契約の箱
九式
第1話
午前七時三十分、埼京線の車内は、湿った吐息と、洗剤の香料が混ざり合った、逃げ場のない悪臭で飽和していた。
浅井拓海は、ドアの隙間に押し付けられた自分の右肩の感覚を殺していた。
網膜には、向かいに立つ中年男の、脂ぎった項が焼き付いている。男の耳の後ろには、数ミリの白い皮膚の剥落があった。それが電車の振動に合わせて、微かに震える。
拓海は、目を閉じた。
耳元では、ノイズキャンセリングヘッドフォンを突き抜けて、レールの摩擦音が不協和音を奏でている。
自分は今、移動しているのではない。
巨大なベルトコンベアの上に載せられ、東京という名前の巨大な焼却炉へと運ばれているのだ。
オフィスに着けば、待っているのは無意味な作業だ。クライアントの機嫌を伺い、実体のないインプレッションを水増しし、上司の無能を補填する。その対価として得られるのは、家賃と食費を払えば消えてなくなる、わずかばかりの数字。
拓海は、自分の心臓が、自分のものではない「システム」の拍動に同期していくのを感じ、吐き気を覚えた。
午前十一時、オフィス。
蛍光灯の明かりは、常に一定の周波数で拓海の神経を削り取っていた。
デスクの端には、飲みかけの「モンスターエナジー」が置かれている。緑色の液体が、プラスチックのカップの壁面で不気味に結露していた。
「浅井、このバナー案、もっと『躍動感』出せない? こう、パッと見て、人生変わるかもって思わせるようなやつさ」
課長の言葉は、常に中身が空っぽだった。人生が変わるバナー。そんなものが、たかだか数百円のサプリメントの広告で実現するはずがない。
拓海は無言でマウスを操作した。Photoshopの画面上で、モデルの肌のシミを一つずつ消していく。
嘘を塗り固める作業。誰かを騙し、誰かの不安を煽り、誰かの財布を開かせる。
それが自分の仕事だ。
そしてその嘘の分け前として、自分は死なない程度のパンを買い、狭い部屋で眠る権利を得る。
ふと、自分の手の甲を見た。ブルーライトに照らされた皮膚は、死人のように青白い。俺は、いつから死んでいるんだろう。
拓海は、キーボードを叩く指に、不自然な力を込めた。
午後九時、帰宅途中のまいばすけっと。
自動ドアが開くと、冷気が拓海の熱を持った顔をなでた。彼は半額シールの貼られた惣菜コーナーの前に立ち、長い時間、静止していた。
二九八円のカツ丼と三九八円の握り寿司。その百円の差を、彼は脳内で「十五分間の残業代」に換算していた。
自分の十五分間は、寿司に替える価値があるのか。それとも、カツ丼に留めて、残りの百円を奨学金の返済に回すべきなのか。
計算を繰り返すたびに、頭の芯が痺れてくる。レジで会計を済ませ、ビニール袋を提げて歩く。街灯の光が、路上のゴミを無慈悲に照らしている。
アパートに着き、鍵を回す。三畳一間のワンルームは、古い木材の匂いと、換気扇から逆流してくる隣人のタバコの煙で満ちていた。
拓海は、冷えたカツ丼を電子レンジに入れ、タイマーを回した。
ターンテーブルが回る音。それは、彼が今歩んでいる人生の、唯一のBGMだった。
レンジが鳴るまでの二分間、彼は何をするでもなく、壁に貼られた「理想の自分」という、就活時代に書いた付箋を見つめていた。
文字は色褪せ、角が剥がれかかっている。
「誠実に生きる。価値を提供する」
その言葉が、今の自分を嘲笑っていた。誠実さの結果が、この三畳一間だ。価値の提供の結果が、この半額のカツ丼だ。何かが決定的に間違っている。
だが、その正解を教えてくれる者は、この薄い壁の向こう側には誰もいなかった。
カツ丼の米は、芯が残っていて硬かった。
拓海は、それを無理やり喉に流し込み、スマートフォンを手に取った。唯一の娯楽であり、唯一の猛毒。マッチングアプリ。
画面には、自分と同じように、何かに飢えた女たちの顔が並んでいた。
キラキラしたカフェのランチ、南国の海、ブランド物のバッグ。それらはすべて、彼が昼間にPhotoshopで加工している「嘘」の延長線上にあるものだと分かっていた。
だが、分かっていても、彼はスワイプを止められなかった。
指先が画面をなぞるたび、自分の孤独が、零と一の信号に分解されていく。
ふと、一つのプロフィールが目に留まった。
名前は『カノン』。
写真は、逆光の中で微笑む、シルエットに近いものだけだった。自己紹介文には、他の女たちが書くような願望は一切なかった。
『今の自分に満足している人は、見ないでください。現状を破壊したい人だけ、私を見つけて。』
その言葉は、拓海の心臓を直接掴み取った。彼は、吸い込まれるように「いいね」を押した。
マッチングの通知が鳴るまで、一分もかからなかった。
翌日、土曜日。
指定された恵比寿のカフェは、清潔な白と、洗練された木目調で整えられていた。
拓海は、クローゼットの中で最も「マシ」なシャツを着て、指定されたテーブルで待っていた。
心臓が不自然なリズムを刻み、喉が乾いている。
定刻。
ドアが開き、一人の女性が入ってきた。
彼女が歩くたびに、周囲の空気が、まるで磁場のように歪むのを拓海は感じた。カノン。彼女は、写真よりも遥かに現実味のない美しさを持っていた。
彼女の着ている黒いワンピースは、光を吸い込むような深い色をしていた。
「拓海さん?」
彼女の声は、冬の朝の空気のように、透き通っていて冷たかった。
「はじめまして。カノンです」
彼女が向かいに座った瞬間、拓海は自分が「地上」から切り離されたことを直感した。
その瞬間、世界から音が消えた。
いや、正確には、周囲のカップが触れ合う音や、若者たちの笑い声が、ひどく遠く、意味を持たない雑音へと退行したのだ。
彼女の指先は、Photoshopで加工する必要などないほど完璧に滑らかで、その瞳の奥には、すべてを見透かしたような、底知れない静寂があった。
「……はじめまして。お会いできて光栄です」
「緊張してる? 大丈夫、私はあなたを評価しに来たんじゃない。あなたの中に、何が残っているかを見に来ただけ」
カノンは、運ばれてきたアイスコーヒーに一切手をつけず、拓海を真っ直ぐに見据えた。
「私は誰かの許可を得て生きることをやめた人間よ。あなたが上司の顔色を伺い、月収二十万の端金のために胃壁を削っている間、私はこの街の景色を『観客席』から眺めている。私は、時間を切り売りする『労働者』という階級を卒業し、他人の欲望をレバレッジに変える『設計者』のフェーズにいるの。私とあなたの間には、目に見えないけれど、ベルリンの壁よりも高い絶望的な断絶がある。それをまず、肌で感じなさい」
カノンの声は、慈悲を排除した鋼の硬度を持っていた。拓海は、自分のシャツの襟が不自然に喉を締め付けるのを感じた。
「あなたは、今の生活がいつまでも続くと思っている。会社に行き、給料をもらい、週末に少しの贅沢をする。それを『安定』と呼んでいるわね。でも、それは安定じゃない。ただの『茹でガエル』のぬるま湯よ。あなたは、毎日何のために満員電車に乗ってるの?」
「それは……生活のためです」
「生活。死なないための維持費のことね。でも、あなたは死んでないだけで、生きてはいない」
彼女の言葉は、鋭いメスのように、拓海の自尊心を切り裂いていった。頭がおかしい、痛いやつ、という当たり前の感想は、彼女の雰囲気に飲み込まれた。圧倒的な自分への自信。
「あなたは、他人の夢を叶えるための部品として、自分の時間を切り売りしている。その時間は、二度と戻ってこない。あなたの人生の時給は、いくら? その端金で、あなたは自分の魂を売っている自覚はある?」
拓海は、何も言い返せなかった。昨日のカツ丼の味が、口の中に蘇る。
「世界には、二つのルールがあるの。奪われる側のルールと、奪う側のルール。あなたは、前者で正しく振る舞おうとしている。でも、ルールそのものがあなたを殺そうとしているのに、正しく振る舞ってどうするの?」
カノンは、アイスコーヒーの氷をストローでかき混ぜた。
「いい、拓海さん。現状維持のリスクというものを、あなたは一ミリも理解していない。世界は光速でアップデートされているのに、あなたが立ち止まっているということは、相対的に猛スピードで後退しているのと同じ。会社が明日倒産したら? あなたのスキルがAIに代替されたら? その時、あなたの手元に残るのはなに?変化しないことは、最も残酷な自殺なのよ」
彼女は身を乗り出し、拓海の鼻先に指を突きつけた。
「だから、リスクを先に取る重要さを、今、この瞬間に刻み込みなさい。成功者はね、報酬を受け取る前に、まず『痛み』を先払いするの。恥をかき、金を失い、孤独に耐える。そのコストを先に支払った者だけが、未来という果実を独占する権利を得る。あなたは、後払いで幸せになれると思っている。でもね、未来の利息は高いわよ。今リスクを取らない代償は、あなたの残りの人生すべてでも足りないわ」
拓海は、圧倒的な言葉の質量に押し潰されそうになっていた。だが、カノンの言葉には、これまでの人生で誰も教えてくれなかった「真理」の響きがあった。
「……でも、僕に何ができるっていうんですか。特別な才能もないのに」
「才能? そんなものは、システムの奴隷たちが欲しがる慰めよ」
カノンは、テーブルのナプキンを広げ、自分のペンでツリーを描いた。
「拓海さん。MLMがいかに優れたビジネスか、その数学的な美しさを教えてあげる。普通の商売は、あなたが動かなければ一円も生まない『足し算』の世界。でも、MLMは指数関数の世界よ。あなたが誰か一人を救い、その一人がまた誰かを救う。その連鎖が、あなたの労働時間を超えて、二十四時間、三百六十五日、世界中で富を産み続ける。これはね、個人の限界を超えて、巨大な資本家と同じ『仕組み』を手に入れるための、人類史上最も民主的な装置なのよ」
彼女はナプキンに、次々と分岐する線の群れを描き足していった。
「広告費に数億かける大企業の代わりに、あなたがその広告塔になる。企業が搾取するはずだったマージンを、あなたとあなたの仲間で分かち合う。これほど合理的で、フェアなビジネスが他にある? これは単なる商品の流通じゃない。これは『信頼のネットワーク』を資本に変える、錬金術なのよ」
カノンはペンを置き、丸めたナプキンを拓海の胸元に投げつけた。
「あなたが今抱えているその不安は、あなたが正しい道に踏み出そうとしている証拠よ。でも、その門を潜るには、今の自分を殺す必要がある。……覚悟はできている?」
カノンは、バッグの中から一冊の本を取り出した。紫の表紙。そこに描かれた、無機質な人物のシルエット。
「これを読んで。これが、あなたが今まで教わってきた『教育』という名の洗脳を解くための、最初の解毒剤になるわ」
『金持ち父さん 貧乏父さん』
拓海は、その本を受け取った。表紙のざらついた質感が、指先を通じて脳に伝わる。
「拓海さん。あなたは、合理的に間違えることができる?」
「……どういう、意味ですか」
「今のあなたの『正解』は、今のあなたの『絶望』を維持すること。そこから抜け出すには、世間が『間違い』と呼ぶものの中に、自分だけの正解を見つけるしかないの」
彼女は語りだした。現状維持を選ぶことのリスク、そしてあるべきリスクの取り方。
カノンが立ち上がった。彼女からは、微かに、しかし強烈に、雨上がりの森のような匂いがした。
「もう行くんですか」
「次があるの。また連絡するわ。その本を読み終えて、自分の足元が崩れる音が聞こえたら。その時が、あなたの本当の誕生よ」
彼女は、一度も振り返ることなく、カフェを出て行った。あっという間だった。
拓海は、一人取り残された。そして、自分の手元にある、「聖典」。彼は、震える指でその一ページ目を開いた。
外では、恵比寿の雑踏が、相変わらず無機質な音を立てて流れている。
だが、拓海の耳には、その音がもう届いていなかった。
彼は、理解していた。
この本を読み進めることは、これまでの自分の二十数年間を、すべて「ゴミ」として廃棄することだと。彼は、深呼吸をした。肺の奥まで、カノンの残り香が浸透していく。
救済。あるいは、破滅。どちらでもよかった。ただ、この冷えたカツ丼のような日常から、一秒でも早く逃げ出せるのなら。
拓海は、最初の数行を読み始めた。システムの端材だった彼の人生が、加速度的に崩壊し、再構築されていく音が、静かなカフェの店内に響いたような気がした。
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