第3話 雨のち涙

備中高松城を取り囲む水面を、梅雨の雨が叩いていた。

堤防によって作られた巨大な泥の湖。その中央に浮かぶ孤城を見下ろす本陣で、羽柴秀吉は満足げに口元を歪めていた。

「どうじゃ官兵衛。水攻めとは、味方の血を一滴も流さず勝つ。これぞわしの戦よ」

傍らに控える軍師・黒田官兵衛が静かに頷く。

「左様でございます。天下に類を見ぬ奇策。織田の武威、ここに極まれりですな」

全ては順調だった。毛利との決戦を制し、この吉報を信長に届ける。そうすれば、またあの男はニヤリと笑い、「でかした、猿」と褒めてくれるはずだ。その一言のために、秀吉はここまで這い上がってきたのだから。

しかし、その平穏は一通の密書によって切り裂かれた。

泥まみれの使者がもたらした報せ。それは、明智光秀の軍勢が京都・本能寺を襲撃し、信長が横死したというものだった。

「……う、そだ」

秀吉の喉から、ひしゃげた音が漏れた。

思考が真っ白になる。胃の腑が裏返るような衝撃。

あの信長が? あの絶対的な太陽が、消えた?

「お館様ッ! う、うわぁぁぁ!」

秀吉は床を叩き、獣のように慟哭(どうこく)しようとした。悲しみではない。恐怖だ。

信長という巨大な傘がなくなった今、自分はただの猿に戻ってしまう。周りは敵だらけだ。毛利がこの事実を知れば、直ちに総攻撃を仕掛けてくるだろう。殺される。ここで終わる。

その時、耳元で冷ややかな声がした。

「殿。……ご運が開けましたな」

秀吉は涙で濡れた顔を上げ、声の主を睨みつけた。黒田官兵衛だ。

この男は、主君の死を「好機」と言ったのか。

「……貴様、何を」

「泣いている暇はございませぬ。今すぐ毛利と和睦し、全軍を率いて京へ戻り、明智を討つのです。さすれば、貴方様が天下人となり代わる」

官兵衛の瞳は、氷のように冷徹で、それゆえに正しかった。

秀吉の背筋に、戦慄が走った。悲しみに暮れる「人」としての心と、生き残るために計算を始める「獣」としての本能。その二つが激しくぶつかり合う。

(そうだ。泣いていては死ぬ。わしは生きねばならん)

秀吉は袖で乱暴に顔を拭った。

まだ赤いその目には、先ほどまでの怯えは消え、代わりに異様な光が宿っていた。

「……官兵衛。毛利には悟らせるな。信長公はご健在、すぐにでも援軍に来ると吹き込め。そして高松城主・清水宗治(しみず むねはる)の首だけで手打ちにしてやると恩を売れ」

「承知いたしました」

秀吉は自らの頬を両手で張り飛ばした。

演じるのだ。悲劇の忠臣を。そして、誰よりも早く仇討ちに駆けつける英雄を。


翌日、湖上の小舟で清水宗治が切腹した。

その見事な最期を検分しながら、秀吉は心の中で手を合わせた。

(すまぬ、宗治。お主の命、わしの天下への踏み台にさせてもらう)

和睦は成った。

全軍に撤退命令が出ると同時に、秀吉は兵たちの前で、ついに溜め込んでいた「演技」を爆発させた。

「皆の者! 聞けッ! お館様が……信長様が、明智の謀反に遭われた!」

雷に打たれたように静まり返る兵たち。

秀吉は地面に崩れ落ち、泥水を掴んで泣き叫んだ。

「おのれ日向守(明智光秀)! 恩を仇で返しおって! わしは許さん、この手で八つ裂きにしてくれるわ! 皆の者、わしに力を貸してくれ! 弔い合戦じゃあッ!」

その涙の半分は演技だった。兵を奮い立たせるための演出だ。

だが、残りの半分は本物だった。

もう、誰も守ってくれない。この先は、全ての決断、全ての責任を、この小さな背中で背負わなければならない。その孤独に対する、魂の叫びだった。

「走れ! 走れぇッ!」

そこからは地獄だった。

雨の中、数万の軍勢が不眠不休で街道を駆け抜ける。

兵たちは握り飯を走りながら食らい、川の水を飲み、倒れる者は道端に捨て置かれた。

秀吉もまた、馬上で揺られながら、襲い来る睡魔と不安と戦っていた。

姫路城、明石、兵庫。

常識外れの速度で進軍しながら、秀吉は懐の草履を思い出した。

あの日、冷たい草履を温めた自分。あの頃は、ただ信長に認められたい一心だった。

だが今は、その信長を超え、信長が成し遂げられなかった「天下」を掴もうとしている。

(お館様。わしは、地獄へ行きますぞ)

京都へ近づくにつれ、雨は上がり始めていた。

雲の切れ間から射す光はまぶしいが、もはや暖かくは感じない。

それは、天下人という、冷たく乾いた孤独な座を照らしているようだった。

秀吉の目から、また一筋、涙がこぼれた。

だがそれは、もう誰に見せるためのものでもなかった。

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