第4話

婚約破棄(という名の祝宴)の翌日。


ナーナリアは、いつもよりずっと早く目を覚ました。


「(ああ……素晴らしい朝ですわ!)」


小鳥のさえずりすら、昨日は「騒音」に聞こえたのに、今日は「祝賀のファンファーレ」に聞こえる。


「アマンダ! アマンダ! 早く起きてちょうだい!」


「……お嬢様。まだ夜明けでございます」


ベッドの横で丸くなっていた侍女のアマンダが、眠い目をこすりながら起き上がる。


「何が夜明けですの! もう太陽は真上にありますわよ!」


「ありません。あと、お嬢様のベッドで寝るのはおやめくださいと、あれほど」


「固いことは言いっこなしですわ! それより、支度を!」


「支度、と申されますと? 今日はもう、お妃教育は……」


「ありません!」


ナーナリアは、ベッドから飛び降りて高らかに宣言した。


「今日からわたくしは自由! 自由の第一歩を踏み出しますの!」


「はあ。それで、具体的にどちらへ?」


「決まっていますわ!」


ナーナリアは、窓の外……活気あふれる王都の市街地を指差した。


「『買い食い』ですわ!」


「……はい?」


アマンダが、何を言われたのか分からない、という顔をする。


「お妃教育中は、はしたないからと禁止されていました! ですがもう関係ありません! クレープ! ジェラート! 串焼き肉!」


「(お嬢様……食べ物ばかりですわね)」


「さあ、アマンダ! 一番地味な服を持ってきて! お忍びですわ!」


「御意に」


こうして、侯爵令嬢ナーナリアの「初・お忍び買い食いツアー」は、幕を開けた。


「それから、アマンダ」


「はい」


「わたくしの大切な相棒も、一緒に行ってもらいますわ!」


「……まさか」


アマンダの顔が、わずかに引きつった。


「(ブオオオオオン!)」


屋敷の裏庭から、地響きのような雄叫びが聞こえた。


---


数時間後。王都の目抜き通り。


「わあ! 見てくださいまし、アマンダ! 焼きたてのパンですわ!」


地味な町娘の服(ただし最高級のシルク製)に着替えたナーナリアが、目を輝かせる。


「お嬢様、声が大きいです。あと、あまりキョロキョロなさいますな」


アマンダもまた、地味な侍女服(ただし最高級の(略))姿だ。


「だって、こんなに活気があるなんて!」


「いつも馬車の上から眺めていらっしゃったでしょう」


「上から見るのと、この匂いと喧騒を肌で感じるのは違いますわ!」


ナーナリアが、パン屋の匂いに引き寄せられようとした、その時。


「(グルルルル……!)」


ナーナリアの隣を歩く「それ」が、低い唸り声を上げた。


「それ」は、ナーナリアの腰の高さをゆうに超える。

黒曜石のような毛並み。

燃えるような三つの赤い目。

そして、首にはご丁寧に「ケル☆」と書かれた可愛らしい首輪。


ナーナリアの愛犬(?)、魔犬ケルベロス(推定・生後六ヶ月)である。


「こら、ケルベロス。よだれを垂らしてはいけませんわ」


「(クウン……)」


ケルベロスが、しょんぼりと三つの頭を垂れる。


「ああっ! お嬢様! だから言ったのです! ケルベロス様を連れてくるのは無茶だと!」


アマンダが、周囲の悲鳴に頭を抱えた。


「な、なんだあの魔物は!」


「ひいっ! 冥府の番犬だ!」


「逃げろー!」


「あらあら。皆様、お元気ですこと」


「お嬢様! 『お元気ですこと』ではございません! パニックでございます!」


「失礼ですわね! ケルベロスはこんなに可愛いのに!」


ナーナリアが、ケルベロスの一番真ん中の頭をわしゃわしゃと撫でる。


「(ゴロゴロゴロ……)」


「犬(?)が喉を鳴らしたぞ……!」


「とにかく! アマンダ! まずはあそこのクレープ屋へ!」


「この状況でですか!?」


「ケルベロス! 『おすわり』!」


「(ドンッ!)」


ケルベロスが、三つの頭をかしげながら「おすわり」をすると、石畳が軽く揺れた。


「よし、いい子ですわ! さあ、クレープですわ!」


ナーナリアが、ケルベロス(という名の地獄の番犬)を引き連れて、クレープ屋の行列に並ぼうとした、その時。


「待て! 止まれ!」


甲高い声と共に、数名の衛兵が駆けつけた。


「市民からの通報だ! 危険な魔獣を連れている者がいると!」


「危険な魔獣? どこですの?」


ナーナリアが、きょとんとしてあたりを見回す。


「貴様だ! その黒い……三つ頭の……狼(?)は!」


衛兵の一人が、震える槍をケルベロスに向ける。


「(グルルルウウウウ!)」


ケルベロスが、槍の先を睨みつけ、牙を剥いた。


「ひいっ!」


「こら、ケルベロス。『お手』」


「(え? いま?)」という顔で、ケルベロスがナーナリアを見上げる。


「あら、違いましたわ。『伏せ』ですわ」


「……お嬢様。遊んでいる場合では」


「遊んでませんわ! この子がいかに安全か、証明しているのです!」


「貴様! 問答無用だ! その魔獣を今すぐ……!」


衛兵が、槍を構え直した。


「失礼な!」


ナーナリアが、一歩前に出る。


「この子はケルベロス! わたくしの大切な家族ですわ!」


「魔獣を家族だと!? 気でも狂ったか!」


「この子は魔獣ではありません! 『愛犬』ですわ!」


「どこに三つ頭の犬がいる!」


「ここにいますわ!」


「問答無用! 捕らえよ!」


衛兵たちが、一斉に飛びかかろうとした、その時。


「(ブオオオオオオオオオオオオン!!!)」


ケルベロスが、天に向かって盛大な遠吠えを上げた。

ビリビリと空気が震え、近くの店の窓ガラスが数枚割れる。


「「「(((……総員、退避!!!)))」」」


衛兵たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「……あら。行ってしまいましたわ」


ナーナリアは、肩をすくめた。


「皆様、お騒がせしましたわね。ケルベロス、もう大丈夫よ」


「(クウン……)」


しょんぼりするケルベロス。


「……お嬢様」


「何ですの、アマンダ」


「……とりあえず、クレープは諦めて、裏路地のジェラート屋にいたしましょう」


「それがよろしいですわね」


こうして、ナーナリアの「自由の第一歩」は、王都の衛兵たちに、消えないトラウマを植え付ける結果となった。


「それにしても、ひどいですわ。『猛犬』だなんて」


「(猛犬どころか、災害級ですわ……)」


アマンダは、心の中で深くため息をつくのだった。

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