第八話  ニール・ルリェード





「しかし、さっきの治療⋯本当に凄かった」


俺は感慨深い息を吐きながら、シタに向かってヒールの凄さを語ろうとしていた。


あのじんわりと優しい木漏れ日の様な光⋯


解けていく痛み⋯あぁ、本当に素晴らしい魔法だった。


「まるで初めて見たような口ぶりね」


そう言われて、思わず「そりゃそうだ」と頷きそうになる。


だが、そこでふと気付いた。


———この世界の人間にとって、回復魔法は特別なものじゃないのか。


考えてみればそうだ。


幼い頃か、転んで膝を擦りむいた時。


喧嘩で怪我をした時。


そういう場面で、当たり前のようにヒールを浴びて育ってきたのだろう。  


そう思うと、急に自分の感動が場違いなものに思えて、俺は口を閉ざした。


代わりに、治療師から直々に言われた事を思い出す。


「俺さ、ヒール使いたいって言ったんだよ」


何気ない調子で言ったつもりだったが、声の奥には未練が滲んでいたと思う。


「でも、会得するのは無理に等しいってさ⋯」


自嘲気味に肩を竦める。


嘆く俺に、シタは特に考え込む様子もなく、さらりと言った。


「瑠衣は勇者なんだから、そんな事くらい、いとも簡単に出来るでしょう」


⋯一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。


「⋯は?」


思わず間の抜けた声が漏れる。 


「ちょっと待て。止まれ。今、何て??」


「だから———」


シタは俺の静止を無視して歩き続け、当然の事の様に繰り返す。


「勇者なら、回復魔法の一つや二つ、使えて不思議じゃない」


「いやいやいや」


俺は慌てて首を振った。


「医療魔法って繊細で難しいんだぞ?人体の構造がどうとか、魔力制御がどうとか⋯」


腕利きの医者が言っていた事を片っ端から述べる。


それでも、


「理論上の話でしょ?」


と、ぴたりと遮られてしまう。


「貴方は理論通りにか動けない人間?」


その問いに、俺は言葉が詰まった。


「⋯違う、けど」


「なら問題ないわ」


シタは前を向いたまま言う。


「勇者っていうのは、常識の外側で成立する存在よ」


その言葉が、胸の奥に引っかかった。


常識の外側。


それはつまり———この世界の当たり前から、少しだけズレた場所。


⋯そんな所に、俺なんかがいけるのか?


いや、居て良いのか?


俺は只でさえ、普通の地球人なんだ。


こういう事をさらりと言ってしまえる力を持ったシタに


どうしようもなく腹が立つ。


「⋯簡単に言うなよ」


そう呟くと、シタはほんの一瞬こちらを見たような気がした。


「簡単じゃないわ」


間を開けず放たれたその声色は、先程までとは違って


少しだけ静かだった。


「だからこそ、〝勇者〟なのよ。」


その言葉を、俺はすぐに受け取る事が出来なかった。


足が僅かに止まり、無意識に指先を握り込む。


胸の中で、何かが小さく揺れている。


———もし、本当に。


俺がそれを使えるとしたら。


常識の外側に立てるとすれば。


そんな考えを振り払うように、俺は短く息を吐き


歩調を早めた。


石畳を踏む音がやけに大きく響く。


「⋯ま、今は酒だわな」


わざと軽く言って見せる。


「話を逸らすのが早いわね」


俺は振り返らず、口角だけをわずかに上げる。


「未来の話は酔ってからだ」


そうして酒場の灯りへと足を向ける。


胸の奥に残った違和感はまだ形にならないままそこにあった。


——それを言葉にできる日は、いつに来るのだろうか。



軋む音を立てて開いた木製の扉は、どこの街だろうと変わらない景色があった。


煤けた梁が頭上を横切り、何年、何十年と溜め込まれた煙の色が幾層にも重なっている。


それは黒でも灰色でも無く、酒と火と人間の時間が溶け合った鈍い茶色だった。


吊るされた桃色の光は均等ではなく、


強く照らす場所と影に沈む場所を勝手に作り出している。そのせいで人の顔はどれも少しだけ誇張され


笑みは大きく怒りは強く、疲れは必要以上に深く見えた。


床板はところどころ沈み、誰かが歩くたび


「ここだ」「いやここだ」とでも言いたげにキシキシと音を立てる。


むっとする様な匂いを胸いっぱい吸い込むと少し咳が出そうになった。


「⋯すげぇ、コレだよ、これ」


ずっと恋しかった匂いに声を出す。


シタは何も言わない。


ただ当たり前の場所を歩くように迷いなく店の奥へ進んでいく。


俺は妙に見慣れた背中を追った。


カウンターは長く、表面はザラザラとした手触りで、


何度も削られたように使い込まれたものだ。


空いていた端の席に腰を下ろすと、椅子が小さく鳴く。


背もたれは随分と低く、体を預けるには心許ない。


だがその不安定さが「ここは長居する場所ではない」と語っているようだ。


肘を置いた瞬間に、気の冷たさが伝わる。


その感触がここへ来るまでの道のりをはっきりと現実に引き戻してくる。


「酒を二杯頼む」


カウンター先の女に短く告げると、ほどなくしてジョッキが二つ、乱暴とは言わないが丁寧とも言えぬ置き方で置かれる。


琥珀色の液体は縁すれすれまで注がれており、


ランプの光を受けて僅かに揺れている。


それを一口、口に流し込む。


「っはぁ⋯!」


思わず息が吐かれた。


魔法では解けない心の緊張が、


じわじわと溶けていく感覚を二度、三度。


「⋯⋯はぁ」


苦みと甘みが混ざり、舌の上に重く残る。


この感覚が癖になる。


不味いと言われれば不味いし美味いと言われれば美味いその味が、まるで今の俺みたいだ。


酒は、体よりも先に心を緩めるらしい。


言葉の端が少しずつ軽くなるのを 自分でも感じていた。


「この街さぁ⋯」


四杯目あたりから、呂律が怪しくなる。


「なんか、良いよな⋯空気が」


「抽象的ね」


シタは、ジョッキに一口も口をつけていないようだった。


コイツ、酒を飲まずに何しに来たんだ。


財布だけ置いていってくれれば俺も落ち着いて飲めるのに。


「そういうとこが良いんだよ」


不満も募るが、その何倍も楽観な気分が募る。


明確な理由は分からず、ただ意味もなく、微笑んでしまう。


「⋯飲み過ぎよ」


シタの声が、少し遠く聞こえた。


さては自分の奢りだからって、あまり無茶しないよう制御をかけているな。


俺には血も涙もない無茶をさせた癖に、


コイツと言ったら。


「あんだってーーーーーー?」


完全に出来上がった体が自然とシタの方へ傾いていく。


「あ、ちょっと」


肩に触れる感触が、やけに柔らかい。


「⋯座り直しなさい」


「んー⋯⋯」


ぼやけた視界の端で、半眼のシタが目に見える。


渋々言われた通りにしようとして、見事に頭が揺れた。


椅子の小さな背に全身を掛け、天井を見上げる。


ランプの光がやけに眩しく、溜息まで零れてしまう。


「なぁ、シタ⋯」


「何?」


「ヒールってさ⋯緑だったろ⋯」


「⋯ええ」


「俺、あれ好きだわ⋯⋯」


唐突な話題だったが、シタは否定してこない。


返事すら面倒だと思われているのか。


相変わらず何をしに来ているのか分からないほど、ジョッキに口をつけること無く、こちらを見ている。


「⋯そう」


「なんかぁ⋯今〝生き直した〟っ!って感じする」


言いながら、指先で宙をなぞる。


まるで天井の光を掴もうとするみたいに。


残念な事に、ランプの色は温かい色だが緑ではない。


見兼ねたのか、そうする俺にシタは溜息を落とす。


「掴めないわよ」


「分かってる⋯」


分かっているのに、可笑しくて笑ってしまう。


楽しさに乗りジョッキを煽り干すとその時、


ジョッキの底に顔が映った。


歪んだ顔、赤くなった頬、締りのない口元。


勇者らしからぬその顔に思わず鼻で笑ってしまう。


(⋯ひでぇ)


勇者とは、悪を滅する力を与えられた者の名だ。 


豪邁で、強く、決して怯まない存在として語られる。


そんな肩書きとこの顔が、今どうしても噛み合わない。


底に映るこの男は、決してそんな勇敢な者ではないだろう。


「俺さ⋯」


言葉が途中で切れる。シタは不思議そうに覗き込んだ。


「⋯?」


「⋯⋯いや⋯勇者って、面倒くせぇな⋯⋯」


 


酒がほどいてしまった本音が呟かれてしまった。


「魔物、普通に怖いし⋯怪我したら痛いし⋯」


俺は止まらず、肩を竦める。


「杖振るのも、正直向いてないと思う。〝当たればラッキー〟ってがむしゃらに振り回してるだけだから。」


合間に酒を一口、口に含む。


ジョッキを置く音がやけにしっかりと響いて聞こえた。


「逃げられるなら逃げたい時もある」


切った言葉はすっかり遠のいた酒場の喧騒の中に溶け込んで、届かなくなっていた。


「でも逃げると⋯誰かが死ぬんだよな」


新しく出た言葉は淡々としているのに胸の奥がじわりと熱を持った。


その「誰か」という中には、勿論自分も含ませている。


俺は俺を信じ切っちゃいないから


勇者が居なかったから、とか


勇者が来なかったから、とか


「勇者が間に合わなかったから⋯とか」


そう言われる未来が、何度も頭を過ぎる。


「それ考えるとさ」


俺は天井を見上げた。


「怖くても嫌でも⋯行くしかねぇじゃん。向いてないって知ってても、代わりが居ないならやるしかない。」


「この世界の奴らは、魔王ってヤツに脅かされてんだろ?俺が勇者になって蘇る前はそりゃもう———さぞ怖かっただろう。」


「俺が勇者になったからには、その恐怖も期待も全部背負わなきゃならない。だから——」


言葉を並べながら、自分に言い聞かせているのが分かる。


だが、気持ちの良かった酔いに酔うよりも、今こうしてつらつらと弱音を吐き出す方が気持ちいい。


この世界に来てから気持ちよく感じられる事は酒しか無かったが、自分の胸の内を明かすというのは


こんなにも気持ちいいのか。


「だから普段は言わないよ。暗くなるし。」


聞かされる方だって困る。


それに、勇者がビビってる話なんて誰も聞きたくない。


「でも、お前くらいには言ったって良いだろ!」


そう、グラスを指で弾くと、シタはそちらに視線を落とす。俺はそんなシタの方を見て、ヘラっと笑った。


「⋯⋯」


暫くして、シタが静かに口を開いた。


「⋯貴方は」


言葉を選んでいる様だった。


そんな事しなくたっていいのに。


俺は、こんなにも弱々しく話したのにさ、


硬いもんだよな、シタは。


「勇者に向いていない。でも、」


その言葉に、俺は頷く。


続く言葉に、顔を上げる。


「勇者である事から、目を逸らさない。魔王にとってそれは⋯向いている人より、厄介よ。きっと。」


俺は意図せずキョトンとする。


「何それ」


「褒めてるの」


「素直になれよ」


今のが褒めているだと?何て汲みにくい褒め言葉だ。


わだかまりを抱えながら、俺はまた酒を飲む。


俺が魔王にとって厄介になる⋯?


まだ、分からない。


分からない事だらけで参ってしまう。いや、


とうに参ったんだよ。


暗闇に落ちた先の見えない道も照らされる事なんて無い。


だから進んだ先が正解かどうかも、何一つ確信なんてない。けれど、胸の奥の重さも道の形も


分からないなりに少しだけ変わった様な気がする。


ただ抱え方を教えられた、そんな感覚だ。


シタはこういう時、本当に頼りになる。


「⋯あ。酒、ぬるくなった」


どうでもいい事を口にすると、シタはジョッキに触れただけで何も言わなくなった。


だが耳には入っているはず。


俺はそれを信じてもう一度口を開いた。


「俺は弱いからさぁ、本当に頼りにしてるんだよ。お前の事。」


シタは、何も言わなかった。 


顔色一つでも変えれば可愛げがあるものを。


だがその沈黙が妙に心地良く思っている俺は


とんだ仲間馬鹿かもしれない。


少しずつ、周囲の音が戻ってくる感覚さえした。


笑い声、皿の擦れる音。


さっきまで遠のいていた酒場の喧騒が、俺達の背後に再び居場所を作り始めていた。


俺はカウンターに頬杖をつく。


シタが相手をしてくれなくなり暇となった指先が、結露で湿った木目をなぞる。


(もう酔い覚めちまったし⋯)


腹の奥に残っていたはずの熱が知らない間にすうっと引いてしまっている事に気付いて、内心で舌打ちした。


せっかくいい気分だったのに、と思えば思う程悔しい気持ちに腹の虫を食われて、酔いなんてものは逃げ足の早い小虫の様だなんてどうでもいい例えが浮かぶ。


俺も何も言わずにジョッキを掴み、縁に口をつける。


勢いをつけすぎて前歯にガチッとぶつけたがそんなこともどうでもいい。


琥珀色の液体が喉を通り、くび、ぐびという音だけが沈黙に落ちていく。


その音は、腹の奥にドンと居座った。


もう一口、更に一口。


考える前に傾ける様になったら、もうすぐだ。


空になりかけた底を見下ろした頃、よくやく世界の輪郭が歪み始める。


「⋯なぁ⋯」


何か言おうとして言葉が見つからず、


結局、またグラスを手に取らなければなくなる。


あっという間に


「あぁ⋯おあぁ⋯⋯」


力なく机に縋り、意味の無い声を漏らしていた。


そうもしていると、シタに怒られる気がして怖くなってくる。


だが脱力しきった体はもう今日は何をやろうと起き上がらないと確信していた。


だから怖いのだ。


口を閉じているつもりだったが、実際の所は根の合わない歯の隙間から、情けなく声が漏れていた。


その時だった。


         ————————コンッ


乾いた音が、やけに近くに鳴った。


誰かが、すぐ後ろの卓でグラスを置いた音。


続いて椅子が軋む。


体重をかけて立ち上がる気配。


視線を向けなくてもハッキリと分かる。


誰かが、こちらを観察している。


(⋯あ?)


ランプの光が遮られ、背後にもう一つの影が重ねられた 


次の瞬間。


———————————バンッッ!!


衝撃が、カウンターを通して腕に、胸に、ずんと重く伝わる。


酒が揺れ、ランプがぐらりと跳ねた。


ざわり、と。


酒場の視線が一斉に此方へ集まるのも、嫌なくらいに分かった。


その場にいた全員が分かるほど、その大きな音は全員の息を止めたのだった。


「お、俺も⋯⋯⋯!」


突然、切羽詰まった声が頭上から落ちてくる。


振り返る暇もなく、見知らぬ男は胸に手を当て、


深く頭を下げた。


「僕を仲間に入れて下さあああっい!!!」


一瞬の静寂の後、またざわりと空気が揺れる。


周囲の人々が何事だと囁き合っているのが分かる。


——瑠衣は、驚いたように瞬きをして男を見上げた。


ところが、焦点の合わない目で数秒考えるフリを見せ、


それから破顔する。


「うん!おっけ!」


あまりにも軽い返事だった。


シタが小さく溜息をついたのが、切羽詰まる男の耳にも届いた。


「瑠衣。」


制止する様な女の声は、しかし瑠衣の上機嫌な笑いにかき消される。


「大丈夫だって!良い奴そうじゃんかぁ」


周囲の騒ぎが呆れ半分に変わり、散っていく。


男が困惑しているように見えたシタは、瑠衣に代わり頭を下げようとする。


その、次の瞬間。


ぐらり、と瑠衣の体が傾いた。


椅子から投げ出され、今にも床に叩きつけられようとしている。男は反射的に手を伸ばした。


抱き止めるほど近くない、だが放っておけば確実に倒れてしまう距離にあった。


肩を支えると、思った以上に体重が預けられてくる。


「⋯ごめんなさい」


女が短く礼を言うより早く、男の中で、


長年抑え込んできた〝世話焼き〟の性分が顔を出していた。


「冷水を。あと、おしぼりも」


店員に声を掛け、すぐさま瑠衣を椅子に座らせ直す。


額に浮いた汗を布切れで拭い、呼吸を整えさせるように背中をさする。


すると瑠衣は半目になりながら蚊の鳴くような声で何かをぶつぶつと呟いていた。


男はすかさず耳を傾ける。


「だいじょぶ⋯勇者だし⋯」


その言葉を確かに聞いた瞬間、男の胸の中で何かが静かに確信へと変わった。


———やはり、この男が。


夜はそのまま流れ、酒場の灯りが落ちる頃、


瑠衣は酔い潰れていたと表現する他無いほどの有様だった。


※※


———とてつもない頭痛で目が覚めた。


医療魔法で治ったのは夢だったのか?殴られたわけでもないのに、


胸の中心部だけが重く、じわじわと締め付けられている。


目を開けると視界が少し揺れて、慌てて瞬きを繰り返した。


「⋯っ、いってぇ⋯」


あたりを見回すと、天井がある。木目。シミ。


見覚えはない。


身体を起こそうとして、途中で諦める。


吐き気が込み上げてきたからだ。


⋯昨日、どこまで飲んだっけ。三杯?五杯?いや、


そんな可愛い量じゃ無かった気がする。


「⋯ここ、何処だ⋯」


まだ霞む視界懸命に動かすと、更に簡素な部屋が目に入る。


ベッド、椅子、小さな窓。なんだ、刑務所か?


いいや、安宿、だな。


そこまで考えた所で、視界の端に人影が映った。


「起きた」


これまた簡素な声。冷静で、感情の起伏がない。


そっちを見ると、腕を組んだ女が立っていた。あぁ、シタだ。


「⋯⋯⋯おはよ」


自分でも驚くくらい軽い声が出た。


女は一瞬、何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わずに溜息のみを落とす。


それから俺の後ろに視線を向ける。


その視線を追って、俺は初めて〝もう一人〟の存在に気が付いた。


壁際に、男が立っていた。


姿勢が妙に正しく、宿の簡素な部屋には少し浮いているほどにきちんとしている。


旅装束らしい服装にさえ、どこか真面目さが滲んでいた。


⋯⋯誰だ、こいつ。


数秒、無言で見つめ合う時間が流れた。その間、俺は必死に記憶を掘り返していたのだ。


昨日の夜、酒場、笑い声、そして———そこから先が、綺麗に抜けている。


「⋯え、コイツ誰?」


長い無言の時間を、抜けた俺の声が破る。


やっぱり自分でも驚くくらい、いかにも元の世界の関西弁っぽいイントネーション。


それは、頭が回っていない何よりの証拠だった。


シタがわかりやすく肩を落とす。


「やっぱり覚えていないのね」


男は少し気まずそうにしながら、一歩前に出てきて丁寧に頭を下げた。


「覚えていらっしゃらない様ですので改めて⋯昨夜、酒場で声をお掛け致しました。しがない旅人、ニール・ルリェードと申します。どうか、僕を勇者様の仲間にして下さい!!」


勢い良く頭を下げられて、思わず目を瞬いた。


ニール・ルリェード。全く聞き覚えがない。


名前って、普通はもう少し耳に残るもののはずなんだが⋯


いや、そもそも覚えてない時点で、名前の由来を評価する資格は俺にないんだけれど。


ふむ。


どうやら昨夜の俺は記憶をなくすほど飲んでいた様だ。


それにしても———勇者様、だと?


内心で、盛大に引っかかる。


なんだその敬称。いつから俺は〝様〟付けされる立場になった。


そういうのはまだ早いだろう。


名乗った覚えも無ければ、看板を背負った記憶もない。


「コイツに勇者なんて言った覚えはないぞ!」


反射的にそう言い放ち、俺は勢いよく隣を振り向いた。


堂々とした態度だった。


まるで正義はこちらにあると言わんばかりに。


————ほら、説明してくれ。


どう考えても、余計なことを吹き込んだのはお前だろ。


「⋯瑠衣」


やけに重苦しい様子で、シタが手招きをする。


俺は小さく首を傾げつつ、てくてくとその傍へ歩み寄る。


差し出された顔に耳を近付けると、シタは俺の知らない経緯を端的に説明した。


「つまり昨日の貴方は〝酒に負けた結果、善意の青年をパーティーに入れた〟


という事ね。」


「俺 クズじゃんッ!!!まとめんな!!!」


全てを理解した俺は息を切らしながら


精神をすり減らされた事に叫んだ。


「はぁ⋯」


酸素を求めるように膝に手をつき、荒くなった息を整えると、肺の奥まで疲労が染み渡る。ひょっとしたら、光炎龍を倒した後より余程消耗している。


「理解できたみたいね」


シタは感情の抜け落ちた声で言った。


「要するに、貴方は自分の首を自分で締めた。それだけ。滑稽ね、瑠衣」


「お前は頼むから黙ってくれ⋯」


正論だ。正論だからこそ痛い。主に心が。


逃げ道を探して視線を彷徨わせた、その先。


「⋯あの」


控えめな声が割り込んできた。


ニールだった。背筋を伸ばし、拳をギュッと握り締めている。


その表情は緊張で強張っているのに、瞳だけは異様まっすぐだ。


「僕が、原因⋯ですよね」


それから自分を指差しながらバツの悪そうに言った。


(原因?何の?)


「僕のせいでお二方が喧嘩してしまうなんて事あってはならないのです⋯。だ、だけど⋯」


「ちょ、待て待て待て」


嫌な予感がして、慌てて止めに入る。


だがニールは一歩前に出て、深く頭を下げた。


「お願いします!!」


下手をすれば床に頭を叩きつけるような勢いだったり


「迷惑を掛けているのは分かってます!でも⋯でも、行く場所がないんです!!」


宿の一室が、一段と重い空気になった気がした。


「僕、強くならなくちゃいけないんです」


顔を上げたニールの目は潤み、何かに怯えている様に震えていた。


「ただ守られるだけじゃなくて⋯誰かの役に立てるように!!」


⋯あぁ、駄目だ。


この手の真っ直ぐな願いは何より効く。


(ちくちょう⋯こういうタイプが一番断りづらい。)


「雑用でも何でもやります!荷運びでも、囮にだってなってやります!!」


「いや、流石に囮にするような人間じゃ⋯」


一体どんな奴らと共に居たんだと思わず口を挟むが、勢いは止まらない。


「追い出されたって縋りません!図々しく惜しむような事はしません!ただ貴方の⋯勇者様の激闘を見せて頂くだけで良いのです!!守ってもらわなくて良いのです!自分の事は自分で護ります!!お荷物になんて絶対になりませんから!!食料は、一日一回蒸した芋を頂くだけで構いません!靴を舐めろと仰るなら喜んで舐め回します!」


「舐め回すの!?」


「冬の間は木の枝を少し貰うだけで乗り越えますし、火の中に飛び込めと言うなら飛び込みます!!だから勇者様の⋯!だからっ——————!」


「ハウス!!」


空気を叩き割る様な一声に、ニールの舌はよくやく止まった。


前のめりの姿勢のまま言葉を失い、瞬きを繰り返している。


(⋯あぁ⋯)


⋯止まった。止まったが、それは遅すぎる。


必死過ぎるし、善意が暴走し過ぎてむしろ怖い。


俺は思わず額を押さえてしまう。


頭が痛い。物理的にもそうだが、精神的にもだ。


止めたは良いが、何を言おうか、と悩んでしまう。その沈黙の中、軽く息を飛ばしたのはシタだった。


「仲間に入りたいが為に支離滅裂ね」


淡々とした声色。断定的で、逃げ道を作らない雰囲気。


ニールの肩がぴくりと揺れ、口を開きかけて、閉じる。


言い返せない模様。図星だからだ。


俺も、今のニールと同じ顔を何度したか数え切れない。


「ま、まぁまぁ⋯そんな冷たく言ってやるなってば⋯」


今のニールがどんな心情か痛く分かってしまう俺は、なんとかシタを落ち着かせようとそう言った。


が、火に油だったようだ。俺の言葉はずしっと否定されてしまう。


「事実よ」


そのたった3文字で、俺の気持ちは終わらせられた。


ぐうの音も出ない。いや、出たら刺してでも止めていた。


これ以上空気が重くなるのは、もう勘弁してほしいから。


(⋯ニールには悪いが⋯ここはシタに従ってしまおう。恐らくシタの方が戦闘力も何もかも上だからな⋯俺は俺の命を最優先に考える男なのだよ)


「と、言う訳だから⋯悪いが諦め————⋯」


「何を言っているの?」


シタの声が、今度は明確に苛立ちを帯びたのが分かる。


何か気に触れるような事を言ったか?


さっきまでの淡々とした口調とは違う。


背筋をなぞるように、ヒヤリとしたものが走った。


⋯怒っている。


そう直感した、その矢先だった。


「増えるに越したことは無いでしょう」


予想外にも程がある言葉が、シタの口から零れ落ちた。


声はあくまで落ち着いていて、むしろ冷静である。


だが⋯それが逆に仇となり、思い圧が放たれている。


見下されているわけでもないのに、妙に息が詰まる。


「只でさえ貴方の勇者らしさを、まだまともに見れていないのだから」


その圧に、胸の奥がゾワリと逆立つ。


まるで自分の覚悟の足りなさを撫で回されているような、不快な感覚。


「⋯うっ」


「このままずうっと、私と二人きりで魔王討伐に向かうつもりだった?」


シタは首を傾げる。


首を傾げるという仕草は、本来可愛いものだと思っていたが、それは間違っていた様だ。一歩場面が違えば、圧力を増してしまう危険で冷たい仕草だった。


二人きり。


その言葉が、やけに重く胸に沈んだ。


心細さか、それとも甘えか。


俺は、無意識のうちにそれを選ぼうとしていたのかもしれない。 


シタはいつにも増して容赦なく心を抉ってくる。


どうやら、地雷原を踏んでしまった様だ。


「考え無しにも程があるわね。そんなのは御免だから。」


そう吐き捨てるように、ばっさりと断ち切った。


空気が完全に凍る。


ニールは呆然とし、俺は言葉を失い。


そしてきっと、俺だけが理解した。


⋯嗚呼。こいつは、本気で魔王を殺してしまうぞ。


「⋯つまり」


俺は恐る恐る口を開いた。


「増員、賛成派?」


「当然」


やけに即答だった。まるで俺の質問を先読みしたかの様に。 


「戦力は多い方が良い。当然の事でしょう?」


そう言って、シタの冷たい視線は俺からニールへと移る。


「ただし無条件では無い」


その一言で、ニールの背筋はより一層ピンと伸ばされた。


俺も何を言うのかそわそわして、静かに聞き耳を立てている


「無茶はしない事。役に立とうと勝手な判断をしない事。そして、」


少し間を置いてから、


「何があろうと彼を見捨ててはいけない」


そう、聞き耳を立てていた俺を指差して言った。


ニールは一瞬だけ唇を噛み、それでも深く、頭を下げた。


「⋯はい」


その声は、数分前よりずっと落ち着いていた。


ニールは何か納得できたようだが、お前達に


一番重要であろう俺は呆気にとられ固まっていた。


胃が軋む。


(展開が⋯早くねぇか⋯!?)


「で」


たがシタは止まらず、視線を俺に戻す。


「貴方はどうするの?」


それは、まるで「間違った回答をすれば叩く」とでも言っているように強いものであった。


逃げ場なんてものは無い


きっと、昨日酒場に入った時から決まっていたんだ。


そうに違いない。


「責任者、だろ?」


自嘲気味に笑ってやった。


「どうせ俺なんだろ」


「あら、貴方以外に誰がいるのかしら。


理解が早くてとっても助かる」


少なくとも、俺は助かっていない。むしろどん底を味わった気分だ。


今すぐに何かしてやりたいが、何も思いつかない。


どんな言葉で閉じても変わらない気がした。


いや、少なくとも今はコレで良かったと思う。


だってこうでもしないとシタは納得しないと勘付いたのだから。


それに彼女の言った通りに、戦力が増えるのは有り難いことだ。


俺は弱いし、戦いとか興味無いし、聖杖が無けりゃ誰から見てもただの一般市民———⋯


「ああ!!?」


とんでもない事に気がついてしまった俺とは裏腹に、突然の怒号に二人は揃って肩を跳ねさせ、呑気に目を見開いていた。


何が起きたのか分からないまま、迷惑そうな表情をしている。


————今、自分達が致命的な状況に陥っているなど、微塵も思っていない様子だった。


「勇者様⋯一体ど、どうしたんですか⋯?」


深刻そうに鎮座する俺の顔を恐る恐る覗き込むように、


ニールが上体を傾けてくる。


だが俺は、決して顔を上げなかった。


見せられるはずがない。


「お前ら⋯」


あまり大事にしたくないのに、勝手に喉が張り付いてしまう。一度息を吸って————それでも声は震えた。


「聖杖⋯無くしたわ⋯⋯」


その日、俺は思い出してしまった。


伝説の聖杖、勇者の証を、


遠い山の向こうへ投げ捨てた事を。

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