第6話
二ヶ月が経った。
拓海は、朝の光の中で、自分の左腕を眺めていた。そこには、赤紫色の斑点が地図のように広がっていた。乾燥した皮膚は魚の鱗のように硬く、爪で掻くと白い粉が舞う。一瓶一万二千円のサプリメント「セル・リバイバー」を規定量の三倍摂取し始めてから二週間。内臓が常に熱を帯び、胃の奥からは鉄の匂いが立ち昇っている。
だが、拓海はそれを不快だとは思わなかった。むしろ、この肉体の崩壊こそが、脱皮の証であると感じていた。スマートフォンのカメラを起動し、マクロモードで湿疹を撮影する。
「好転反応だよ、T」
カノンの声がスピーカーから漏れる。彼女は今、ホテルのプールサイドにいるらしく、背後からは水の跳ねる音と、乾いた風の音が聞こえた。
「古い細胞が、新しいシステムに適応しようとして悲鳴を上げているの。おめでとう。君の身体は、ようやく資本主義のスピードに追いつこうとしている」
「……はい。痛みがあるたびに、自分が加速しているのを実感します」
拓海は、こけ落ちた頬を撫でた。鏡の中の男は、もはや「浅井拓海」ではなかった。眼窩は深く沈み、眼球だけが異様な湿度を伴ってギラついている。彼は、棚に並んだ黒いボトルから錠剤を掴み出し、水なしで噛み砕いた。苦みが神経を逆撫でする。
今、彼は一ヶ月に三人の「新規」を出さなければ、引っ越したばかりのこの高級マンションの家賃と、自身のノルマ、そして消費者金融への返済を維持できない。
摩擦。
世界と自分の間に生じる摩擦熱が、彼を凍えさせる不安から救っていた。
午後二時、拓海はかつての勤務先である広告代理店の入るビルの前に立っていた。
安っぽいスーツを着たサラリーマンたちが、午後の死んだような時間の中を徘徊している。かつての自分も、その群れの一匹だった。その事実に、胃の底から熱い吐気がせり上がってくる。
喫煙所で煙草を吸っていたサトシを見つけるのは容易だった。彼は相変わらず、黄ばんだ襟のシャツを着て、スマートフォンのゲームに興じていた。
「サトシ」
声をかけると、サトシは飛び上がらんばかりに驚いた。
「……浅井さん? 急にどうしたんですか、あんな辞め方して……え、っていうか、その顔、大丈夫ですか? すごく痩せて……」
サトシの瞳には、明確な「憐憫」が浮かんでいた。
拓海は、その感情を即座に軽蔑した。何も知らない家畜が、屠殺場に向かう列車から降りた人間を心配している。滑稽だった。
「サトシ、外へ出よう。君に、見せたい景色がある」
「いや、でも仕事が……」
「仕事? その、誰でも代わりが効く、月収二十数万のルーチンワークのことか? 君の三時間を、僕にくれ。その対価として、君の残りの人生を買い取ってやる」
拓海の言葉は、カノンから受け継いだ冷徹な重圧を伴っていた。サトシは、蛇に睨まれた蛙のように、力なく頷いた。
拓海がサトシを連れて行ったのは、オフィスビルの一角にある、会員制の格闘技ジムだった。そこはジョーカーが、チームの「胆力」を鍛えるために出資している場所だ。
室内には、ゴムの焼ける匂いと、男たちの生々しい汗の臭気が充満していた。
リングの上では、ジョーカーがヘッドギアも着けずに、若いメンバーを相手にスパーリングをしていた。
ジョーカーの動きには、一切の迷いがない。相手の肋骨にめり込む左ミドルキック。鈍い衝撃音が、ジムの壁に反響する。
「T、来たか」
ジョーカーはリングを降りると、タオルで汗を拭い、サトシを値踏みするように見た。
「それが、お前の『資源』か」
「はい。僕の過去の残滓です」
サトシは、ジョーカーの圧倒的な身体性に圧倒され、声も出せずに立ち尽くしていた。
「いいか、サトシ君と言ったか。この世界には二種類の痛みしかない」
ジョーカーは、サトシの胸元を指先で突いた。
「自分を変えるために進んで受ける痛みと、変えられなかった後悔で一生背負う痛みだ。どちらも等しく痛いが、結果は正反対だ。Tを見てみろ。こいつは、今、脱皮している。皮膚が剥け、血が流れているが、その下には最強の鱗が形成されている」
ジョーカーは拓海の肩に手を置いた。湿疹が広がる皮膚を、力強く握る。
激痛が走る。しかし、拓海はその痛みを、脳内で「エネルギー」へと変換した。
「痛いか、T」
「いいえ。心地よいです」
拓海は微笑んだ。その笑みは、もはや人間としての感情を介していない、純粋な機能美としての表情だった。
ジムを出た後、二人はカフェに入った。
拓海は、タブレットをサトシの前に置いた。画面には、ユウキの収益管理画面が表示されている。
「これを見てくれ。彼女は、三ヶ月前まで君と同じ保育士だった。今の彼女の月収は、七十万を超えている」
嘘ではない。ユウキは、Tの指示通りに「リスクを最大化」した。
彼女は昼の仕事を辞め、夜の街に身を投じた。そこで得た大金を、すべてリセッターズの「上位プログラム」につぎ込んだ。彼女は今、借金総額が四百万を超えているが、見かけ上の「キャッシュフロー」だけは跳ね上がっている。
「彼女は、自分を壊す勇気があったんだ。サトシ、君にはそれがあるか?」
「……風俗ってことですか? それは、成功なんですか?」
サトシの声が震える。
「成功とは、結果だ。手段に色をつけるのは、持たざる者の感傷だよ。彼女は今、高級マンションに住み、毎日ジョーカーの教えを聴いている。彼女の顔を見たことがあるか? 昔の、あの死んだような保育士の顔じゃない。何かに取り憑かれたような、神々しい顔をしているよ」
拓海は、昨日ユウキから届いたメッセージを思い出した。
『Tさん、今日、初めて指名が入りました。怖かったけど、十戒を唱えたら、身体が動きました。私、成功に近づいてますよね?』
拓海はそれに『おめでとう。その痛みは、君が特別である証拠だ』と返した。
ユウキを焼いている火は、いつか彼女を灰にするだろう。だが、その炎が明るければ明るいほど、拓海に還元されるマージンは増える。
合理的な、誤り。
自分たちは、地獄へ向かう特急列車に乗っている。だが、その座席は最高級のレザーで、シャンパンが振る舞われている。なら、それでいいではないか。
「サトシ、君の今の悩みは、すべて『金』で解決できる。そして、その金を手に入れるための『型(システム)』が、ここにある」
拓海は、一冊の本を差し出した。
『金持ち父さん 貧乏父さん』
サトシは、拒絶するように首を振ろうとした。だが、拓海の執拗な視線、ジョーカーの暴力的なオーラ、そして自分の黄ばんだシャツの襟が、彼を逃がさなかった。
「……僕にも、できますか?」
「できる。僕が、君のOSを書き換えてやる」
拓海は、サトシのスマートフォンを奪い取ると、マッチングアプリのアイコンをタップした。
「まずは、ここからだ。名前を捨てろ」
サトシは、呆然と画面を見つめていた。
そこには、かつての自分と同じように、不安を抱えた女たちの顔が並んでいた。
拓海は、自分の掌に残ったサトシの汗を、高級靴で踏みつけるようにして、席を立った。
身体が、熱い。
湿疹が、さらに広がっているのが服の上からでも分かった。摩擦熱が、自分を焼き尽くそうとしている。だが、拓海はそれを、至上の幸福として受け入れていた。
救済など、最初から存在しない。ただ、この壊れゆく身体の中で、数字だけが唯一の真実として輝いていた。
夜、拓海はユウキと新宿の裏通りの喫茶店で会った。ユウキの変貌は、拓海の予想を超えていた。
派手なブランド品に身を包んでいるが、その隙間から見える首筋は、骨が浮き出るほど細い。彼女は、止まらない貧乏ゆすりをしながら、ストローを噛み砕いていた。
「Tさん、次の『ダイヤモンド・セミナー』、五十万ですよね。私、行きます」
「……金は、どうするんだ」
「もっと入ります。指名も、もっと取ります。疑問を抱く時間は損失。私、もう迷わないって決めたんです」
彼女の瞳はジョーカーの瞳に似ていた。完全に破壊された後の、空虚な輝き。拓海は、彼女の中に自分自身の未来を見た。
だが、彼は手を差し伸べる代わりに、彼女の冷え切った指を握り、優しく微笑んだ。
「いいよ、ユウキ。君は、本当に美しい。リスクを血で購うその姿こそが、僕たちの誇りだ」
ユウキは、子供のように泣きじゃくりながら、拓海の胸に顔を埋めた。彼女の涙が、Tの胸ポケットに入ったジョンロブの領収書を濡らした。
拓海は、夜空を見上げた。東京の空には、星など見えない。ただ、自分たちの欲望を反射した、淀んだ光があるだけだ。彼は、次の獲物のプロフィールをスクロールし始めた。摩擦は、まだ終わらない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます