第3話
正午のオフィスは、停滞した空気と、安っぽい揚げ物の油の匂いで満ちていた。
拓海はデスクに座り、何も入っていない空のマグカップを眺めていた。周囲では、同僚たちがコンビニのレジ袋をガサつかせている。
「浅井さん、駅前にできた新しい唐揚げ屋、行きます? 五〇〇円で大盛りですよ」
後輩のサトシが、期待に目を輝かせて声をかけてきた。サトシのシャツの襟元は少し黄ばんでおり、その不潔さが拓海の鼻をついた。かつてなら、自分もその五〇〇円の唐揚げを「ささやかな幸せ」だと思っていただろう。だが今は違う。
「いや、いい」
拓海は画面から目を離さずに答えた。
「最近、食事制限してるんだ。効率を上げるために」
「え、意識高いっすね。あ、じゃあ今日の夜はどうですか? 課長も誘って、例のプロジェクトの打ち上げ……」
「サトシ」
拓海は椅子を回転させ、後輩の目を真っ直ぐに見据えた。カノンから教わった「相手を支配する視線」を実践する。
「君の言う『打ち上げ』に、僕の人生を変えるほどの価値があると思うか? 時給換算して、その飲み会に三時間を投じる合理的な理由を教えてくれ。なければ、僕の時間を奪わないでほしい」
サトシは口を半開きにしたまま固まった。周囲の雑談がふっと途切れる。
拓海は彼らの瞳の中に、困惑と、わずかな蔑みを見た。だが、それは彼らの方が正しいからではない。彼らが「こちら側の論理」を理解できない下等な存在だからだ。ジョーカーは言っていた。成功者は、常に孤独だ。その孤独こそが、成功への唯一の切符なのだと。
午後八時。誰もいないアパートの部屋に、巨大な段ボール箱が三つ、鎮座していた。
カノンとの「契約」によって自動的に送られてくる、リセッターズのオリジナルサプリメントと、自己啓発オーディオ教材のセットだ。
拓海はカッターナイフでガムテープを切り裂いた。金属が紙を裂く乾いた音が、静かな部屋に響く。
中には、マットな質感の黒いボトルが整然と並んでいた。一本一万二千円。それが十本。さらに、成功へのマインドセットを叩き込むための音声が収められたUSBメモリ。合わせて、十五万円。
拓海は一本のボトルを手に取った。
成分表には、聞いたこともない植物のエキスや、化学記号のようなミネラルの名称が並んでいる。これが実際に健康に寄与するかどうかは、大きな問題ではなかった。重要なのは、毎月十五万円を「何があっても支払う」という強制力が、自分の甘えを殺すということだ。
彼は錠剤を三粒、水なしで飲み込んだ。喉に引っかかる不快な感触。それを、彼は「覚悟」の味だと思い込もうとした。
スマートフォンが震える。カノンからだ。
「届いた?」
「はい。今、飲みました」
「いい反応。十五万っていう数字を、重荷だと思ってない? それはね、重荷じゃなくて、君を持ち上げるためのバネなの。貧乏人は、入ってきたお金をどう使うか考える。金持ちは、どうやって先にリスクを投下するかを考える。君は今、自分の未来を先に買ったんだよ」
「わかっています。でも、今の給料だけだと、家賃とこれを両立させるのは……正直、厳しいです。カノンさん……。セミナー代を払ったら、家賃が払えなくなりました。食費もありません。僕は、どうすれば……」
拓海の声が微かに震えた。
「おめでとう。やっと、スタートラインに立ったわね。いい、よく聞きなさい。あなたは今、自分が「金がない」という危機に瀕していると思っている。でも、それは違うわ。あなたは単に「他人の金の引き出し方」を知らないだけ。いい? これは練習なのよ」
カノンの言葉は、拓海の困窮を、輝かしい「トレーニング」へと塗り替えていった。
「オーナーは皆、借金をしている。 自分の財布の中身で勝負するのは、一生搾取される側の「消費者」の発想よ。成功者は、信用をレバレッジに変えて、それを燃料に自分を加速させる。家賃が払えない? 結構じゃない。消費者金融に行きなさい。それが、あなたの「オーナーとしての初仕事」よ。十戒の二つ目を忘れた? リスクを先に取れ。お金がないなら、作ればいい。それは『借金』じゃない。君という有能な資産に対する『融資』よ。ジョーカーが言ってたでしょ。自分を信じられない人には、銀行もチャンスをくれない」
カノンの声は、甘い毒のように拓海の耳から脳へと浸透していく。
「これは先行投資。あなたが他の人を救うまでの一時の投資。必ずリターンはあるわ」
今のままでは、一生会社に搾取され、汚れた靴を履いて、五〇〇円の唐揚げに一喜一憂する人生が続くだけだ。そこから抜け出すための十五万円。それは、あまりにも安い通行料ではないか。
拓海は上着を羽織り、夜の街へ出た。向かったのは、繁華街の雑居ビルの二階にある、消費者金融の無人契約コーナーだ。
蛍光灯の青白い光が、狭いブースを照らしている。壁には「計画的な利用を」という空虚なポスターが貼られていた。
拓海はタッチパネルの前に立ち、氏名、住所、勤務先を入力していく。
「現在の年収を入力してください」
機械的な合成音声が問いかける。
拓海は、実際の年収に、これから得られるはずの「成功報酬」を無意識に加算しようとして、思い止まった。まだ、そこまで自分を騙し切れてはいない。だが、指は迷いなくボタンを押した。
数分後。プラスチックのカードが、音もなく排出口から吐き出された。これ一枚で、五十万円までの「レバレッジ」が手に入る。拓海は、その薄いカードを指先でなぞった。これは負債ではない。これは武器だ。
ジョーカーなら、こう言うだろう。
「リスクを恐れて何もしないことこそが、人生における最大のリスクだ」
それを越えた向こう側に、本当の自分が待っている。カードを差し込み、暗証番号を入力する。指先が機械に触れるたび、自分の中に新しい回路が形成されていくような感覚があった。
一五万円。
紙幣が吐き出される音。それは、会社で一ヶ月間、課長の嫌味に耐えて得られる報酬の音とは決定的に違っていた。重みがない。しかし、その軽さこそが、これから彼が手にする「自由」の象徴のように思えた。
彼は札束をポケットにねじ込んだ。高揚感が、胃のあたりからせり上がってくる。
ATMで家賃の支払いを済ませると、彼はそのままカノンから教えられていたバーへ向かった。カノンやジョーカーが「日常的」に使っているという場所だ。
一人で入るには勇気がいる。だが、今の彼には消費者金融のカードという「盾」があった。
合理的に誤る。その言葉の意味を、拓海は身体で理解しつつあった。正しい道とは、大勢が歩く道ではない。結果によって、事後的に正当化される道だ。
バーの窓からは、東京の夜景が一望できた。
眼下を走る車のヘッドライトは、血管を流れる赤血球のように見えた。
あの光の一つ一つに、明日への不安を抱えた「貧乏父さん」たちが乗っている。
彼らは、月一五万円の投資の勇気も、借金をレバレッジと呼ぶ知性も持っていない。
拓海は、最も安いカクテルを注文した。二五〇〇円。一口飲むと、アルコールが喉を焼いた。
「T、いい顔してるじゃない」
不意に、横から声がした。見ると、そこにはアキラがいた。タワーマンションのゲーム会で会った、日焼けした男だ。彼は、拓海の横に座り、自分のグラスを軽く掲げた。
「カード、作ったんだろ?」
「どうして……」
「わかるよ。皆、そこを通るから。それは、通過儀礼だ。ジョーカーは言ってるだろ。リスクを先に取った者だけが、次のステージの景色を見ることができるって」
アキラの瞳は、濁っていた。しかし、その奥には、狂信的な光が宿っていた。
「いいかい、T。これから君の周りから、人がいなくなる。友人、同僚、もしかしたら家族もだ。彼らは君を心配しているふりをして、君を元の『檻』に引き戻そうとする。彼らにとって、君が成功することは、自分たちが間違っていると証明されることだからだ」
拓海は頷いた。サトシの顔が浮かぶ。彼はもう、友人ではない。自分の加速を妨げる、ただの摩擦係数だ。
「十五万のノルマは、試金石なんだ。これを高いと思うか、安いと思うか。その感覚の差が、億を稼ぐ人間と、一生雇われる人間の差だよ。君は、安いと思った。だから今、ここにいる」
アキラは拓海の肩を叩いた。その手の重みが、心地よかった。
拓海はカクテルを飲み干した。氷がカランと音を立てる。自分の人生は、今、確実に動き出している。たとえ、その方向が崖っぷちに向かっていたとしても。停止しているよりは、遥かにマシだ。彼はポケットの中の、まだ冷たい札束に触れた。
翌朝、拓海は会社を無断欠勤した。もう辞めてしまおうと思った。
スマートフォンの着信を無視し、彼はカノンから送られてきた音声ファイルを、耳が痛くなるほどの音量で聴き続けた。
『成功の十戒』。
その言葉の一つ一つが、彼の脳に刻まれていく。古い自分が死に、新しい自分が生まれる。そのためには、今の生活の全てを破壊する必要がある。
彼は、部屋にあるテレビを窓から投げ捨てたい衝動に駆られた。テレビが映し出す現実は、貧乏人のための娯楽だ。そんなものは必要ない。
拓海は、ノートを取り出した。最初の獲物のリストを作るために。カノンが自分にしたように、自分も誰かの「選択肢」を広げてやらなければならない。それは救済だ。
たとえその結果が、相手を破滅させることになったとしても。
*
カノンから授けられたスクリプトを胸に、拓海は新宿駅近くの喫茶店にいた。
向かい側に座っているのは、大学時代のサークル仲間、真田だった。彼は地方の中堅商社で働く、良くも悪くも「普通」の男だ。
拓海は、スーツの袖口を整え、カノンから教わった通りの「成功者の微笑み」を浮かべた。
「久しぶり。……最近、仕事はどう? 毎日、満員電車で消耗して、自分の時間が削られていくことに違和感、ない?」
真田は怪訝そうに拓海を見た。
「え? まあ、楽じゃないけど……。でもそれが仕事だろ? 拓海、お前こそなんか変わったな」
その言葉を、拓海は「食いつき」だと誤認した。脳内でカノンの声が響く。
『相手が興味を示したら、一気に「現状維持のリスク」を突きつけなさい』
「気づいた? これはね、自分への投資なんだ。いいか、君が今信じている『安定』は、実は砂上の楼閣だよ。会社の看板がなくなったら、君に何が残る? 僕は、その檻の外側にある、本当の『自由』を手に入れる方法を見つけたんだ」
拓海は、カノンの口調を完璧にトレースしたつもりで、ナプキンを広げてペンを走らせた。
「この図を見て。これが、僕たちが参加している権利収入のアルゴリズムだ。一人の労働を百倍にする魔法。君も、こっち側に来る権利があるんだよ」
拓海の言葉が熱を帯びるにつれ、真田の表情から色が消えていった。
カノンとの練習では、ここで相手は「詳しく教えてほしい」と身を乗り出すはずだった。だが反応は正反対だった。彼は椅子を深く引き、拓海との間に物理的な距離を作った。
「……拓海、お前、それ……マルチだろ?」
その一言が、拓海の喉に冷たい楔となって突き刺さった。
「マルチなんて言葉で片付けないでくれ。これは、情報の非対称性を利用した最新のビジネスモデルで――」
「同じだよ」
真田の声は、憐れみに満ちていた。
「お前、目が怖いよ。誰かの言葉をそのまま喋ってるみたいだ。……悪いけど、俺はもう帰るわ。このコーヒー代、お前に奢ってもらうのは気味が悪いから、自分の分は置いておくよ」
真田は五百円玉をテーブルに叩きつけるように置くと、一度も振り返らずに店を出た。
拓海は一人、取り残された。周囲の客の話し声が、急に巨大なノイズとなって耳に流れ込んでくる。
「完璧」だったはずのスクリプト。
「選ばれた人間」のはずの自分。
だが、現実に残されたのは、飲み残した冷めたコーヒーと、書き殴られたナプキンの残骸だけだった。拓海は震える手で、ナプキンを握りつぶした。カノンは「断る人間は救う価値のないゴミだ」と言った。だが、今、ゴミのように捨てられたのは、どちらの方か。
二人目は、職場の数少ない話し相手だった。彼は拓海の話を三分も聞かずに席を立った。
「浅井、お前終わってるな。そんな薄っぺらい話、誰が信じると思ってるんだ?」
拓海の背後にいるはずのジョーカーやカノンの影は、外界の人間には「滑稽な虚構」にしか見えていなかった。
三人目は、マッチングアプリで「志が高い人」を装って釣り上げた女性だった。彼女は拓海が現れた途端に帰ると言い出した。
「そのスーツ、全然似合ってないよ」
三連続の拒絶。それは拓海の自尊心を、紙やすりで削るように破壊していった。話す以前だった。
追い詰められた拓海は、震える手でカノンに電話した。
「カノンさん……誰も話を聞いてくれません。僕はもう、どうすれば……」
カノンは電話の向こうで、深く、憐れむようなため息をついた。
『あなたの「中身」がゴミのままだからよ。今のあなたは、泥を塗ったダイヤを売ろうとしている。……いいわ、特別にコンサルをしてあげる。ただし、授業料は10万円。今すぐ振り込みなさい』
家賃も食費もない。だが拓海は、消費者金融の限度額いっぱいまで引き出し、その金を「最後の救い」としてカノンに差し出した。
南青山のオフィス。カノンは拓海の前に立ち、氷のような視線で彼を射抜いた。
「10万払えば優しくしてもらえると思った? 甘いわね」
そこから五時間に及ぶ人格否定が始まった。
「あなたの話し方は卑屈。目は死んでいる。過去の教育、親の教え、あなたの二十数年の人生すべてが『無価値』なのよ。あなたはただの欠陥品。ジョーカーの靴を舐める価値さえないわ」
カノンの罵倒は、拓海の脳の最も深い部分にある自己肯定感を根こそぎ破壊した。親への拒絶を叫ぶように強要された。OKが出るまで親に死んでしまえと叫び続けた。
拓海は床に這いつくばり、泣き叫んだ。 鼻水と涙で、スーツが汚れていく。夜が深くなるにつれて、明日はまた休むしかないなとどこか冷静な頭で思った。
そしてそんな心を見抜かれ、さらに罵倒された。
絶望が底を打った瞬間、脳内で何かが「プツリ」と切れた。羞恥心、良識、倫理。かつての「浅井拓海」を構成していたすべてのパーツが、カノンの言葉という劇薬で溶け去ったのだ。
「……もう、いいです」
拓海は泣き止み、焦点の定まらない目でカノンを見上げた。
「僕にはこれしかない。人からどう思われようが、友達を失おうが、関係ない。僕は、システムになる」
開き直り。 それは、人間であることを捨て、システムの「道具」としての純度を高めた瞬間だった。
数日後。拓海はとある社会人サークルの飲み会にいた。
今の彼には、かつての「怯え」はない。表情から感情を消し、マニュアルを忠実に実行するだけのマシーンへと変貌していた。
ターゲットは、隅の方で自信なさげにビールを飲んでいた、大人しい若手社員だった。
「……今の生活に、満足してる?」
拓海の口から、カノンが乗り移ったかのような言葉が、滑らかに、そして重厚に流れ出す。相手の不安を抉り、逃げ道を塞ぎ、自分の背後にいるジョーカーの「力」をちらつかせる。
「君を救えるのは、このシステムだけだよ」
対話の末、若者はセミナーに興味を持った。後はカノンがやった通り。離れないように監視し、セミナーの熱気で飲み込んでしまう。
初めての勧誘成功。
拓海は、その若者の絶望と期待が混じった瞳を見つめながら、かつてない冷酷な愉悦を感じていた。
「おめでとう。君は今、選ばれたんだ」
自分の口座に振り込まれるマージン。それは、彼が「人間」であることを捨てて手に入れた、最初の、そして血の匂いがする果実だった。
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