翠の剣筋を紙一重でかわす。
風圧が肌を撫で、コートの裾が宙で裂けた。
――速い。
だが、想定内だ。
俺は即座にM4カービンのアタッチメント、タクティカルライトを点灯させた。
白色光が翡翠の顔面を直撃する。
一瞬。
ほんの一瞬、翡翠が目を閉じた。
その刹那を逃さず、俺は横へ跳び、彼女の背後へ回り込む。
照準を後頭部に合わせ、躊躇なく引き金を引いた。
――命中。
無論、手応えはなかった。
翡翠の身体は、破裂するように弾け、蒸気じみた煙幕へと変わった。
視界が白く曇る。
だが、終わりじゃない。
煙の中に、別の気配が生まれる。
それは一箇所に留まらず、現れては消え、消えては現れる。
まるでモグラ叩きのように、工場内を跳ね回る影。
「……ちっ」
俺が舌打ちした、その瞬間だった。
影は、俺のすぐ横に現れた。
今度の翡翠は、さっきの幻影とは違う。
黒いルームウェア。
長い黒髪をそのまま垂らし、飾り気のない、あまりにも生々しい姿。
――本物。
気づいた時には、もう遅い。
俺は、完全に彼女の射程圏内にいた。
翡翠の手のひらが、スパークを散らしながら突き出される。
白い火花が弾け、その掌が、一直線に――俺の胸を狙っていた。
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