第27話
国王執務室の空気が、凍った。
いや、正確には、一人の男が持ち込んだ『氷のオーラ』によって、物理的に、室温が数度、下がった気がした。
「…………」
「…………」
「…………」
ナーナリア・フォン・グランツは、国王の机に身を乗り出した、滑稽な(そして、今は、絶望的な)体勢のまま、固まっている。
国王アデルベルトは、椅子に座ったまま、固まっている。
そして、扉の前に立ったままの、カイ・ランバートも、固まっている。
(((…………)))
カイは、その氷の瞳を、わずかに見開いていた。
目の前の光景が、彼の理解の範疇を、完全に、超えていたからだ。
(……なぜ、ナーナリア様が、国王陛下の執務室に?)
(なぜ、陛下は、紅茶まみれで、笑いをこらえているような、奇妙な顔を?)
(そして、なぜ、この女は……俺を、指差したまま、真っ赤な顔で、金縛りにあっているんだ?)
「(き、き、き、き……!)」
ナーナリアの脳内は、それどころではなかった。
(聞かれましたわ! 聞かれましたわ! 聞かれましたわああああ!)
『わたくしの! 人生の! 護衛として!』
((((((……あああああ、おしまいdeathわあああ!))))))
ナーナリアは、今すぐ、この場で、床に穴を掘って、ケルベロスの犬小屋まで、逃げ帰りたい衝動に駆られた。
「……あー、カイ」
この、地獄のような静寂を、破ったのは、意外にも、国王アデルベルトだった。
彼は、こみ上げてくる(疲労と、面白さの入り混じった)笑いを、無理やり咳払いで押し殺した。
「ちょうど、よかった。君の、異動の件だがな」
「はっ」
カイは、ナーナリアから(何とか)視線を外し、国王に向き直った。
だが、その意識の半分は、まだ、目の前の「赤い彫像(ナーナリア)」に、向いていた。
「今、まさに、ナーナリア嬢から、強硬な『抗議』を受けていたところだ」
「……抗議?」
カイの、銀灰色の眉が、ピクリと動いた。
「(……!)」
ナーナリアが、ハッと、我に返る。
「ち、ちちち、違いますわ! 陛下!」
「ほう? 違うのかね?」
国王は、完全に、面白がっている。
(この二人を、からかうチャンスは、今しかない、と)
「そ、そうですわ! カイ様!」
ナーナリアは、混乱のあまり、矛先を(自分を陥れた、元凶の)カイに向けた。
「わたくしは! 貴方の! その、北の砦における『福利厚生』について! 国王陛下に、提言申し上げておりましたのよ!」
「……福利、厚生?」
カイの、氷の仮面に、明確な「?」が浮かんだ。
「そうですわ! あのような、寒い場所で! 『草の味』しかしない、マズい紅茶を飲まされては、士気に関わると!」
「…………」
「(……この女、俺の、辞令の撤回を、求めていた、のか?)」
カイは、国王の(ニヤニヤした)顔と、ナーナリアの(必死すぎる)顔を、交互に見比べた。
そして、ゆっくりと、理解した。
この、規格外で、食い意地が張っていて、不器用極まりない女が。
自分の(自覚のない)本音を、隠すために。
国王相手に、無茶苦茶な『抗議(という名のSOS)』を、しに来たのだと。
(……わたくしには、あの人が、必要ですの!)
(……わたくしの、人生の、護衛として!)
カイの脳裏に、先ほど、扉の外で(偶然)聞いてしまった、彼女の、絶叫が、こだました。
(……人生の、護衛、か)
(……悪くない)
カイは、ゆっくりと、懐に手を入れた。
そして、国王から受け取ったばかりの、自分の未来(北の砦への異動辞令書)を、取り出した。
「(……?)」
ナーナリアは、カイが、何をするのか、わからなかった。
ビリ。
「…………え?」
静かな、乾いた音。
カイ・ランバートは。
国王アデルベルトの、目の前で。
そして、ナーナリア・フォン・グランツの、目の前で。
その、国王直々の『辞令書』を。
表情一つ変えず、音もなく、二つに、引き裂いた。
「「(…………はあああああああ!?)」」
ナーナリアと、国王(!)の、声が、ハモった。
「き、き、貴様! カイ! 今、何を!」
国王が、さすがに、椅子から立ち上がる。
(辞令を破るなど、反逆罪に、問われかねんぞ!)
しかし、カイは、動じなかった。
彼は、破り捨てた辞令書を、近くのゴミ箱(豪華)に、そっと捨てると。
そのまま、まっすぐ、ナーナリアの前に、進み出た。
「な、な、な、何ですの……!」
ナーナリアは、迫ってくる氷の壁に、一歩、後ずさった。
ストン。
「(……え?)」
カイは。
その、黒い騎士服のまま。
ナーナリアの、目の前で。
完璧な、騎士の礼で、片膝を、ついた。
「な、ナーナリア・フォン・グランツ様」
「は、はい!?(な、な、何の、儀式ですの!?)」
ナーナリアは、自分の心臓が、耳元で、破裂しそうなほど、鳴り響いているのを感じた。
カイは、その氷の瞳で、真っ直ぐに、ナーナリアの瞳を、射抜いた。
「先ほどの、お言葉」
「(……! やはり! 聞かれておりましたわ!)」
「『わたくしの、人生の、護衛として』」
「(あわわわわわ! 復唱、おやめなさいまし!)」
「…………承知した」
「…………」
「…………」
「…………は?」
ナーナリアは、自分の耳が、ついに、イカれたのかと思った。
「(承知……? なにを?)」
「おい! カイ!」
国王が、背後で、叫んでいる。
「貴様、正気か! 俺の辞令を破り、その女の『護衛』を、取ると!」
カイは、立ち上がらない。
ナーナリアだけを、見つめたまま、国王に、返答した。
「国王陛下」
「なんだ!」
「異動の件は、辞退いたします」
「(……!)」
「俺は、本日、この時をもって。王宮騎士団の職務(北の砦)ではなく」
「…………」
「この方の、『人生の護衛』を、拝命する」
「(……!)」
ナーナリアは、もう、呼吸の仕方も、忘れていた。
「(……ふ、ふは……ふはははは!)」
背後で、国王の、奇妙な、笑い声が、響いた。
「……面白い! 面白すぎるぞ、貴様ら!」
国王は、疲労困憊の顔で、腹を抱えていた。
「よかろう! 許可する!」
「(ええ!?)」
「だがな、カイ! よーく、考えろ!」
国王が、鋭い視線を、カイに向ける。
「ただの『護衛』として、グランツ侯爵家の、あの娘(ナーナリア)の、そばに、いられると思うか?」
「(……!)」
「あの、シスコン兄(アレクシス)と、熊殺し(父)が、許すと思うか?」
「…………」
カイは、黙ったまま、ゆっくりと、立ち上がった。
そして。
ナーナリアが、息を飲む間もなく。
その、震える、彼女の手を。
(氷のように冷たいと、思っていた)
大きくて、少し、温かい手で、掴んだ。
「(ひゃ……!)」
ナーナリアの、肩が、跳ねる。
「……承知、しております」
カイは、ナーナリアの手を、掴んだまま、国王に向き直った。
「よって」
「…………」
「『婚約者』として、拝命する」
「(…………)」
「(…………)」
「(…………)」
シーン……。
ナーナリアの、思考が、完全に、停止した。
(こ)
(こん、やく、しゃ?)
(……え?)
(……は?)
(……誰と、誰が?)
(わたくし、いつ、プロポーズ、いたしましたの!?)
(わたくしが、したのは、抗議(という名の八つ当たり)で、告白(という名の勘違い)だったはず……!)
(なのに、なぜ、わたくし、今、この氷人形(だったはず)に、手を握られて、求婚されて(!?)おりますの!?)
ナーナリア・フォン・グランツは。
人生で、初めて。
「パフェ」も「オペラ」も、何もかも、吹っ飛ぶほどの、最大の『混乱』に、叩き込まれたのだった。
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