第31話 スオウの原理
完全なる魔法少女と化した翡翠は、迷いのない足取りで剣を構え、一直線にこちらへ距離を詰めてくる。
青いフリルが翻り、金属が空気を裂く音が地下に響いた。
「終わりよ。魔女狩りも、裏切り者も――ここで」
その剣先が、俺とスオウに届く――はずだった。
だが、その直前。
空間が、歪んだ。
地鳴りにも似た低音とともに、巨影がせり上がる。
それは幻影ではない。質量を伴った、圧倒的な実在。
錆びた鉄骨。無数の配管。重なり合う鋼の梁。
――巨大なコンビナートの一部が、盾のように現れ、翡翠の剣を真正面から受け止めた。
「……なに、これ……!?」
翡翠の声が、初めて揺らぐ。
スオウだ。
次の瞬間、コンビナートの影は瞬きのように消え、代わりに――
拳が、飛んだ。
それがミサイルのような速度で、翡翠の顔面へと突き進む。
「っ――!」
翡翠は反射的に剣を振るい、それを斬り落とす。
だが、間に合わない。
二本目。
三本目。
別の角度から、別の高さから、次々と“手”が湧く。
「こんな……!」
一つが横腹を掠め、鈍い衝撃が翡翠の身体を揺らした。
フリルのドレスが裂け、光の粒子が散る。
それで終わりではない。
拳はさらに増えた。
一つ、二つ、五つ、十。
翡翠を中心に、四方八方から叩きつけられる。
翡翠は歯を食いしばり、剣を振るう。
斬る。斬る。斬る。
剣筋は美しく、正確で、致命的だ。
だが――数が違う。
斬り落とされた手は床に積み重なり、光を放ちながら崩れていく。
その様は、まるで夜に咲き誇る花畑のようだった。
残酷で、異様で、どこか神聖な光景。
「……っ、はぁ……はぁ……!」
翡翠の呼吸が荒くなる。
そして、攻撃は形を変えた。
落ちた無数の手が、突如として動きを揃える。
透明なルービックキューブを回すような、規則正しい動作。
組み替え、ずらし、噛み合わせる。
蠢く。
虫の群れのように。
「……やめ……なさい……」
翡翠の声が、かすれる。
次の瞬間、彼女の膝が折れた。
剣が床に突き刺さり、身体が前のめりになる。
「うっ……!」
喉の奥から、耐えきれないものがせり上がる。
翡翠は口元を押さえ、激しく嘔吐した。
魔法少女の輝きが、そこで一瞬だけ曇る。
その光景を眺めながら、翡翠は“異常”に気づいた。
さっきまで、床に転がされていたのは首だけだったはずだ。
切断され、投げ捨てられ、目を閉じたまま沈黙していた――その存在が。
いつの間にか、
当たり前のように、
“元からそこにいた”みたいな顔で。
黒いコートを纏ったスオウが立っている。
血の痕もない。
縫合の跡もない。
苦しそうな素振りすらなく、ただ、重力を理解している人間の姿勢で、地面に足をつけている。
まるで、首だけだった時間のほうが幻だったかのように。
だが、その自然さこそが、翡翠の背筋を凍らせる。
死から生へ戻る瞬間にあるはずの、継ぎ目がない。
過程が、存在しない。
幽霊が人の形を思い出した、
――そんな錯覚。
地下空間に残る唸りと、切り落とされた無数の“手”の残骸。
それらすべてを見下ろす位置に立って、スオウはコートの裾を軽く整えた。
「……武装を放棄してください。留まりたいでしょう、この世に」
そこには確かな“格”の差が滲んでいる。
「この気持ち悪い魔法……あなた……“次元歩き”の魔法少女ね……」
翡翠は震える手で剣を支え、顔を上げる。
「……魔法少女で、ただ一人。次元の潮流を自在に踏み越えて……魂と肉体と、この世の繋がりを超越した、“幽霊”の
その呟きは、恐怖よりも、理解に近かった。
地下空間に、再び低い唸りが満ちる。
コンビナートの影が、まだそこに“在る”ことを、はっきりと主張していた。
そしてまた、スオウの左腕が、黒いコートの袖口から静かに伸びた。
その指先は他の手たち同様、透明なルービックキューブを揃えるかのよう。規則的で、遊戯めいていて、しかし一切の迷いがない動き。
それに呼応するように、床一面に散らばった無数の“手”が、一斉にざわめいた。
ひとつひとつは無秩序に見えるのに、全体としては完璧に統率されている。
まるで、スオウという指揮者の一振り一振りに合わせて、無言の楽団が演奏しているかのようだった。
翡翠は、もはや剣を支えることもできず、喉の奥から掠れた息を漏らしながら、床にうつ伏せに倒れた。
その様子を見下ろして、スオウは感情の起伏を一切感じさせない声で告げる。
「まずは降伏してください。さもなければ、私の“
翡翠は震える腕で、わずかに顔を上げる。
「……どういう……ことよ……」
スオウは答える。
「私の身体は、すでに死の半歩先にあります。魂は無く、生者としての構造も、死者としての構造も持たない」
彼女は自分の胸元に、軽く指先を当てた。
「現世に立っている私は、人間ではありません。装置が出力している“残響”――かつてそこにあった存在の、揺り返しにすぎない」
翡翠の呼吸が、さらに浅くなる。
「だからこそ、私は魂に触れられる。人と世界を繋いでいる、見えない“結び目”に」
スオウの指が、再び空を切る。
それに合わせて、床の手たちが、ぴたりと動きを止めた。
「その結び目を、一つずつ外していくんです。無理に引き千切るわけじゃない。丁寧に、順番に」
声には、慈悲も、怒りもなかった。
「すべて外れたとき、人は――世界に立てなくなる」
スオウは、翡翠を見下ろしたまま、静かに言い切る。
「あなたの好きな言葉で言えば……“死よりも辛いこと”です」
翡翠は床に伏したまま、痙攣する指で必死に空気を掴んでいた。
世界に縫い留められていた糸が、一本、また一本と抜き取られていく。
視界が歪み、音が遠のき、重力の感覚すら信用できなくなっていく。
それでも――彼女はまだ諦めなかった。
歯を食いしばり、喉の奥から血の混じった息を吐きながら、翡翠は手のひらに火花を灯す。
剣ではない。攻撃でもない。
それは、最終手段だった。
「……“座標点”を、変更する」
呟きは祈りにも呪詛にも似ていた。
次の瞬間。
地下空間の中央に鎮座していた裏切り者算出機が、悲鳴のような駆動音を上げた。
歯車が噛み合わず、管が震え、液体が逆流する。
まるで巨大な心臓が不整脈を起こしたかのように。
機械全体が発光を始める。
嫌な予感が、背骨を伝って駆け上がる。
俺とスオウは、ほぼ同時に翡翠と機械を見比べた。
翡翠は――笑っていた。
泣き顔でも、狂気でもない。
覚悟を決めた人間だけが浮かべる、あまりに静かな笑顔だった。
「訳の分からない魔法に、切り刻まれるくらいなら……」
彼女は、ゆっくりと腕を上げる。
その指先は、迷いなくスオウを指していた。
「自分で終わらせるわ」
一拍置いて。
「裏切り者算出機の基準を――貴方に変換した」
言葉の意味が、脳に届くまで一瞬のラグがあった。
「……?」
翡翠は、苦しそうに、それでも丁寧に言葉を紡ぐ。
「貴方の思う“裏切り者”……」
喉が鳴る。
「つまり――魔法少女としての裏切り者である“私”が、これから算出される」
その瞬間、スオウが小さく息を吐いた。
「……なるほど」
怒りも焦りもない。
ただ、どこか呆れたような声音だった。
「悪いことをしている自覚は、ちゃんとあったんですね」
翡翠は答えない。
もう、その余力は残っていなかった。
次の瞬間。
裏切り者算出機が壊れた洗濯機のように激しく揺れ出した。
金属が悲鳴を上げ、管が裂け、光が漏れ出す。
――バチバチバチバチッ。
雷鳴のような閃光が、地下空間を白く塗り潰す。
それは、翡翠の処刑を告げる光だった。
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