第二話 だいにわとゆーやつなのだ
部屋に入った瞬間、思考が一拍遅れた。
──炬燵がある。
院長室の中央に炬燵が鎮座している。
それは『置かれている』では足りない。
ここに居座っている。
部屋の支配権を持っている。
木目の枠、分厚い布団、四隅の角。
日本の生活の質感がロサンゼルスの『整い』に刺さっている。
異物なのに、どこか正しい顔をしている。
八畳ほどの空間。
左にキッチン、右に洗面台。
奥に障子。その向こうに、きっともう一室。
空気の匂いが病院ではない。
消毒の匂いが薄く、布の匂いが勝っている。
ここには人が『居る』ための時間がある。
院長室というより──当直室。
もっと言えば、誰かの家そのものだ。
炬燵に入っているギャラガー氏は、背を向けたままテレビを観ていた。
ニュースだ。
背中の線が崩れていない。
だらけているのではなく、休むことに慣れている姿勢だ。
振り返らず声だけがこちらへ来る。
「取材の人だったかな?」
声は低いが濁っていない。
喉の奥が乾いていない。
疲労で削れた音でもない。
ここまで整っている病院の院長が、炬燵に入ってテレビを観ている。
そのギャップが一番、現実感を削ぐ。
「はい。お時間をいただきありがとうございます」
「座って。右側ね」
右手の平を軽く見せ、席を指定する。
指先が迷わない。
部屋の中の秩序は、この人の中にある。
私は炬燵の端へ腰を下ろした。
布団の縁が膝に触れた瞬間だけ、ここが『家』だと分かる。
昔、一度行ったことのある日本を思い出し、心が過去に巻き戻る。
「番組はこのままで良いかい?」
「はい」
画面では『超寿命問題』が議論されていた。
病気で亡くなる人が減った世界が別の残酷を連れてくる──そんな話だ。
討論者の言葉は熱いのに、部屋の温度は一定で熱がどこにも溜まらない。
ギャラガー氏はそれを眺めたまま、淡々と聞いた。
「取材の目的は?」
「この病院が設立されるまでの経緯を伺いたいんです。Dr. C.C.についても」
「その話か……あまり気が進まないな」
初めて彼がこちらを見る。
疲れていない目。
寧ろ、良く眠っている人の目。
眼球の縁に余計な赤みが無い。
だからこそ、炬燵の生活感が怖い。
病院より、この人の『個』が強い。
個が強いのに乱れていない。
そこが怖い。
私は話題を変えた。
胸の奥に残っていた、さっきの少年。
「……では、ジョージくんの病気を教えてください」
ギャラガー氏は一瞬だけ口角を上げる。
笑ったというより、興味を認めた形だ。
「ほう。彼に会ったのかい?」
「たまたま、ですが」
「彼はね。心臓にできた腫瘍だ」
「心臓の……腫瘍?」
脳が理解に追い付かない。
心臓に腫瘍が出来ることはある。
だが、言葉が現実より先に怖さを運んで来る。
ギャラガー氏は、私の顔色を見たのだろう。
テレビは点けたまま淡々と補足する。
「悪性を強く疑う。位置が悪い。大きさも──進み方も」
「……進み方?」
「健診データでは去年まで『異常無し』だった。だが今年の画像では、進行した所見が揃っている」
「病期は……?」
ギャラガー氏は、そこで一拍だけ置いた。
「心臓腫瘍は一般的ながんのように『ステージ』で割り切れない。だが、病期分類に当てはめれば……進行期、いわゆるⅣ期相当と言っていい」
「……Ⅳ期相当?」
「転移を疑う所見がある。だからだ」
喉の奥が乾いていく。
乾くのは恐怖だけじゃない。
理解が追い付かないときの身体の反応だ。
言葉が水分を奪う。
「原因は?」
「仮説の段階だ」
彼は言い切りを避けた。
避けたのではなく順番を守った。
「恐らく……C.C.ウイルスだ」
──C.C.ウイルス。
初めて聞く単語なのに、名前が意味を持ち過ぎている。
記号のようで、祈りのようで、呪いのようだ。
私は息をするのを忘れた。
「発見者はDr. C.C.。そして『保有者』も、彼本人だ」
「……Dr. C.C.が宿主?」
「保有者、というのが正確だ。感染が成立するとは限らない、という意味だ。普通の生き物の体内に入っても、多くは『何も起こらない』。少なくとも、そう整理されていた」
「じゃあ、なぜジョージは……」
「成立してしまった可能性が高い。正確には、彼の体内で『病態』が成立した。増殖そのものより細胞の制御が外れることが問題になる」
「治療法は?」
「確立していない……今の所、成立例は致死率100%だ」
「致死率100%……?それ、『成立した瞬間に負けが確定する』という意味ですか?」
「……言い方は嫌いじゃない。概ねその通りだ」
そう言うと、彼の目は一瞬だけ感傷を帯びた。
「特殊な生物が居たんだ。彼の最愛のヒツジみぃという子が、ね」
「ヒツジみぃ?……すいません、聞いたことありませんね」
「まぁ、半世紀も前になるのかな。知らなくても仕方無いだろう」
「しかし、何故そのウイルスと心臓の腫瘍が関係するんですか?」
「このウイルスは、細胞の成長…所謂、細胞分裂を加速させるんだ。細胞分裂が加速するから、がん化する確率を異常に押し上げる。細胞分裂のブレーキが外れた細胞が心筋の隙間で増えたら終わりだ」
ギャラガー氏は事務的に言った。
事務的であることが、かえって残酷だった。
「成立したケースは今のところ致死に向かう。止められていない」
「では、ジョージは……」
「がんそのもの──というより、心臓が耐えない。現代医療で延命は出来るが……保って三年だ。超寿命問題が叫ばれているこの時代に、十三歳で亡くなる。嘆かわしいことだよ」
沈黙が落ちる。
テレビの討論だけが他人事みたいに続く。
私は討論者の口の動きを見ていない。
ギャラガー氏の目だけを見ている。
そこに感情が無いわけではない。
だが、感情の置き場が違う。
救えないことを、救える顔で語らない。
救えないことを、救えない顔でも語らない。
私は漸く聞いた。
「……Dr. C.C.は、今どこに?」
「その話で来たんだろう?彼にアポイントは取れない。直接行って、招かれるか、追い出されるか。二つに一つだ」
住所を告げられる。
病院から遠くない。
私は立ち上がり、扉へ向かう。
そこで、入室した瞬間から引っかかっていた疑問が口をついた。
「この部屋は……宿直室ですか?院長室には見えません」
ギャラガー氏は一拍置いて、言った。
テレビの明かりが、頬の片側だけを照らす。
もう片側は影に沈む。
影は濃いのに、怖さは出ない。
怖いのは、言葉が静か過ぎるからだ。
「ここはね」
短く息を吸う音がする。
その息まで、整っている。
「彼の『幸せがあった場所』を再現しているんだ」
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