第2話

 アパートの壁は、隣人が流す深夜番組の笑い声を、湿った不快な振動として伝えていた。

 拓海は、膝の上に置いた本を凝視していた。

 『金持ち父さん 貧乏父さん』

 カノンから渡されたその本は、彼がこれまで手に取ってきたどのビジネス書とも、どの自己啓発本とも違っていた。そこには、論理的な成功法則ではなく、世界を「支配する側」と「支配される側」に分かつ、冷徹な境界線が描かれていた。ページを捲るたびに、拓海の脳内に築かれていた古い建築物が、土台から崩落していく。

「中産階級は負債のために働く。資産家は、自分のために働く資産を手に入れる」

 その一文を読み上げたとき、拓海は自分の呼吸が浅くなるのを感じた。

 彼がこれまで「資産」だと思っていたもの――奨学金を借りて得た大学の学位、ローンで買ったスマートフォン、将来のために積み立てている雀の涙ほどの定期預金。それらすべてが、実は自分の首を絞める「負債」に過ぎなかったという宣告。

 蛍光灯の明かりがチカチカと点滅し、文字が網膜の裏側で踊る。拓海の父親は、地方の役所に勤める実直な男だった。

「拓海、真面目に働いて、税金を納めて、ささやかな家庭を持つのが一番の幸せだ」

 その言葉を信じて、彼は東京に出てきた。だが、その「幸せ」の設計図に従った結果が、このカビ臭い部屋と、半額のカツ丼だ。

 父さんは、間違っていた。その思考が芽生えた瞬間、拓海は身体の芯が冷えるような、冒涜的な快感を覚えた。

 聖域を破壊する喜び。彼は深夜三時を過ぎても、ページを捲る手を止められなかった。目が痛み、頭の奥が熱くなる。だが、読み進めるほどに、自分の無知が剥がれ落ち、代わりに鋭利な「武器」が手に入っていくような感覚があった。

​ 月曜日、午前九時。

 駅の雑踏は、昨日までとは全く違う景色に見えた。改札を抜ける人々の群れ。彼らの顔は一様に死んでおり、その背中には目に見えない鎖が繋がっているように見えた。彼らは今から、自分の貴重な命の時間を、誰かの資産を増やすために提供しに行くのだ。

 オフィスに入ると、いつもと同じ安っぽいコーヒーの匂いが鼻をついた。

「浅井さん、おはよう。顔色悪いけど、昨日寝てないんですか?」

 隣の席のサトシが、コンビニの菓子パンを頬張りながら声をかけてきた。

 拓海は、サトシの口元に付いたパンの屑を、冷めた目で見つめた。

 この男は、自分が搾取されていることに気づいていない。毎月の給料日にわずかな小遣いをもらい、それをゲームの課金や飲み会で消費し、また来月のために働き続ける。まさに、本に書かれていた「ラットレース」そのものだ。

「……ああ、少し本を読んでて」

「本? 意識高いですね。俺なんて週末ずっと寝てましたよ」

 サトシの笑い声が、ひどく遠く感じられた。

 拓海はPCを起動し、いつもの業務用ツールを開いた。だが、もう以前のように集中することはできなかった。バナーのクリック率を1%上げることに、何の意味があるのか。その1%の利益は、すべて自分の頭越しに、「持てる者」の懐に吸い込まれていくのだ。

 自分は、システムを動かすための歯車ですらない。

 自分は、摩耗したら捨てられるだけの、端材だ。その自覚が、拓海の指先を震わせた。

 午後三時、スマートフォンに一通の通知が届いた。

『今日の夜、空いてる? 私の知り合いの家で、ちょっとしたゲーム会があるの。今のあなたなら、参加する資格がある。――カノン』

 拓海は、返信を打つ前に、自分の退職届をワードで作成し始めた。

 もちろん、まだ提出する勇気はない。だが、その文字を画面に打ち出すだけで、自分の魂が少しずつ「こちら側」へと引き寄せられるのを感じていた。



 恵比寿駅からほど近い、周囲を威圧するようにそびえ立つ四十五階建てのタワーマンション。

 拓海は、エントランスの重厚な自動ドアの前に立ち、自分の安物の靴を見下ろした。昨夜、必死に磨いたが、革のひび割れまでは隠せなかった。

 オートロックのインターホンを鳴らす。

「はい」

 カノンの声。

 ゲートが音もなく開き、拓海はエレベーターに乗り込んだ。

 耳がキーンとするほどの速度で、重力が彼を押し下げる。だが心は、成層圏まで突き抜けていくような高揚感に包まれていた。

 指定されたフロアに降りると、廊下には厚手のカーペットが敷かれ、自分の足音が消えた。

 指定された部屋の扉は、黒い鏡面仕上げで、自分のやつれた顔を無慈悲に映し出していた。

 扉が開くと、そこには別世界が広がっていた。

 広大なリビングの向こうには、宝石を散りばめたような東京の夜景が、床から天井までの窓いっぱいに広がっている。

 室内には、数人の男女が集まっていた。皆、若く、仕立ての良い服を纏い、自信に満ちた笑みを浮かべている。アオキで買った安いスーツが恥ずかしくて仕方なかった。

「来たわね、拓海さん」

 カノンが歩み寄ってきた。今日は背中の大きく開いたドレスを着ており、その白い肌が室内のシャンデリアの下で、非現実的な輝きを放っている。

「本、読んだ?」

「……はい。世界が、昨日までとは違って見えます」

「いい返事。じゃあ、実践編ね。向こうのテーブルへ行って」

 リビングの中央にある大きなダイニングテーブルには、色鮮やかなボードゲームが広げられていた。

 タイトルは『キャッシュフロー101』。そこに座っていた一人の男が、拓海を見上げた。

 ネイビーのスーツを完璧に着こなした、鋭い眼光の男。男はジョーカーと名乗った。

「新しい『ラット』か」

 ジョーカーは、拓海を値踏みするように見た後、サイコロを手渡した。

「座れ。これから、お前がどれだけ愚かに生きてきたか、このゲームで証明してやる」

​ ゲームはシンプルだった。プレイヤーはまず、小さな円形のコースを回り続ける。そこは「ラットレース」と呼ばれ、給料をもらい、税金を払い、子供を育て、負債を抱え、ただ生きるために働き続ける日常の縮図だ。

 拓海の駒は、何度も「失業」や「子供の誕生」のマスに止まり、手元の紙幣が次々と銀行へと吸い込まれていった。

「どうだ、拓海。ゲームの中でも、お前は貧乏人だ」

 ジョーカーが、ワインを口にしながら冷たく笑った。

「なぜか分かるか? お前が『安全』を求めているからだ。リスクを取らず、給料袋という名の鎖を握りしめているから、いつまでもその円の中から出られない」

 拓海は、額に汗を浮かべながらサイコロを振った。

 隣の席の若い女――レオと呼ばれていた――は、早々に「不動産」のカードを引き当て、ラットレースを脱出して広い外側のコースへと移行していた。

「外側の世界はいいぞ。金が金を産み、自分は何もしなくても資産が増えていく。お前が満員電車で吐き気を催している間、彼女はここでシャンパンを飲んでいるだけで、お前の年収を稼いでいる」

 ジョーカーの言葉は、拓海の心に火をつけた。悔しい、という感情ではない。ただ、この円の中から出たい。この無意味な回転を止めたい。そのためなら、何だってする。

 ゲームが進むにつれ、拓海は次第に理解していった。

 このゲームで勝つ方法は、勤勉さではない。情報の取捨選択と、レバレッジの掛け方だ。他人から金を借り、それをより高い利回りの資産に投じる。

 その「正しくない」はずの行為こそが、この世界における唯一の正解なのだ。

​ 深夜、ゲームが終わった。

 拓海は結局、ラットレースを抜け出すことができなかった。手元に残ったのは、借金の記録が書かれたボロボロのシートだけだ。

 他の参加者たちが楽しげに談笑する中、拓海は窓際に立ち、夜景を見下ろした。眼下を走る首都高速のライトが、血の流れのように見える。

 あの光の一つ一つに、明日への不安を抱えたラットたちが乗っている。自分も、その一粒に過ぎない。

「……悔しい?」

 背後からカノンの声。

「いえ。絶望しています」

 拓海は、自分の震える手を見つめた。

「僕は、ずっと間違ったルールで戦わされていた。そして、それを正しいと教え込まれてきた。カノンさん、僕はもう、あの部屋に戻りたくない」

 カノンは、拓海の隣に並び、窓ガラスに自分の額を寄せた。

「戻らなくていいわよ。ルールを知ったなら、あとはプレイヤーになるだけ」

 彼女は、拓海の耳元で囁いた。

「明日、ジョーカーの個人セミナーがあるの。参加費は十五万。今のあなたには大金よね。でも、それを『高い』と思うか、『未来への通行料』と思うか。それが、あなたがラットで終わるか、こちら側へ来るかの最初の分岐点よ」

 十五万。銀行口座に残っている、なけなしの全財産だ。それを払えば、来月の家賃さえ危うくなる。

 常識という名の声が、脳内で警告を発する。「やめておけ。それは詐欺だ。地道に働け。」

 だが、拓海は知っていた。その声こそが、自分をこの檻に繋ぎ止めている鎖の音だということを。

 合理的に、誤る。

 彼は、カノンの瞳を見つめ、静かに頷いた。

「……行きます。お願いします」

 カノンは、満足げに微笑んだ。

 その笑みは、救済者の慈悲のようでもあり、獲物を追い詰めた捕食者の愉悦のようでもあった。



 深夜のセブンイレブン。コピー機の低いうなりと、冷蔵ケースのファンが立てる乾いた音が、拓海の鼓膜を執拗に叩いていた。

 彼はATMの前に立ち、暗証番号を入力する画面を見つめていた。指先が微かに震え、センサーが反応しない。

 画面には「一五三,四〇二円」という数字。

 これが、浅井拓海という男の全財産だった。

 大学を卒業し、二年間、毎日八時間以上をオフィスで消費し、残業という名の延命措置を受け続け、食欲と睡眠を削って積み上げた、彼自身の「生命の残滓」だ。

 その中から、一五〇,〇〇〇円を引き出す。

 彼は震える指で「一五」と「〇」を四回打ち込んだ。

 確認ボタンを押す。

 機械の内部で、札束を数える駆動音が始まった。バラバラバラ、というその音は、まるで拓海の心臓を直接削り取っているような不快な響きを持っていた。

 取り出し口から、一万円札の束が吐き出される。拓海はそれを両手で受け取った。

 新札ではない。誰かの欲望を通り抜けてきた、手垢のついた、湿り気を帯びた紙の束。独特のインクと、古びた紙の、鉄のような匂いが鼻を突いた。この十五枚の紙切れが、自分の二年間だったのか。

 この軽々しい質量が、あの満員電車の苦痛と、上司の罵倒と、孤独な夜の代償だったのか。

 そう思うと、拓海は笑いが止まらなくなった。滑稽だ。

 自分は、この程度のもののために、自分の命を切り売りしていたのだ。彼は、茶封筒の中にその束を押し込んだ。封筒は不自然に膨らみ、彼のジャケットの内ポケットを重く沈めた。その重みは、彼がこれまでの「常識的な自分」を殺すための、弾丸の重さだった。

​ 翌日、南青山。

 表参道の交差点から一本入った路地には、磨き上げられたガラスと黒い石材で構成された、暴力的なまでに洗練されたビルがそびえ立っていた。

 拓海は、エレベーターの鏡に映る自分の顔を見た。寝不足で目は充血し、頬はこけている。だが、その瞳には、今までになかった病的な光が宿っていた。

 五階のセミナー会場。扉を開けると、そこには「熱」があった。外の都会的な冷淡さとは対極にある、むせ返るような期待と、強迫観念に近い情熱。

 室内には、三十人ほどの男女が集まっていた。年齢は拓海と同じか、少し下。彼らは一様に、新品のノートを机に置き、背筋を伸ばして前方を注視していた。

 会場の隅に、カノンが立っていた。今日は白いシルクのブラウスに、タイトなタイトスカート。彼女の存在だけが、この熱狂の中で唯一の冷却材のように、静謐で残酷な光を放っていた。

 彼女と目が合う。カノンは、微かに、肯定するように顎を引いた。それだけで、拓海の胃の奥の不安は、甘美な服従心へと変わった。

「拓海さん。持ってきた?」

 カノンの声は、以前よりも親密さを増していた。

 拓海はジャケットの内ポケットから、茶封筒を取り出した。テーブルの上に置かれた封筒は、室内を流れるジャズの音色を遮るほどの、重々しい沈黙を放っていた。

 カノンは細い指で、封筒の封を切った。彼女は中身を確認することなく、指先で札束の厚みをなぞった。

 カノンの指先が一万円札の表面を滑るたび、拓海は自分の皮膚が直接触れられているような、倒錯した熱を感じた。

「……確かに」

 カノンは微笑み革製のビジネスバッグの中に放り込んだ。十五万円。

 拓海の二年間が、無造作に、ゴミのように収納された。その瞬間、拓海の全身から力が抜けた。絶望ではない。

 それは、重い荷物をすべて崖から投げ捨てた後の、究極の開放感だった。

「全員、揃ったな」

 ジョーカーが現れた。彼はステージに上がるのではなく、参加者たちの間を縫うように、しなやかな足取りで中央へ進み出た。

 彼が通るたびに、周囲の空気が圧縮されるのを感じる。

「今日、ここに来た奴らは、全員が『合格』だ。なぜか分かるか?」

 ジョーカーは、最前列の男の顔を覗き込んだ。

「お前たちが、自分の無能を認め、それを変えるための『コスト』を支払ったからだ。世の中の九十九パーセントのゴミどもは、無料で人生を変えたがる。タダで成功を掴もうとする。だから、一生ラットレースで泥水を啜るんだ」

 ジョーカーの声は、音楽のように滑らかで、それでいてナイフのように鋭利だった。

「いいか。十五万という金は、金じゃない。お前たちの『過去の自分』への決別金だ。それを持っていても、お前たちは来月も、再来月も、同じ絶望を繰り返すだけだ。だが、それをここに置くことで、お前たちは『情報の非対称性』の向こう側へ行く権利を得る」

 ジョーカーはホワイトボードに、巨大な「$」のマークを書いた。

「今から、お前たちの脳を書き換える。準備はいいか」

​ 講義は、四時間を超えた。ジョーカーが語る内容は、学校や会社で教わる「努力」や「誠実」といった概念を、徹底的に解体し、汚物のように排除するものだった。

「貯金をする奴はバカだ。貯金とは、銀行に自分の時間を無利子で貸し出しているだけだ」

「友情を大切にする奴は成功しない。お前の周りにいる五人の平均年収が、お前の年収だ。貧乏人と群れるのは、泥沼で心中するのと同じだ」

「親の言うことを聞くな。彼らが成功者でないなら、彼らのアドバイスはすべて『失敗への招待状』だ」

 拓海の脳内で、父の顔が、母の笑顔が、地元の友人の声が、次々とシュレッダーにかけられていく。痛かった。自分が大切にしてきた価値観が、論理という名の炎で焼かれていく。

 だが、その痛みの後には、驚くほど澄み切った空虚が広がった。そうだ。彼らの言うことを聞いてきた結果、俺は三畳一間にいたのではないか。彼らを愛した結果、俺は半額のカツ丼を食べていたのではないか。

 だったら、彼らは敵だ。俺をこの場所へ留めておこうとする、親愛という名のドリームキラーだ。ジョーカーの言葉は、拓海の孤独を「選ばれた者の特権」へと昇華させていった。


​ 

 セミナーから三日が過ぎた。カノンとは毎日連絡をとっており、今行動して得られる理想の人生の棚卸と、今行動しなかった人生の比較などを行っていた。

 拓海の日常は、表面的には何も変わっていないはずだった。だが、彼の視神経は、もはや以前と同じ風景を捉えることを拒絶していた。

 オフィスの蛍光灯の明かりは、自分の寿命を安売りするための「タイマー」に見えた。上司の叱責は、檻の中で無駄に叫ぶネズミの鳴き声にしか聞こえない。

「浅井、聞いてるのか? この修正、今日中に終わらせろよ」

 上司の唾液が飛ぶ。拓海は無感情に「はい」と答えた。だが、脳裏にはジョーカーのあの言葉がリフレインしていた。

『お前は今、誰の夢のために命を削っているんだ?』

 拓海はキーボードを叩く自分の指が、他人の資産を増やすための「機械の部品」に見えて、激しい戦慄を覚えた。その日の夜、耐えきれなくなった彼はカノンにメッセージを送った。

『セミナーに、もう一度行きたいです』

​ 週末、カノンは拓海を高そうなカフェへと呼び出した。

「落ち着かない?」

 カノンは、一杯三千円もするダージリンを静かに啜りながら、拓海の落ち着かない視線を弄ぶように笑った。

「ここは、あなたが住むべき世界の入り口よ。拓海さん、あなたはまだ『自分一人で頑張る』という、労働者の呪縛から解けていないわね。だからメンターが必要なの。道を知っている人間が、あなたの手を引かなければ、あなたはすぐに元の三畳一間に引きずり戻される」

 カノンは「メンター」という言葉を、まるで神託のように響かせた。

「これから何度か、特別な勉強会に参加させてあげる。そこであなたは、自分がいかに『無知の檻』に閉じ込められていたかを、細胞レベルで理解することになるわ」

​ 二度目、三度目のセミナー。

 拓海は、会場に入るたびに、血液が沸騰するような熱狂に包まれていった。そこには、かつての彼のような「不安な若者」たちが、互いの絶望を吐露し、それを「成功へのバネ」として称え合っていた。

「俺も先月までは、サラリーマンで借金まみれでした。でも、このシステムに出会って、世界が変わったんです」

 登壇者の体験談を聞くたびに、拓海の脳内ではドーパミンが大量に分泌された。会場を出た後の夜の空気は、これまでになく透明に感じられた。

 一方で、会社に行けば、同僚のサトシが「飲みに行きましょう」と誘ってくる。拓海は、その誘いを「時間の無駄だ」と一蹴するようになった。

 彼らは、まだ暗闇の中にいる。自分だけが、カノンという光に導かれている。

 その優越感が、彼をさらに孤立させ、カノンへの依存を深めていった。四度目の勉強会の後、カノンは拓海をホワイトボードの前に立たせた。

「いよいよ、この世界のアルゴリズムを教えてあげる。私たちのMLMがいかに優れたビジネスか、その本当の理由を」

 彼女は、マーカーで一つの円を描いた。

「普通の商売は、あなたが働かなくなれば収入が止まる。でも、この仕組みは『複利の力』を使うの。あなたが一人、同じ志を持つ仲間を見つける。その一人が、また一人を見つける。その連鎖は、やがてあなたのコントロールを超えて、巨大な『資産の木』に育つのよ」

 カノンは、図解しながらマージンの仕組みを説明した。

「あなたが紹介した人が生み出す利益の一部が、永続的にあなたに入る。これは搾取じゃない。あなたがその人を『救済』したことに対する、正当なコンサルティング報酬よ。レバレッジをかけるの。一人の百歩ではなく、百人の一歩。それが、あなたが一生遊んで暮らせる『権利収入』の正体よ」

 ホワイトボードに描かれた指数関数の曲線。それは、拓海にとって、唯一の「天国への階段」に見えた。

​ だが、カノンはそこで、あえて突き放した。

「でも、今のあなたには、まだこの契約書を渡すことはできないわ」

「……え? どうしてですか。僕はもう、準備はできています」

 拓海は身を乗り出した。喉から手が出るほど、そのシステムの一部になりたかった。

「あなたはまだ、失うことを恐れている。その小さな自尊心を捨て、自分の人生をすべてこのシステムに捧げる覚悟が足りないの。本当にこの世界で生きていきたいなら、もっと切実に、私に願いなさい。……あなたの本当の『飢え』を見せて」

 カノンの瞳が、冷たく、美しく、拓海の魂を蹂躙した。拓海は、その場で膝をつきそうになるのを必死に堪えた。

 拒絶されることで、逆に、その「救済」が世界で最も価値のあるものに思えてくる。彼は、もはや自分の意志で歩いているのではなかった。

 カノンという名の巨大な磁石に、引き寄せられる鉄屑に過ぎなかった。

「お願いします、カノンさん。僕を、仲間に入れてください。何だってします」

 拓海の声は、もはや渇望で震えていた。

 カノンは、満足げに微笑んだ。

「……いいわ。契約書を書いて持ってきなさい」

 契約書には株式会社ネイチャーと記載されていた。拓海はカノンに呼ばれ、会場の奥にある小さな応接室へ入った。そこには、ジョーカーとカノンが並んで座っていた。

「あなたもオーナーを目指すのよね」

 カノンが有無を言わさぬ態度でバインダーを渡してくる。

「これがあなたの聖書よ。オーナーになるまでのマニュアル。ここには全てのフローが記されているわ。その対価としてボーナスが出る。でも、それは単なる金じゃない。あなたがシステムにどれだけ忠誠を誓い、影響力を拡大したかの『スコア』よ。このピラミッドの階層を一段上がるごとに、あなたは他人の時間を吸い上げる権利を手に入れる」

 浅井拓海という男は、今、ここで死んだのだ。

「おめでとう、T(ティー)」

 ジョーカーが拓海を「あだ名」で呼んだ。

「今日からお前は、この世界のコードネームだ。古い名前と一緒に、古い良識もすべて捨てろ。明日から、お前の仕事は『救済』だ」

​ セミナーが終わった。拓海は、青山の通りを一人で歩いていた。

 夜風が冷たい。だが、身体の芯は、高熱を出したときのように熱を帯びていた。財布の中には、もう数千円しか残っていない。

 明日の食費も、来月の家賃も、何一つ保障されていない。だが、彼はかつてないほどの全能感に満たされていた。

 街灯の光が、網膜の裏側で星のように弾ける。

 行き交うタクシー、深夜まで働く工事現場の男たち、酔っ払ったサラリーマン。

 彼ら全員が、自分とは違う「低い次元」を蠢く生物に見えた。彼らは知らない。世界を動かす、真実のアルゴリズムを。

 自分だけが、ジョーカーという神から、その鍵を授かったのだ。 

 彼は地下鉄の階段を降りた。古いタイルの匂い、消毒液の臭気。すべてが鮮明だった。自分は、生きている。

 拓海はホームのベンチに座り、ノートを開いた。今日のセミナーで書き殴った内容が目に止まる。

『成功は義務である。過去は死んだ』

 この組織が運営する「ネイチャー」というWEBページに、アカウントという自分の分身が追加された。

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