第7話

​ 午前二時、部屋の冷房が、乾燥しきった空気を拓海の皮膚に吹き付けていた。

 彼はベッドに座り、MacBookのバックライトで照らされた自分の指を眺めていた。爪の根元が紫色に変色している。ネイチャーの管理画面を更新するブラウザのリングが、永遠に回り続けている。何度更新しても、同じ画面が浮かび上がる。

 拓海は、自分のIDとパスワードを再入力した。しかし、システムは彼を拒絶し続けた。

「……バカな」

 喉の奥から、乾いた音が漏れた。

 この画面の向こうには、彼がユウキやサトシ、そしてアプリで出会った名もなき獲物たちを「換金」して積み上げた、数百万円の未払い報酬があるはずだった。それが、文字列一つでアクセス不能になる。

 彼はカノンに電話をかけた。呼び出し音は鳴らず、すぐに無機質な合成音声に切り替わった。心臓の鼓動が、不自然に早まる。

 彼は立ち上がり、棚にあるサプリメントのボトルを手に取った。中身を口に放り込み、噛み砕く。苦味がない。ただ、砂を噛んでいるような無機質な感触だけがあった。

 夜明け前。カノンが住んでいたタワーマンションの前に、拓海は立っていた。高級靴の底が、濡れたアスファルトを叩く。エントランスの自動ドアを抜け、コンシェルジュの前に立つ。かつてはカノンの連れとして顔パスだった場所だが、今日のコンシェルジュは、拓海のやつれた顔と血走った目を見て、明らかな警戒心を露わにした。

「四二〇一号室のカノンさんを呼んでください」

「四二〇一号室の方でしたら、昨夜、すべてのお荷物を搬出されましたが」

 コンシェルジュの声は、温度を奪われた石のようだった。

「搬出? どこへ?」

「プライバシーに関わることですので、お答えできかねます。あ、それから、もしあだ名でお呼びになっている『カノン』様のことでしたら、契約者のお名前とは異なりますので」

 拓海は、受付のカウンターを拳で叩いた。そうか、俺たちは名前を捨てた。

 あだ名で呼び合い、本名も住所も、納税記録さえも共有しない「自由な共同体」を築いたつもりだった。だが、それは単に、いつでもトカゲの尻尾のように切り捨てられるための、匿名性の罠だったのだ。

 カノンという「記号」が消えた。彼女の指先、彼女のプラダのワンピース、彼女の成功の言葉。それらすべてが、最初から存在しなかったアルゴリズムの断片のように、霧散していく。

​ ジョーカーの事務所へ向かうタクシーの中で、Tは自分のスマートフォンに届く通知を眺めていた。

 ネイチャーのグループラインが、一通のメッセージを送ってきていた。

『コンプライアンス遵守に伴う、一部アカウントの一時凍結と組織再編のお知らせ』

 美しい言葉で飾られているが、内容は単純だった。上位のリーダーたちが一斉に姿を消し、その責任をすべて、Tのような「現場の勧誘者」に押し付けるという宣言だ。

 事務所の前に着くと、スーツを着た男たちが、段ボール箱を次々と運び出している。

「君、何かな」

 一人の男が歩み寄ってきた。胸には警察のバッジ。

「……ここで働いていた者です」

「働いていた? 雇用契約書はあるのか? 厚生年金は?」

 刑事の言葉は、乾いた嘲笑を含んでいた。

「いや、個人事業主として……ビジネスオーナーとして」

「ああ、そういうやつね。君、自分がやってたこと分かってる? 逃げたジョーカーとかいう男、本名は中野っていうんだけどね、あいつは君みたいな『やる気のあるバカ』を集めて、盾にしてただけだよ」

 刑事は、拓海の高級靴を見た。

「いい靴履いてるけど、それ、被害者の金で買ったんだろ? 合理的だね、君らみたいなのは」

 拓海は、何も言い返せなかった。自分が信じていた「十戒」が、法典ではなく、ただの「逃亡計画書」の一部であったことを、身体の芯から理解し始めていた。その時、スマートフォンが狂ったように震え出した。

 ユウキからだ。

「Tさん! 助けて! 店に、消費者金融の人が来たの! 会社が潰れたって本当? 私のコミッション、どうなるの? 五百万、どうやって返せばいいの!」

 ユウキの叫びは、もはや人間の言葉というよりは、壊れた機械のノイズだった。続いてサトシからのメッセージ。

『浅井、お前だけは許さない。お前のせいで全部失った。死ね。死んでくれ』

 拓海は、スマートフォンの電源を切った。耳の奥で、ジョーカーの声が再生される。

『リスクを先に取れ。疑問を抱く時間は損失だ』

 そうだ。自分はリスクを取った。他人を破滅させ、自分も破滅するという、究極のリスクを。

 ジョーカーは、最初から「成功」など約束していなかった。彼はただ、この冷酷なアルゴリズムを回し続けるための、使い捨ての燃料を求めていただけなのだ。

​ 雨が降り始めた。拓海は、傘を持たずに歌舞伎町の雑踏を歩いた。

 二十万円のジョンロブが、汚泥を跳ね上げる。彼は、自分がかつて軽蔑していた、五〇〇円の唐揚げを食べるサラリーマンたちと、今の自分がどう違うのかを考えた。彼らには、帰る場所があり、名前がある。自分には、何もない。管理画面から消去されたデータのように、彼はこの都市の一部として、誰にも気づかれずに処理されていく。

 肺が痛む。湿疹が、激しい痒みを伴って熱を放つ。正しさは結果によって裏切られた。救済は保証されなかった。意味は説明されなかった。ただ、この圧倒的な絶望だけが、彼が手に入れた唯一の本物の「資産」だった。

 彼は、泥まみれになった靴を見つめ、ゆっくりと歩き出した。どこへ行くのかは分からない。ただ、このアルゴリズムは、まだ終わっていないということだけは分かっていた。



​ ネットカフェのブース。空調のフィルターが詰まっているのか、空気は埃っぽく、古い汗の臭いが染み付いている。

 拓海は、リクライニングチェアに深く沈み込み、ディスプレイが放つ青白い光を網膜に焼き付けていた。

 机の上には、一足二十万円のジョンロブが鎮座している。雨で泥まみれになり、革はふやけ、もはや芸術品としての輝きはない。しかし、それが彼に残された唯一の「資産」であり、かつて自分が特別な人間であったことを証明する最後の遺物だった。

 財布を開く。千円札が一枚と、数枚の硬貨。

 銀行口座の残高は、先月の引き落としによって、マイナスの表示を叩き出していた。

 彼は、無料サービスの不自然に甘いコーラを一口飲んだ。化学的な甘味料が、荒れた胃壁を刺す。かつてジョーカーは言った。「資本主義において、貧乏とは病気であり、治療法は稼ぐことだけだ」と。

 今の自分は、末期症状だった。

 しかし、不思議なことに恐怖はなかった。あるのは、剥き出しの飢えと、情報の波から遮断されたことによる禁断症状に近い焦燥だけだ。

​ 彼は震える指で、スマートフォンの画面をスクロールした。

 SNSの検索欄に『ユウキ』と打ち込む。

 彼女の最後のアカウントは、数日前から更新が止まっていた。最後の投稿は、新宿駅のホームから線路を見下ろす、ブレた写真。

『Tさん、約束した成功の景色って、これのことだったんですか? 身体が、熱くて、痛くて、もう十戒が思い出せません』

 拓海は、その画面を無感情に眺めた。

 彼が彼女を導いたのは、救済のためではない。自分のノルマを達成するための、最も合理的な選択肢だった。彼女が死を選ぼうが、風俗店で魂を切り売りしようが、それは彼女自身の「自己責任」というロジックで既に処理されている。

 理解していて、誤る。

 自分は間違った。だが、その間違いを選んだのは、現状の退屈から逃れるために最も「正しく見えた」からだ。

 正しさは、常に事後的な結果によって裏切られる。その不条理さを、彼はこの狭いブースで、自らの肉体を通じて咀嚼していた。

​ ブースの壁を、ドンドンと叩く音がした。

 拓海は息を殺した。警察なのか、借金の取り立てなのか。

 拓海はジョンロブを抱え、非常口へと走った。

 雑居ビルの錆びた非常階段。冷たい風が、薄くなったシャツを通り抜け、湿疹の広がる皮膚をなでる。足を踏み外して脇腹をしこたま打ち付けた。ふらつきながら大通りへ出た。

 街は、何事もなかったかのように動き続けている。「成功の十戒」というウイルスは、次の宿主に感染するため誰かの中で眠っている。

 システムは死なない。ジョーカーが消えても、カノンが逃げても、ネイチャーという名前が変わっても、この「搾取のアルゴリズム」は、人々の不安を燃料にして、無限に増殖し続ける。

 僕は逮捕されるのだろうか。瞳に宿るのは破滅への加速の光だった。そうだ、自分にはそれしかない。

 嘔吐感が込み上げてくる。

​ 吐瀉物はタイルを汚濁した。嗚咽しながら自分の胃壁が裏返るような感覚に耐えていた。

 喉の奥には、常にサプリメントの人工的な甘味料と、鉄の味がこびりついている。

 共同体が崩壊するとき、そこに残るのは高潔な理念ではなく、泥舟から最初に飛び出すための、卑劣な足蹴り合いだけだ。

 それが、この世界観の正体だった。人々の波が、色彩を欠いた情報の集合体のように見えた。

 ふと、背後に気配を感じた。

「……カノンさん?」

 振り返ると、そこにいたのは、カノンではなく、サトシだった。右手には、短く切った鉄パイプが握られている。

「殺すって言ったよな」

 サトシは狂ったように鉄パイプを振り回した。衝撃が、拓海の肩を砕いた。骨が折れる、生々しい音が頭蓋に響く。

 拓海は地面に転がり、雨水を吸った。

 痛み。

 かつてジョーカーが「成長の証」と呼んだ、あの痛みが、今はただの「損壊」として肉体を破壊していく。サトシは、泣きながら何度もTを殴りつけた。

「お前のせいだ!普通に生きていれば良かったんだ、 キャッシュフローが、自由が、十戒がなんだ……!」

 拓海は、口の中に溜まった血を吐き捨てた。

「僕たちは、最初から……間違ってなかったんだ」

 拓海の声は、穏やかでさえあった。

「人は、恐怖を避けるために、最も合理的な誤りを選ぶ。僕たちは、貧乏という恐怖から逃げるために、この破滅を選んだ。それは、ある意味で、世界で最も『正しい決断』だった。結果が裏切っただけで…。次は上手くやる…。僕がカノンさんやジョーカーになる」

 サトシは、動きを止めた。雨の中に、男の嗚咽だけが響く。拓海は、折れた腕を引きずりながら、ゆっくりと立ち上がった。

 壁に寄りかかり、懐から一冊の、汚れたノートを取り出す。そこには、これまで自分が勧誘し、破滅させてきた人間たちのリストが書かれていた。

 ユウキ。サトシ。ミカ。

 その他、名前も思い出せない数十人の記号。拓海は、そのページを一枚ずつ、丁寧に破り取った。

 他人の人生を食い、自分の人生を食い、最後には何もない孤独だけが残る。救済は保証されない。意味は説明されない。

 彼は、ノートの最後のページ――自分が書き写した「成功の十戒」を、雨の流れる溝に放り投げた。

 自分は今、完全に自由だった。名前もなく、金もなく、未来もなく。ただ、この冷たいコンクリートの上で、自分の心臓が刻む無意味なリズムだけを感じている。 

 彼は、目を閉じた。

 遠くで、サイレンの音が聞こえる。

 それは、自分を迎えに来る死神の歌のようでもあり、あるいは、新しいシステムの始まりを告げる合図のようでもあった。 

 彼は、誰のためでもない、乾いた笑みをこぼした。

 一人の青年が目に留まった。

 くたびれたリクルートスーツを着て、求人サイトの画面を食い入るように見つめている。その表情、その焦燥感、その、自分が「何者でもない」という恐怖に震える肩。

 かつての浅井拓海が、そこにいた。

 拓海は、ゆっくりと立ち上がった。

 身体の節々が軋み、痛みが走る。だが、その痛みこそが、自分をこの世界に繋ぎ止めている唯一の錨だった。

 彼は青年に近づき、最も清潔で、最も信頼を感じさせる、それでいて最も残酷な微笑みを浮かべた。

「……今の仕事、ずっと続けるつもりですか?」

 青年は、弾かれたように顔を上げた。

 その瞳に宿る、警戒心と、それ以上の深い「渇望」。

 拓海は、それを一瞬で見抜いた。

 新しい連鎖が、今、始まった。

 このアルゴリズムは、終わらない。自分の内側で何かが完全に、そして幸福に壊れる音を聞いた。

 正しさは結果で裏切られる。

 救済は保証されない。

 意味は説明されない。

 ただ、この圧倒的な加速の中にだけ、彼は自分の生存を確信していた。

「……次は、もっと上手くやる」

 夜が、歪んだ笑みを浮かべて彼を飲み込んでいった。

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