第1話 誰も望まなかった物語
声はゆっくりと、くぐもって響き始めた。
まるで時間の底から、這い上がってくるかのように。
むかしむかし――
この世界がまだ、自分の名前すら知らなかった時代に。
ペンがページを滑り、その動きに合わせて闇が裂けた。
次々と像が浮かび上がる。
古い書物の挿絵のように。
人間。
ドワーフ。
エルフ。
魔族。
獣人。
それぞれが、それぞれの土地に生きていた。
石の都が連なる山岳。
雲より高く枝を絡ませる大森林。
水よりも火が身近な荒野。
道と市場、無数の声に満ちた平原。
「世界は――美しかった」
語り手はそう続けた。
種族はぶつかり、離れ、交易し、戦い、
やがて友となり、家族を築いた。
争いはあった。
だが、すべてを焼き尽くすほどの憎しみは、まだなかった。
ある者は莫大な財宝を手にし、
ある者は何世紀にも影を落とす壮麗な都を築き、
またある者は交易によって栄え、
そして――
すべてを欲した者もいた。
ペンが、わずかに震えた。
「欲望とは、伝染るものだ」
語り手は声を落とす。
誰もが、ほんの一欠片でも欲しくなる。
だが、必ず現れる。
それ以上を、強く、貪欲に求める者が。
膝の上の子どもたちが、もぞもぞと身じろぎした。
誰かが老人のマントの裾を握りしめ、
誰かが小さく鼻をすすった。
「おじいちゃん……」
少女が、ためらいがちに尋ねる。
「どうして……世界は、終わっちゃったの?」
老人は口を閉ざした。
続けるべきかどうか、量るように。
やがて、低く答えた。
「すべては――予言のせいだ」
「遥か昔に滅びた、偉大な民が残した言葉。
いつか、災厄が訪れる。
そして同時に――救世主が現れる」
「混沌に終止符を打ち、
永遠に争いを消し去る英雄たちが、とな」
ペンが、鋭く線を引いた。
「そして――彼らは来た」
世界のあちこちに。
五人。
グリンドリン。
「皆、普通の人間だった」
老人は言う。
「我々と同じ、ただの人々だ。
だが与えられた力は……異質だった」
「一振りで、軍勢を粉砕するほどの力」
声が、硬くなる。
「そして力と共に、貪欲もまた訪れた」
本の中から、炎が噴き出した。
ページの隙間で火が燃え上がり、
子どもたちは悲鳴を上げて膝から滑り落ち、床に尻餅をついた。
泣き出す子もいた。
老人はすぐに身を屈め、
彼らがまだ聞いているか確かめる。
確かめると――
温かく、どこか申し訳なさそうに微笑んだ。
「怖がるな。これは、ただの物語だ」
そう言って、体を起こす。
「五人は世界を、分けて奪った」
北。
南。
東。
西。
中央。
それぞれが玉座に座り、
それぞれが、それを正義と呼んだ。
「だが、貪欲には限界がない」
老人は静かに続ける。
「神でさえ、永遠に玉座には留まれない。
ましてや人間なら、なおさらだ」
やがて、戦争が始まった。
クヴィジの左腕の下には、一本のパイプが置かれていた。
長年の煤で黒ずみ、木目がほとんど見えない。
まるで、記憶そのものが染み込んだかのようだ。
彼はゆっくりとそれを取り、唇に当てた。
指先に、一瞬だけ静かな炎が灯る。
派手な魔法ではない。
温かく、慣れ親しんだ火。
炎が中の草に触れ、
ゆっくりと燃え始め、濃く、渋い煙を吐き出した。
クヴィジは、深く吸い込む。
煙は空気に広がり、本の文字を覆い、
像を、声を、顔をぼかしていく。
語り手の息と絡み合いながら、
物語を、さらに先へと運んだ。
子どもたちは思わず咳き込んだ。
誰かは口を手で覆い、
誰かは顔をしかめ、少し距離を取る。
それでも――
誰一人、席を立たなかった。
煙が渦を巻き、
まるで意思を持つかのように漂うのを見つめながら、
彼らは、ただ聞き続けていた。
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