第三話 だいさんわらしいぞ
Dr.C.C.の家は、ビバリーヒルズにあった。
ロサンゼルスから車で三十分。
世界一のロックスターであり、世界最高の脳外科医でもある彼の家はこのハリウッドスターの街にあって、驚くほど小さく感じた。
塀は高いが威圧的ではない。
見せるための豪邸というより、隠すための箱だ。
庭木の影が門の内側に落ち、正午の光の中に、そこだけ薄い夕方ができている。
門の横のインターフォンを押す。
沈黙。
電子音すら返ってこない。
押した指の腹さえも静かに冷たい。
出掛けているのか。
私は踵を返し、車へ戻ろうとした。
──その時。
家の中から何かが割れるような大きな音がした。
高い音ではなく、重い音だ。
ガラスが割れる音ではなかった。陶器が床に叩き付けられたような鈍さがある。
音が壁を通り抜けてきたというより、空気ごと揺れて届いた。
胸の奥が硬くなる。
居留守か──或いは強盗か。
後者の確率が低いことは分かっている。
ここはビバリーヒルズで、昼だ。
監視カメラも警備会社も、周囲の目もある。
それでも私は自分に『人助け』という理由を与えてしまった。
理由が出来ると、足が勝手に前へ出る。
門を開ける。
蝶番が鳴かない。
手入れが行き届き過ぎていて気持ちが悪い。
玄関まで数歩。
砂利は敷かれていない。
足音を立てないための設計に胸が少しだけ安堵する。
扉にはライオンのドアノッカ。
金属の顔は誇張されているのに、表情が薄い。
私は形式だけのノックをした。
ゴツゴツと、ライオンがドアに頭を打ち付ける感触だけが戻って来る。
返事が無い。
──ただの屍のようだ。
ドアノブに手を掛け、ゆっくり押す。
鍵は掛かっていなかった。
重い扉が抵抗無く開く。
防犯の無頓着さではない。
鍵を必要としない生活の方が、ここでは自然なのかも知れない。
玄関から三段の小さな階段。
その先にソファ、奥にキッチン。
気配が無い。
──ただの屍のようだ。
空気だけが冷たい。
冷房の冷たさではなく、人が長く居ない部屋の冷たさだ。
家具は整い過ぎていて、触ったら指紋が罪になる気がした。
二階へ上がり、部屋を覗く。
居ない。
階段の手摺りは滑らかで、木目が消えかけている。
手の汗を拒む塗装だ。
反対側にキッチンへ降りる階段があり、降りる。
やはり、居ない。
そしてキッチン横。
裏口の隣。
地下へ続く階段が、あんぐりと口を開けていた。
暗闇は黒ではなく、濃い青に見える。
光が届かないのではなく、光が途中で飲まれている。
私は一度だけ立ち止まった。
息を吸うと、空気が少し湿っている。
地下の匂いだ。金属と埃と──長い時間の。
確信して降りた。
地下室に入った瞬間、言葉が消えた。
巨大な機械が立っている。
天井の低さが錯覚になるほど背が高い。
頭部があり、綿のようなものが機械の背後に詰まっている。
目、鼻、口。
顔の配置を『知っている』だけの顔。
表情が作れない分、無表情が鋭い。
胴体は大きく、先程の綿は背中だったと分かる。
両手は棒を握り、関節は『動く』構造。
関節の金属が、ほんの少し油を噛んだ光をしている。
実験室の新品の光ではない。
何度も動かされ、止められ、また動かされた光だ。
機械というより、祈りの対象だった。
人が、何かの形──羊かも知れない──に、救いを押し込めた像。
救いを押し込めると、どうしてこんなにも重たく見えるのだろう。
胴体の刻印だけが冷たく現実だった。
HM-1
私はHM-7もHM-5も見たことがある。
だが初期型は初めてだった。
装飾が多い。
機能よりも、感情が先に立っている。
合理性の代わりに、願いが溶接されている。
背後から声がした。
「いつ出て行く?」
声は近い。驚くほど近いのに、足音を聞いていない。
振り返る。
写真で見た顔。
──Dr.C.C.本人。
私が想像していた『天才』の顔ではなかった。
もっと特徴があると思っていた。
だが、目の前の彼は、特徴を削ぎ落とした顔をしている。
髪型も口も、どこか平均値に寄っている。
平均値なのに視線だけが異常に鋭い。
私は言葉を探す。
だが彼は、同じ言葉を繰り返した。
「君はこの家から、いつ出て行くんだい?」
語尾が柔らかいのに、意味が硬い。
質問の形をしているが、答えは一つしか許されていない。
返答に困る私へ、間髪入れずに言い切る。
「……分かった。出て行ってくれ」
有無を言わせない強い意志。
声が強いのではない。
強いのは『決めた事実』の方だ。
私はその強さに、反論するための言葉を失った。
言い返す言葉が無いのでは無く、言い返す権利がこちらに無い、と身体が理解してしまう。
地下から上がる途中、手摺りの冷たさだけがやけに鮮明だった。
空気は上へ行くほど乾き、明るくなり、普通になっていく。
普通になっていくはずなのに、背中に残る重さだけが消えない。
私は何かを見たというより、何かを『預けられた』気がした。
玄関まで戻る間、私は機械を一度も振り返れなかった。
振り返った瞬間に、何かを持ち帰ってしまいそうだった。
外へ出る。
正午の光が強い。
眩しさが、寧ろ暴力的に感じる。
さっきまでの濃い青が目の奥に残っていて、世界が白過ぎる。
庭木の影の薄い夕方が、未だ門の内側に残っているのに、私はもうそこから追い出されている。
車に戻り、ドアを閉める。
密閉された静けさが一瞬だけ安心になる。
だが、次の瞬間、車内の匂いが現実を強制する。
革、プラスチック、わずかな芳香剤。
私はハンドルに手を置いたまま、エンジンを掛けるのを忘れていた。
掌が汗ばんでいる。
汗が出る理由が分からない。
怖かったのか、興奮したのか、恥ずかしかったのか。
私は自分の感情を、未だ言語化出来無いまま、ただ座っていた。
漸くエンジンを掛けた時には、既に夕日は私を置き去りにしていた。
近くのダイナでバーガーをお腹に入れ、やっと私は一度深呼吸をした。
深呼吸をしても肺の奥まで空気が届かない感じがする。
言葉が、喉の手前で止まる。
不意に『フラペチーノみたいだ』と思った。
車に戻り、ギャラガー氏に電話で経緯を伝える。
受話器の向こうで、彼は笑った。
「それで?帰って来たのかい?」
笑い声は軽いのに、そこには予測が混じっている。
こうなると分かっていた人の笑いだ。
「……逆らえませんでした。居座っても、彼の口からは『出て行け』以外、聞けなかったでしょう?」
「そうだね。きっと出て行け以外の言葉を、彼は発しなかった」
焦りが胸を押す。
私は未だ、取材を始める前に追い出されている。
追い出されたことより、追い出された理由が分からないことの方が苦しい。理由が分からないまま、あの像だけを見てしまった。
「どうすれば、Dr.C.C.と話が出来るんでしょう?先生、一緒に来てくれませんか」
「私が行っても変わらない。親しい間柄だと思っているが……彼の中では、初対面の人間と同じだ。君と同じ対応をされるよ」
「じゃあ、どうすれば……何度も訪ねて、機嫌の良い時を待つしか?」
「恐らく、それが一番確実だろうね」
一拍。
ギャラガー氏の声の調子が変わった。
空気が切り替わる。
冗談の層が剥がれて、核心だけが残る声だ。
「ただ……プランBなら、助言してあげよう」
「プランB?」
「彼と話すことは出来無い。だが──彼を良く知る人物に話を聞けば良い。彼の娘、あめちゃんだ。彼の気持ちや考えを言語化出来るのは、彼自身じゃない。あめちゃんだと思う」
私は思わず聞き返す。
「……会えるんですか?」
「会うなら、私も連いて行こう」
次の更新予定
ヒツジみぃとC.C.の冒険 その2 愛崎 朱憂 @Syu_Aizaki
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