第15話

王宮、第二王子の執務室。


「……くそっ!」


ガシャン! と、高価なインク壺が床に叩きつけられた。

しかし、それを拾う者はいない。


「はあ……はあ……」


エドワード王子は、執務机に積まれた書類の山には目もくれず、窓の外……王都の景色を、忌々しげに睨みつけていた。


「なぜだ……! なぜ、あいつは!」


王子の脳裏に浮かぶのは、ここ数日、彼が(衛兵に命じて)集めさせた「報告書」の内容だった。


『本日、ナーナリア・フォン・グランツ嬢、護衛騎士カイ・ランバートと共に、新装開店のカフェ『甘味の園』に入店』

『『激甘マウンテンパフェ』及び『悪魔のショコラケーキ』を注文』

『終始、和やかな(?)雰囲気で完食』


『本日、ナーナリア嬢、王都広場にて『特濃カスタードクレープ』を購入。護衛騎士カイにも、同じものを無理やり(?)食べさせる』

『カイ騎士、終始無表情ながら、完食』


『本日、ナーナリア嬢、グランツ侯爵邸温室にて、カイ騎士に『紅茶研究』を披露。カイ騎士、当初『草の味』と一蹴するも、特製ブレンドティーには『悪くない』と反応』


「(報告が、細かすぎるわ!)」


エドワードは、報告書(という名のゴシップ紙)を握りつぶした。


「あのナーナリアが! 私と別れた女が! なぜ、あんな氷人形と、楽しそうにパフェなど……!」


(あの女は、私に捨てられ、泣きながら屋敷に引きこもり、『エドワード様、私が間違っておりました』と謝罪に来るはずだった……!)


(なのに、なんだ! 買い食いだと!? しかも、あのカイ・ランバートを巻き込んで!)


コンコン。


「王子。リリアでございます」


「……! 入るな!」


エドワードは、慌てて散らかった報告書を机の引き出しに押し込んだ。


ガチャリ。


「申したはずですわ、王子。わたくしの前では、お気兼ねなさらないで、と」


返事を待たずに入ってきたリリアは、手にしたクッキーの皿を、エドワードの机にことりと置いた。

甘い、バターの香りが広がる。


「まあ……また、荒れていらっしゃいますのね」


リリアは、床に転がったインク壺を、メイドでも呼ぶかのように(自分で拾う気は一切なく)眺めた。


「うるさい! ほおっておけ!」


「ほおっておけませんわ。エドワード様のお体が心配ですもの」


リリアは、潤んだ瞳でエドワードを見上げる。

いつもの、「ヒロイン」の顔だ。


「……また、ナーナリア様のことで、お悩みになっていらしたのですね」


「なっ……! ち、違う! 私は、国の将来を案じて……!」


「隠さなくても、よろしいのに」


リリアは、くすりと(計算高く)笑った。


「わたくしには、お分かりになりますわ。王子が、いかに『お優しい』か」


「……優しい?」


「ええ。婚約破棄したとはいえ、ナーナリア様が、あの『氷の騎士』様にたぶらかされていないか、ご心配なのでしょう?」


「(……!)」


エドワードは、ぎくりとした。

(たぶらかされている、というより、楽しそうにしているのがムカつくだけなのだが)


「そ、そうだ! リリア! 貴様の言う通りだ!」


王子は、リリアの言葉に、これ幸いと飛びついた。


「あのナーナリアは、昔からそうだ! 見た目は派手だが、中身は空っぽ! きっと、あのカイ・ランバートも、あの女の悪辣さに気づいていないに違いない!」


「まあ……それは、大変」


「そうだろ!? 私が、どうにかして、カイの目を覚めさせてやらねば……!」


エドワードが、拳を握りしめて熱弁する。

リリアは、そんな王子を、笑顔で見つめながら、内心で、冷え切ったため息をついていた。


(……まだ、言っている)


(この王子、婚約破棄してから、毎日毎日、ナーナリア様、ナーナリア様……)


(わたくしが、新しい婚約者候補(仮)だというのに。わたくしとの時間より、あの女のストーキング報告書を読むほうが、よほど楽しそう)


「王子」


「なんだ、リリア!」


「そんなにナーナリア様がご心配なら……わたくしたちで、直接『視察』に行きませんこと?」


「視察?」


「ええ。王都の、平和のために」


リリアは、完璧な大義名分を、天使の笑顔で差し出した。


「ナーナリア様が、あの恐ろしい魔犬(ケルベロス)を連れて、街の風紀を乱していないか」


「そ、そうか! 風紀!」


「カイ様が、護衛の職務を、公私混同して怠っていないか」


「そうだ! 公私混同だ!」


「それを、王子自らが、お確かめになるのですわ。もちろん、わたくしも、リリアも、ご一緒いたします」


「おお! リリア! 賢いな、君は!」


エドワードは、リリアの提案に、何の疑いもなく飛びついた。

これで、堂々と(リリアというカモフラージュ付きで)ナーナリアを監視できる、と。


「(……ふふ。ちょろいものですわ)」


リリアは、心の中でほくそ笑んだ。

(王子がナーナリアに執着するなら、それを利用して、わたくしとの『お出かけ』を既成事実にしてしまえばいい)


エドワードは、リリアの提案にすっかり乗り気になった。


「よし! そうと決まれば、早速……」


だが、その時。

ふと、王子の頭に、ほんの小さな「違和感」がよぎった。


(……待てよ?)


(リリアは、なぜこんなに、俺のナーナリア監視に協力的なんだ?)


(普通、嫉妬しないか? 自分の婚約者(仮)が、元婚約者のことばかり気にしていたら)


エドワードは、目の前の、完璧な笑顔で自分を見つめるリリアを、まじまじと見直した。


「(……)」


(この女。俺がナーナリアのストーキングをするのを、『王都の視察』という口実で、手伝うと?)


(それは、あまりに……出来すぎた『ヒロイン』ではないか?)


「王子? どうかなさいました?」


リリアが、不思議そうに、小首を傾げる。

完璧な、男心をくすぐる角度だ。


「……あ、いや」


エドワードは、その小さな「違和感」を、慌てて頭から振り払った。


(何を馬鹿なことを。リリアは、可憐で、俺に一途な、優しい娘だ)


(ナーナリアのような、悪辣な女とは違う)


(俺の行動を、理解し、支えてくれようとしているだけだ)


「……いや、なんでもない」


エドワードは、無理やり、笑みを作った。

その違和感を、心の奥底に押し殺すために。


「ああ、そうだな。……リリア」


「はい、王子!」


「君は、本当に可憐だな」


その声は、エドワード自身が驚くほど、感情の乗らない、棒読みのものだった。


「……!」


だが、リリアは、その「棒読み」には気づかない。

(あるいは、気づかないフリをした)


「まあ! ありがとうございます、王子! わたくし、王子のために、精一杯頑張りますわ!」


嬉しそうに、頬を染めるリリア。


エドワードは、そんなリリアの笑顔を見ながら、なぜか、胸の奥が、ズシリと重くなるのを感じていた。


(……後悔? まさか)


王子の、本当の「後悔」が始まるのは、まだ、もう少しだけ先のことである。

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