第三章 日本は守れたのか
記紀は、日本神話の「名前」を固定することに成功した。
創世の物語には、イザナギとイザナミがいる。英雄譚には、スサノオとオオクニヌシがいる。国の起源には、天孫降臨と神武東征がある。
これらの名前は、千三百年経った今も生きている。神社があり、祭りがあり、物語が語られている。出雲大社に参拝する人は、オオクニヌシの名を知っている。天岩戸の物語は、子供向けの絵本にもなっている。
記紀は、日本神話を守った。ストーリーを作り、ローラシア型の外装をまとう事で、内部のゴンドワナ型の神話を「守った」。
——本当だろうか?
本当に、守れたのか? 仏教伝来は1400年も前の話だ。奪われたのに、忘れているだけではないのか? 奪われたことさえも、忘れているのではないのか?
実際、記紀には書かれていないものがある。記紀は「始まりの物語」であって、「終わった後」を語らない。
死後の裁きについて、記紀は語らない。地獄について、記紀は語らない。極楽について、記紀は語らない。終末について、記紀は語らない。
これらを語るのは、日本においては、仏教の役割になっている。
閻魔大王が死者を裁く。嘘をついた者は舌を抜かれる。悪人は地獄に落ち、善人は極楽に行く。やがて末法の世が来て、弥勒菩薩が現れる。
日本人の「あの世」のイメージは、仏教が作っている。記紀ではない。
これは「守れなかった」のではないか? 昔、日本にあった死生観が、仏教に上書きされた結果なのではないか?
奪われたことさえ、忘れているのでは?
だが、それは違う。
奪われていない、と私は考える。
そもそも無かったのだ。
一般に、ゴンドワナ型神話には「終末」が無いのだ。世界は循環する。「始まりがあって終わりがある」という発想がない。
死後の裁きもない。「あの世」ではご先祖様が平和に暮らしていて、お盆に帰ってくる。「善悪で行き先が分かれる」という発想自体がない。死者は裁かれない。死者は、ただ「向こう側」にいる。
黄泉の国の描写を思い出してほしい。イザナミは黄泉の国にいる。しかし、そこで裁かれているわけではない。罰を受けているわけでもない。ただ、そこにいる。穢れてはいるが、苦しんではいない。
記紀が「書かなかった」のではない。書くべき内容が無かった。
ゴンドワナ型である日本の世界観には、閻魔も地獄も極楽も末法も、最初から無かった。乗っ取られたのではない。
仏教が来たとき、日本人は何を思っただろう。
「死後に裁きがある? 地獄と極楽がある?」
「へえ、そういう考え方もあるのか」
「うちには無かったな。便利そうだから使おう」
これは征服ではない。ショッピングだ。
征服とは、外来側が主体となり、「これに従え」と言うことだ。結果は上書きになる。選択権は、土着側にない。
ショッピングとは、土着側が主体となり、「これ使えるな」と言うことだ。結果は増築になる。選択権は、土着側にある。
ヨーロッパは征服された。ローマ帝国がキリスト教を国教とし、帝国の版図に広げた。ゲルマン人の王たちは、ローマの権威を借りるためにキリスト教を受け入れた。選択権があったように見えて、実質的には「従わなければ排除される」状況だった。
日本はショッピングした。仏教は朝廷の招きで入ってきた。物部氏と蘇我氏の争いはあったが、それは「どちらの選択が正しいか」の争いであって、「服従か死か」の争いではなかった。主体は常に日本側にあった。
家に喩えてみよう。
元の家——ゴンドワナ型——には、リビングと寝室と台所がある。創世神話があり、英雄譚があり、祭祀がある。
しかし、裁判所がない。刑務所がない。ホテルもない。
仏教がやってきて、言った。「裁判所と刑務所とホテル、要りませんか」。
日本人は言った。「うちには無かったな。建て増ししよう」。
増築部分として、閻魔の裁判所と、地獄の刑務所と、極楽のホテルが加わった。
元の家は壊されていない。新しい部屋が増えただけだ。
リビングではイザナギとイザナミの物語が語られ、増築部分では閻魔様が睨みを利かせている。矛盾しない。別の部屋だから。
日本神話は、何も失っていない。無かったものを買い足しただけだ。
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