天下人のため息 ~秀吉の憂鬱~

Algo Lighter アルゴライター

第1話 懐のぬくもり

雪が舞っていた。尾張の冬は、骨の髄まで冷気が染み込む。

清洲城の濡れ縁で、木下藤吉郎(後の秀吉)は膝を抱え、自分の呼気が白く濁るのを見つめていた。

「寒い……」

口に出せば、余計に寒くなることは分かっている。だが、藤吉郎の震えは寒さのせいだけではない。壁一枚隔てた向こうにいる、あの男のせいだ。

織田信長。

この若き主君は、気まぐれな雷のような男だ。機嫌が良いときは豪快に笑うが、ひとたび逆鱗に触れれば、家臣だろうが縁者だろうが容赦なく切り捨てる。その瞳には、常人には見えない狂気と理性が同居している。

藤吉郎は、まだ身分の低い草履取りに過ぎない。彼の代わりなど、いくらでもいる。

(へまをすれば、殺される。いや、役に立たないと判断されただけで、捨てられる)

その恐怖が、藤吉郎の胃を常に締め付けていた。

「おい、猿」

ふいに障子が開いた。同僚の小者が、嘲るような目で藤吉郎を見る。

「殿がお出かけだ。草履を用意しろ」

「へい! 直ちに!」

藤吉郎は弾かれたように飛び起きた。顔には媚びへつらうような満面の笑みを貼り付ける。これが彼の鎧だった。道化を演じていれば、警戒心を解かせることができる。

しかし、縁側に並べた主君の草履を見て、藤吉郎の顔から血の気が引いた。

草履は氷のように冷え切っている。

このまま出せば、信長は裸足でこの氷を踏むことになる。あの癇癪持ちの主君が、「冷たい」と不快に思ったらどうなるか。

蹴り飛ばされるか、最悪の場合、手討ちか。

(どうする。どうする藤吉郎!)

彼は震える手で草履を掴んだ。焚き火で炙る時間はない。息を吹きかけても無駄だ。

藤吉郎は意を決し、着物の襟を寛げると、冷え切った草履を素肌の胸――懐(ふところ)へと強引にねじ込んだ。

「ひっ……!」

悲鳴を噛み殺す。冷たい藁の感触が、肋骨に直接突き刺さるようだ。心臓が早鐘を打つ。

だが、藤吉郎は両腕でわが子を抱くように胸を圧迫した。俺の体温を吸え。俺の命を吸って、温まってくれ。

数分後、信長が現れた。

その鋭い眼光が藤吉郎を射抜く。藤吉郎は平伏し、震える手で懐から草履を取り出して揃えた。

信長が無言で足を滑り込ませる。

一瞬、その動きが止まった。

藤吉郎は額を床に擦り付けたまま、心臓が破裂しそうだった。

(気色悪いと怒るか。生温かいと罵るか)

「……猿」

頭上から降ってきた声は、予想に反して低く、静かだった。

「は、ははっ!」

「貴様、草履を尻に敷いておったか」

試すような響き。藤吉郎は顔を上げ、必死に首を振った。

「め、滅相もございません! お足元が冷えぬよう、この藤吉郎の胸にて温めておりました! この薄汚い身で恐れ多いこととは存じますが、お館様のおみ足が少しでも楽になればと……!」

必死の弁明。嘘ではない。だが、これは命がけの自己演出でもあった。

信長は片眉を上げ、じっと藤吉郎を見下ろした。その沈黙の数秒が、藤吉郎には数年にも感じられた。

やがて、信長は鼻を鳴らした。

「ふん。……悪くない」

それだけ言い捨てると、信長は足早に庭へと降りていった。その背中からは、先ほどまでの殺気立った空気が少しだけ消えているように見えた。

藤吉郎はその場にへたり込んだ。全身からどっと脂汗が噴き出す。

冬の風が吹き付けるが、もはや寒さは感じなかった。

(助かった……)

安堵とともに、奇妙な高揚感が湧き上がってきた。

あの信長が、自分の機転を認めたのだ。「悪くない」と言ったのだ。

それは、ただの草履取りが、天下を狙う魔王の心に、ほんの数ミリだけ爪痕を残した瞬間だった。

「……出世してやる」

藤吉郎は、冷え切った自分の胸をさすりながら、小さく呟いた。

いつか、誰の顔色も伺わず、誰にも怯えず、自分の思うままに生きるために。

だが彼はまだ知らない。

出世すればするほど、守るものが増えれば増えるほど、この「憂鬱」がより巨大なものとなって彼を押し潰しに来ることを。

藤吉郎は立ち上がり、雪の舞う空を見上げた。

彼の長く、苦しい天下への道が、ここから始まったのである。

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