第四話  白夜に沈む声



異世界、ペーパー国の街へ来て三日目の朝。


昨日までの緊張と興奮が落ち着いたせいか、午前の空気はやたらと穏やかだった。


『———用事を思い出したの。午後には戻るわ。』


シタはそう言い、白い髪を揺らして背を向けた。


歩き去るその足取りは迷いのないもので、俺は思わず手を振り返す。


「じゃ、お気を付けて〜。俺は…まぁ適当に散歩でもしてるから。」


振っても振っても返ってこない手に虚しさを感じて、


そう見送った後、シタとは反対方向へと進んでいったのだった。


シタの背中が見えなくなると、俺は腰に手を当てて大きく伸びをする。


「よーし、暇だ。」


せっかくの一人時間だ。気ままに歩いたって良いよね。


なんだか一人が久しぶりな気もする。


実際はたったの1日ぶりなのに。


シタと過ごした昨日が濃すぎて、すっかり感覚がバグったな。


石造りの町並みはどこかヨーロッパ風。


この街の住人は、何を食べているのだろう。


街が栄えているのなら、木の実や貝ではないのかもしれない。


ふと通りかかった店の扉から、柔らかく匂ってきた。


なんとも香ばしい、小麦とジャムの香りが。


共に、暖かい笑い声が風の背中を押して此方へ運ばれてくる。


俺は思った。この世界は暖かいなぁ、なんて。


笑い声が絶えないんだ、朝も夜も。


今も、目の前では色とりどりの布きれを売る商人、


旅人達が行き交い、子供が走り、馬車がカラカラ音を立てる。


何だか物思いにふけていると、背後に愉しそうな声がかかった。


「お兄さん、焼き菓子いかがですか!」


中年男性くらいの奴が、甘い籠を揺らし立っていた。


俺は張り出された値札を凝視する。


「六百ッ…!?ぼったくりか!?ねぇ誰が買うの?


何がこの世界は暖かいだよふざけんな あぶねぇ異世界フィルターだわ!!」


ハアハアと息を切らす俺を見て、商人は苦笑いで去っていった。


とは言え異世界フィルターが解けた俺は本格的にやりたい事が無くなってしまった。


シタが居ないと依頼も受けられないし…。


悩みながら適当にぶらついていると、偶然、通りにベンチを見つけ、そこに腰掛ける。


(風、冷た…)


吹き抜けた風の冷たさに、昨日の戦いが頭を過ぎる。


それは、俺にとって本当に衝撃的な経験になったし、多分いい経験をした…と言えると思う。


「いや…ないな…」


少し考えてから自嘲気味に呟いても、誰も反応してくれなかった。


胸がズキッとする。


反応が無いのはシタといたって変わらないことだけど。


「…まっ、でも良いか!」


何に納得したのかは自分すら分からないが、俺は今の今まで勢いで来てきたのだ。


だから今だってコレで大丈夫。


何も分からないままでいいんだよ。


見上げた空の色はいつも通り曇り。


曇りはいいものさ。


青空にはとあるトラウマが出来てしまったもので、もう暫くは見たくない。


一人で薄く笑う俺の横顔は、事情を知らない周囲には’’楽しそうに笑う男’’にしか見えない筈だ。


「よぅーし。飲みに行こ〜っと。シタが戻ってきたら、俺を暇にさせた罪としてなんか美味いモン奢らせよ。」


これからどう生き延びていくのかと、不安が胸の奥でじんわり滲んでいるけれど———


それも俺は、そう言って胸を張った。






瑠衣と別れ、石畳の路地へ足を踏み込んだ瞬間、街の喧騒がふっと遠のいた。


昼の熱気が引き、風だけが細く吹いている。


シタは、ふと足を止めた。


—————この静けさを久しく忘れていた。


背後に誰の気配があるわけではない、


追手が迫っている気配もない。ただ、街の音から切り離された様な、奇妙な空白だけが足元に落ちている。


こういう静寂は、深い記憶を呼び起こす。


どうしても、忘れずにいられないのだ。



その日、村には珍しく朝から霧が立ち込めていた。


白ではない、灰を混ぜたようなどこか息苦しい霧だったと、


シタは今でも思い出す。


家の裏手で薪割りをしていたシタは、最初に聞こえた異変の音を風だと誤解した。


乾いた木の枝が折れるような、そんな小さな音だったからだ。


だが次の瞬間、村の中央で一つの悲鳴が上がった。


ただの悲鳴ではない。恐怖という膜の限界を突き破った時、人はこんな声を出すんだと


教えられているような声だった。


シタは斧を落とし、走り出した。


その時はまだ、「何かの事故かもしれない」と、何処かで甘い考えを持っていた。


けれど、村の中心に近付くにつれ、段々と異変に気付いてくる。


やけに人気が無いこと。村の防壁が壊れていること。何よりも、生温い、


鉄のような匂いがすること。


喉の奥が拒むような気配。


その時、霧の向こうから人影がゆらゆらと現れた。


しかし歩き方がおかしい。


足取りはおぼつかず、腕は不自然にだらりと下がり、胸元は深い赤に染まっていた。


「お、父さん……?」


呼びかけた時、影はあっさりと崩れ、ゆっくりと地面へ倒れ込んだ。


シタは咄嗟に抱き止める。


温かい。それは、体温ではなく、流れ出ている血の温度だった。


シタは絶望を余儀なくされた。


今、シタの腕の中で倒れている者が、シタの実の父親だったからだ。


父は何かを言おうとした。


だが口元は力なく震えるだけで、声にはならない。


瞳は、あらゆる負の感情が詰まっていた。恐怖に怯えていた。


いつも朗らかで、「人を恨んではいけないよ。恨む側のほうが、いつも辛いだけだからね。」と、微笑んでいた父が死を恐れ、何かを憎む姿を見たのは、


後にも先にもこの瞬間だけだった。


気持ち悪い。気持ち悪い。温かい。温かい!


やがて父の恐怖に染められた目は瞳孔が開き、二度と動かなかった。


「あ、あっ…父さん!!待ってて、すぐに医者を呼びに行くから!!」


シタは立ち上がり、再び村の中心へと走り出した。


胸が焼け、自分の鼓動が煩く鳴り止まなかった。


吐き気を必死に抑え、よろけても、転んで膝を擦っても走った。


———そんな時。


霧が風に押され、視界が開けた。


そして、そこにあった光景を、シタは理解しないことを望んだ。


血の色が地面を染め上げ、霧の中に滲んでいた。


倒れ伏した村人達。


誰一人、動かない。


その場に立ち尽くしたまま、シタは幼い頃から遊んでくれた心優しい少年を見つけた。


彼は家族を庇ったのか、覆いかぶさるようにして倒れていた。


ゆっくり、ゆっくり近付いていく。


少年のその下には、小さな手が覗いている。


その手は、恐らく、少年が愛していた弟だ。


守ろうとして、結局、何も守れず死んだ。


声が出なかった。息もできなかった。


何より辛いと思うのは、私が一人生き残ってしまった事だ。


家族も友達も、皆、そこに居た。


でも、誰も息をしていなかった。


こんなに苦しく淋しいことはない。私は、私は何のために———


「…シタ」


「!!」


背後の家屋から声がした。振り返ると、村の戦士である青年。


兄の様にも慕っていた男が剣を構えていた。


だが彼もまた深く傷を負っており、息が荒い。


「逃げるんだよシタ…!君のお父さんも言っていただろう…?」


「あっ…あっ…そ、そんなの覚えてないっ…!」


涙ぐむシタを宥める青年の視線の先に、また一つ影があった。


その影が、村を、人を、崩壊した犯人だと理解するには、シタは至っていなかった。


———ザリ…


「——行けっ!!逃げずには死ぬだけだ!!」


青年はシタを強く突き飛ばし、黒い影へと剣を振り上げた。


「我が一族に宿りし精霊よ その加護、我にあれ 


 いざしの剣に宿る力、今ここに注がれよ!!」


精霊の名を呼び、呪文を唱えた瞬間、剣先に微かな、だが確かに光が宿った。


その熱い青年の鼓動が、シタにも届く。


意を決して振り下ろした刹那———刃はただ、虚しい空を切っただけだった。


剣の軋む音が僅かに鳴ったと思った瞬間、刃は無情に真っ二つに裂かれ


青年の手から滑り落ちた。


その反動で青年の体は宙に投げ出され、空で停止した後、地面へと叩きつけられる。


途端に、鈍い音が響き渡る。


シタはその光景を前に、やっと絞り出した声で叫んだ。


「ああああああああああああああっ!!」


しかし、青年はもう起き上がらない。


影がゆっくりとシタの方へ進んでくる。


その瞬間、霧の中でたった一つ鮮明に光ったものがあった。


青色の瞳。


ゾッとするほど冷たい、底のない空洞の青。


シタはその色を、焼き付くように見てしまった。


即座に残りの理性が「見るな」と悲鳴を上げたが、遅すぎた。


恐怖、絶望、喪失、怒り——あらゆる感情が一度に押し潰され、


それらは一つの結論に辿り着かせた。


’’感じていては生き残れない。’’


その日、シタは幼いながらに感情を切り捨てた。


悲しさに泣くことも、怒りに叫ぶこともやめた。


代わりに、確かな一点のみを心に刻んだのだ。


————あの蒼を忘れてはならない…と。


それからシタは怪しい影に背を向け、只々生き延びる為に走った。


どうして父は珍しく、私に裏手の薪割りを頼んだのかも、


どうして朝から霧がかかっていたのかも。


今考えればおかしい事ばかりだと気付けるのに。



過去の光景が、ゆっくりと霧のように薄れていく。


胸の奥を引っ掻く様な痛みが走る。


とめどなく溢れそうになる何かをシタは奥歯を噛みしめることで押し込んだ。


こうしてしまうのはもうシタの癖だ。


悲しみも怒りも湧き上がる前に噛み砕く。


そうやって生き延びてきた。


だが今日は———失った世界を思い出しすぎた。


胸に滲る焦げ跡がじわりと熱を持ち、瞳にはどうしても寂しさの様な影が落ちる。


その影を、シタは誰にも見られたくなかった。


「…用事がある、などとくちにしたけれど。」


独りごちる声は酷く乾いていた。


本当は、何もない。ただ少し、疲れただけだ。


この街の喧騒は時折シタの神経を逆撫でする。


音も人の笑い声も、過去の幸せな村を思い出させるのだ。


だからシタは、一時的に離れた。


かといって、静けさも脳裏に焼き付いた蒼を呼び起こすもので、シタは参っていた。


「…戻る。」


瑠衣を長い時間一人にしておくのも妙な落ち着かさを生む。


まるで自分とは正反対の色をしているのに、何故か放っておけない。


シタは表情を、平常の冷徹へ戻し、街の方へ歩き出した。



午後の光が差し込む通りへ戻ると、遠くの喧騒とは対照的に、心は静かだった。


人に紛れる前に、更に感情を鎮めるように深く息を吸う。


ゆっくりと歩きながら、シタは瑠衣の気配を探す。


彼は特別目立つ男ではないが、何かとトラブルを引き寄せる。


出会って3日とは思えないほど、シタの意識は瑠衣へと向けられていた。


————と、その時だった。


「やべぇぇぇぇぇ!! シタァァァ!!!」


前方から、何か暴走する生き物のようなものが突っ込んできた。


いや、瑠衣だ。完全に瑠衣だった。


彼は焦りで目をひん剥き、肩で息をし、走りながら手を伸ばした。


「金!! 金貸してマジで!!俺殺される!!いやホントに!!」


言い終わらないうちに、瑠衣はシタの肩をポンッと叩き、そのまま通り過ぎた。


あまりの必死さに周囲の人々が振り返っていく。


シタも勢いに押され、一歩だけよろめいた。


「…はぁ」


一瞬、呆れたように目を伏せる。


しかし、肩に残る力強い’’叩き’’の衝撃だけは消えなかった。


その名残が妙に暖かくて、シタはほんの一瞬だけ気付かぬまま口元を緩めた。


「——————情けない勇者」


ふっと、笑みが零れた。


笑うという行為。何年ぶりだろうか。


記憶の底に沈んでいた’’笑う自分’’が水面にふわっと浮かび上がったような感覚。


そしてその直後、シタはハッとする。


「……あ」


まるで自分の体が自分でないよう、驚愕が走った。


胸の奥に埋冷たく張り付いてしまった感情の殻に、小さな亀裂が入ったのだ。


ずっと塞いでいたはずの部屋に、彼は胡座をかいて居た。


振り返ると、瑠衣は既に遠くの別の方向へ走って行ってしまった様だ。


どうせ何かしらの騒動に巻き込まれているのだろう。


シタは微笑みが消えていくのを感じながら、そっと肩に触れた。


叩かれた跡は何も残っていない。が、体温だけは確かに残っていた。


「…行こう」


その呟きは、午前までの冷徹さとは少しだけ違っていた。


僅かに柔らかい。


ほんの少しだが、確かに温かい響きがあった。


シタは足を踏み出す。


久しぶりに笑んだ自分を認めることはまだ出来ないまま。


しかし、歩みはどこか軽かった。

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