第8話

元婚約者との最悪な遭遇から一夜。


ナーナリアは、またしても「買い食い」の支度を整えていた。


「(……昨日、あんなことがあったからといって、わたくしの自由を妨げられる道理はありませんわ!)」


「お嬢様。本日は、本当にお出かけに?」


侍女のアマンダが、心配そうに尋ねる。


「当たり前ですわ、アマンダ。昨日、王子たちのせいで骨ガムしか買えませんでしたのよ! 今日こそ、クレープと新作タルトを制覇しますわ!」


「しかし、カイ様が……」


「あの氷人形のことなら、もう玄関におりましたわ。相変わらず、置物のように」


ナーナリアは、ため息をついた。


「わたくし、決めたのです。あの人は『背景』。そう、『動く壁』だと思えば、腹も立ちませんわ」


「(カイ様が不憫になってまいりました……)」


「さあ、ケルベロス! 今日も護衛をよろしくてよ!」


「(バウ!)」


ナーナリアは、巨大な愛犬(と、動く壁)を引き連れ、意気揚々と王都へ繰り出した。


---


「…………」


「…………」


「(……気まずいですわ!)」


ナーナリアは、心の中で叫んだ。


カイ・ランバートは、今日も今日とて、きっかり三歩後ろを無言でついてくる。


(背景だと思おうと決めた矢先に、この存在感……!)


カイは、何もしていない。

ただ、そこにいるだけ。

それなのに、彼が発する「氷のオーラ(ナーナリア命名)」が、周囲の喧騒を遮断し、ナーナリアとの間に奇妙な静寂を生み出していた。


「(こうなれば、わたくしも無言を貫き通しますわ!)」


ナーナリアは、昨日逃したクレープ屋の行列に並んだ。

カイも、その三歩後ろに並ぶ。


「(……並ぶのですか、貴方も)」


「(……職務だ)」


(口に出していないのに、会話が成立しましたわ!)


ナーナリアは、たっぷりクリームとイチゴが乗ったクレープを受け取ると、カイに見せつけるように、大きな一口で頬張った。


「(んふー! 美味ですわ!)」


「…………」


カイは、無表情でそれを見ている。


「(……別に、羨ましくなんてありませんわよね、貴方は)」


ナーナリアは、クレープを早々に平らげると、次なる目的地、老舗のタルト専門店へと足を向けた。


その、道中だった。


「(ん? あれは……)」


ナーナリアの足が、ふと止まる。

視線の先には、最近できたばかりの、やたらと派手な装飾のカフェがあった。


「『男気! 激甘マウンテンパフェ・チャレンジ! 成功者は無料!』……」


ナーナリアは、店の前に置かれた巨大な食品サンプルを見て、顔をしかめた。


(まあ、下品ですこと。あんな、クリームとチョコとアイスの塊……)


(……少し、美味しそうですわね)


「お嬢様、どうかされましたか」


「いえ、アマンダ。あんな下品な店……」


ナーナリアが、悪態をつこうと振り返った、その時。


彼女は、気づいてしまった。


三歩後ろにいるはずの「動く壁」が、自分とほぼ同じタイミングで、足を止めていることに。


「(……?)」


そして、カイ・ランバートの、その氷のように冷たいはずの青い瞳が。


一直線に、寸分の狂いもなく。


その「激甘マウンテンパフェ」の食品サンプルに、釘付けになっていることに。


(……え?)


ナーナリアは、目をこすった。

気のせいかと思った。


だが、カイは動かない。

まるで、金縛りにでもあったかのように、そのパフェから視線を逸らせないでいる。


「(……まさか)」


「……騎士様?」


ナーナリアが、恐る恐る声をかける。


「……!」


カイの肩が、ほんのわずか、ピクリと震えた。


彼は、ゆっくりと、まるで錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく視線をナーナリアに戻した。


「……なんだ」


いつもの低い声。

いつもの無表情。


だが、ナーナリアは確信した。


(この人、今、動揺しておりますわ!)


「いえ。あんなパフェ、見るからに甘ったるくて胸焼けしそうですわね、と」


ナーナリアが、わざと意地悪く言う。


「…………」


カイは、答えない。

だが、その視線が、もう一度、チラリとパフェのサンプルに戻ったのを、ナーナリアは見逃さなかった。


「(……ふふふ)」


悪魔的な笑みが、ナーナリアの口元に浮かぶ。


「わたくし、決めましたわ」


「?」


「アマンダ、ケルベロスをよろしくてよ」


「は、はい?」


ナーナリアは、カイの腕を(無理やり)掴んだ。


「ひっ……!」


カイの体が、驚くほどビクッと跳ねた。


「(……氷の騎士が、女に腕を掴まれたくらいで、この反応!)」


「何をする」


カイが、低い声で威嚇する。


「決まっておりますわ。わたくし、少しお腹が空きましたの」


「さっき、クレープを」


「あれは前菜ですわ!」


ナーナリアは、カイの腕を掴んだまま、その派手なカフェの扉に向かって、ずんずんと歩き出した。


「おい、待て」


「お黙りなさい! 貴方はわたくしの護衛でしょう! 主人の命令が聞けませんの!?」


「俺の職務は護衛と『監視』だ。カフェに付き合うことではない」


「いいえ! わたくしが、あの中で『王家に仇なす計画』を立てるかもしれませんわよ!」


「…………」


カイは、ぐっと言葉に詰まった。

その理屈は、通ってしまう。


「いらっしゃいませー! お! 兄さん、チャレンジかい!?」


チャラチャラした店員が、カイを見てニヤニヤしている。


「(……!)」


カイは、無表情のまま。

だが、その握りしめられた拳は、小刻みに震えていた。


「この人、『激甘マウンテンパフェ』を一つ」


ナーナリアが、高らかに注文する。


「おい!」


「それと、わたくしは紅茶を」


「かしこまりー!」


席に(無理やり)着かせ、運ばれてきた、もはや「塔」と呼ぶべきパフェ。


「……」


カイは、目の前の「それ」を、信じられないものを見るような目で見つめている。

そして、ゆっくりとナーナリアを睨んだ。


「……何のつもりだ」


「何の、とは?」


ナーナリアは、優雅に紅茶を飲む。


「(……あの氷の騎士が!? こんな、子供じみた激甘パフェを!?)」


(面白すぎますわ!)


ナーナリアは、笑いをこらえるのに必死だった。


カイは、しばらくパフェとナーナリアを交互に睨みつけていたが、やがて、観念したように、スプーンを手に取った。


そして、一口。


「(……!)」


カイの無表情が、ほんの、ほんのわずかに、緩んだ。

(ようにナーナリアには見えた)


(食べましたわ! あの氷の騎士が、激甘パフェを!)


「……」


カイは、ナーナリアの視線に気づき、スプーンを置いた。


「……何か言いたそうだな」


「い、いえ、別に?」


ナーナリアは、必死で真顔を作った。


「(……ぷっ、あはは!)」


(とんでもない弱点を握ってしまいましたわ!)


ナーナリアの、監視役(という名のおもちゃ)を手に入れた生活は、ここからが本番のようだった。

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