第2話 殿の味
越前、金ヶ崎。
春だというのに、日本海から吹き付ける風には冬の残滓(ざんし)が混じっていた。
陣中には、鉛のような沈黙と、抑えきれない動揺が渦巻いている。
「浅井長政、謀反」
その急報は、破竹の勢いで進軍していた織田軍の足を止め、凍り付かせた。信長の義弟であり、鉄の結束を誓ったはずの浅井が裏切った。前には朝倉、後ろには浅井。織田軍は「袋の鼠」となったのである。
「退くぞ」
信長の決断は早かった。だが、数万の軍勢を無傷で撤退させるには、敵の猛追を一身に受け止め、時間を稼ぐ「捨て石」が必要だ。
すなわち、殿(しんがり)。
それは十中八九、死を意味する役目だった。
重苦しい空気の中、諸将が視線を逸らす。柴田勝家も、丹羽長秀も、口を真一文字に結んでいる。彼らが惜しいのではない。織田家の中核をここで失うわけにはいかないのだ。
(誰かがやらなきゃならん。……誰が?)
藤吉郎は、脂汗の滲む掌(てのひら)を袴(はかま)で拭った。
ここで手を挙げれば、死ぬかもしれない。だが、手を挙げなければ、自分のような「成り上がり」は、いつまでたっても織田家の中で捨て駒扱いのままだ。
(賭けるか。俺の命一つで、大将の座を)
恐怖で胃が縮み上がる。吐きそうだ。だが、藤吉郎はその吐き気を強引に飲み込むと、誰よりも高く、大げさに声を張り上げた。
「お館様! この藤吉郎にお任せあれ! 敵を鮮やかに食い止め、無事にお逃がし申してみせまする!」
信長がギロリと彼を見た。その目には、哀れみも期待も入り混じった複雑な色が宿っていた。
「……死ぬぞ、猿」
「猿は木登りと逃げ足だけは誰にも負けませぬ!」
藤吉郎は、顔が引きつるのを隠すために、道化のように笑ってみせた。
撤退戦が始まった。
信長本隊が去った後の金ヶ崎城は、静寂と死の匂いに満ちていた。
残った兵はわずか。藤吉郎と共に殿を務めることになったのは、明智光秀、そして徳川家康である。
「貴殿はよく笑うな。死ぬのが怖くないのか」
冷ややかな声がした。明智光秀だ。教養人であり、隙のない鎧姿の彼は、泥だらけの藤吉郎をどこか見下すような目で見ている。
「怖いから笑うんですよ、明智殿。しかめっ面をしてたら、兵たちが怯えちまう」
藤吉郎は腰の干し飯(ほしいい)を齧(かじ)った。砂が混じってジャリっという音がした。
「……合理的な男だ」
光秀はふんと鼻を鳴らし、鉄砲隊の配置に戻っていった。
その横で、黙々と矢の点検をしている男がいた。徳川家康だ。
三河武士の長であるこの男は、同盟軍でありながら、あえてこの死地に参加していた。
「徳川殿、なぜ残った? あんたは逃げても誰も文句は言わんのに」
藤吉郎が尋ねると、家康は表情を変えずに太い腕で弓を引いた。
「義理、ではない。ここで織田殿に恩を売っておくのが、徳川のためになる。それだけのこと」
「……あんたも、難儀な性格だなぁ」
言葉とは裏腹に、家康の手は震えていない。その腹の座り方に、藤吉郎は底知れぬ恐ろしさを感じた。
(こいつら、化け物か。俺だけか、膝が笑っているのは)
その時、山鳴りのような轟音が響いた。朝倉軍が押し寄せてきたのだ。
「来るぞ! 撃てッ! 撃ちかけろッ!」
藤吉郎は采配を振り回し、絶叫した。
鉄砲の硝煙が視界を白く染める。悲鳴と怒号。隣にいた兵が、矢を受けてどうと倒れる。その血が藤吉郎の頬に跳ねた。
熱い。生臭い。
これが戦場だ。これが「殿」だ。
逃げたい。今すぐ全てを放り出して、尾張へ逃げ帰りたい。
だが、背後には信長がいる。ここで崩れれば、信長が死ぬ。信長が死ねば、俺の夢も、出世も、全てが水泡に帰す。
「引くな! 一歩も引くな! 俺たちは織田の盾だ! 猿の盾は硬いぞ、歯が欠けるぞ!」
藤吉郎は槍を手に、自ら最前線へ飛び出した。
恐怖をごまかすために叫び続け、喉からは血の味がした。
数時間が経っただろうか。あるいは数日だったか。
終わりのないような防戦の末、敵の追撃が鈍った瞬間があった。
「今だ! 退けッ! 走れッ!」
泥と血にまみれながら、藤吉郎たちは山道を駆け抜けた。
生き残った。
その実感が湧いたのは、安全圏まで撤退し、川の水を口にした時だった。
川面に映る自分の顔は、泥と煤(すす)で黒く汚れ、まるで老人のようにやつれ果てていた。
隣では、光秀が乱れた髪も気にせず荒い息をつき、家康が無言で空を見上げている。
「……生きてるか、みんな」
藤吉郎が掠れた声で言うと、二人は微かに頷いた。
懐に残っていた干し飯を取り出す。泥水でふやけ、ひどい見た目になっている。
それを口に放り込んだ。
泥の味。血の味。そして、生き延びたことへの安堵と、言いようのない疲労の味。
「……まずい」
藤吉郎は呟いた。
だが、噛み締めるほどに、自分が「武将」として一皮むけた感覚があった。
ただの猿ではなく、一軍を率いる将としての重み。それは、この泥の味を知る者にしか分からないものだ。
「さあ、帰ろう。お館様が待っている」
藤吉郎は立ち上がった。
膝の震えは止まっていた。だが、心の中には新たな重石が生まれていた。
(次は、もっと過酷なことが待っている。出世すればするほど、死は近づくのだ)
京へと続く道は、夕闇に沈みかけていた。
藤吉郎の背中は、少しだけ大きく、そして寂しげに見えた。
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