第5話

​ 浅井拓海という「人間」は、あの日、カノンのオフィスの床で泣き叫んだ時に死んだ。今やジョーカーの思想をインストールされ、カノンのマニュアルを忠実に実行するだけの「最適化されたOS」だった。

​ 拓海の朝は、スマートフォンのバイブレーションから始まる。

 かつての彼は、アラームが鳴るたびに絶望していた。だが今は違う。目を開けた瞬間から、彼の脳内では「今日のターゲット」のリストがスクロールされる。気付けば購入したサプリを噛み砕くのが癖になっていた。

 出勤前のカフェで、SNSから釣り上げた見知らぬ若者に「将来への不安」を植え付ける。昼休み、会社の屋上でかつての同期に「特別な情報の共有」を囁く。退勤後の居酒屋で、合コンという名の「狩り場」へ繰り出す。

​ 彼は、感情を捨てた。

 相手が怒れば、それは「無知ゆえの防衛反応」として処理した。

 相手が泣けば、それは「浄化のプロセス」として利用した。

 さらに十人をセミナーへ勧誘することに成功した。

​ 週末のセミナー会場。拓海は最後列で、自分が送り込んだ獲物たちがジョーカーの演説に震える様を眺めていた。

 その光景は、工場のベルトコンベアを見守る管理者の視点に似ていた。「救済」という名の加工が施され、ただの人間が「資産」へと作り替えられていく。

 結果、五人が新たに彼の系列へと加わった。

​ 月曜日の深夜。拓海はスマートフォンの管理画面を開いた。自分のダウンたちが商品を買い込み、さらなるダウンを増やそうと蠢いている。そのたびに、自分は何もしなくても数パーセントのマージンが発生する。

 画面に表示された今月の「暫定報酬額」は、四十万円を超えていた。

 本業の給料の二倍。

 「……勝った」

 拓海は、暗い部屋で一人、声を出さずに笑った。

 会社のPCの前で八時間座り続けて得る二十万円と、他人の欲望をレバレッジにして得る四十万円。今となっては他人を上手くメンテナンスし続けるだけで良い。

 その「質の差」が、彼を決定的に変えた。もはや、満員電車に乗る一分一秒が、自分の資産価値を毀損する耐え難い損失にしか思えない。

​ 翌朝。拓海はいつものようにオフィスへ向かった。

 だが、その足取りはかつてなく軽かった。

「浅井! また修正が入ったぞ。クライアントが納得してないんだ。お前、最近やる気あるのか?」

 課長の声が響く。加齢臭と、焦燥感にまみれた中年の咆哮。

 かつての拓海なら、縮こまって謝罪していただろう。だが今の彼は、課長の鼻の横にある脂ぎった毛穴を、冷静に観察していた。

 拓海は無言で、ジャケットの内ポケットから一通の封筒を取り出した。

「何だ、それは」

「退職願です。今日で辞めさせていただきます」

 オフィス全体が、一瞬で凍りついた。サトシが驚愕して手を止める。課長の顔が怒りで赤黒く染まった。

「……ふざけるな! 三ヶ月前の申告が常識だろう。こんな忙しい時期に――」

「常識、ですか」

 拓海は、カノンから教わった「支配者の微笑」を浮かべた。

「その常識があなたをこの惨めな席に縛り付けているんです。僕はもう、あなたの時間を買う側の人間になるので。有休はすべて消化します。文句があるなら、法務担当にでも言ってください」

​ 拓海は、課長の罵声を背中で聞き流しながら、デスクの荷物を無造作に段ボールへ放り込んだ。

 サトシが小声で「本気ですか? 明日からどうするんですか……」と話しかけてくる。

 拓海はサトシの肩を叩いた。その手には、かつての「友人」への情愛はなく、ただ「次の獲物候補」としての品定めがあった。

「サトシ。君が本当の『自由』に興味を持ったら、連絡して。今はまだ、話しても理解できないだろうから」

​ 正午。拓海はビルの外へ出た。

 汚れた空気が、信じられないほど美味く感じられた。

 彼はカノンに電話をかけた。

『……辞めてきた?』

「はい。たった今、家畜の檻を壊してきました」

『おめでとう。これでようやく、あなたという「商品」が完成したわ』

 カノンの声は、祝福というよりは、新しい猟犬を歓迎する冷ややかな愉悦に満ちていた。

​ 拓海は、スーツの襟を正した。明日から、自分を拘束するものは何もない。

 あるのは、拡大し続ける帝国の野望と、それを支える膨大な「負債」という名の燃料だけだ。



​ 深夜二時。スマートフォンの振動が、サイドテーブルの上でプラスチック特有の乾いた音を立てた。

 網膜の裏側には常に、ジョーカーがセミナーで使った赤いレーザーポインターの光跡が焼き付いている。

 画面には『ユウキ』の名前。彼女はやっとで正式に系列に加わるところだった。日々SNSで増えていく吐露に、裏垢を作って励ましの連絡をしていた。

「……もしもし」

 受話口から、湿った嗚咽が漏れた。

「Tさん、ごめんなさい。やっぱり、私には無理かもしれない。カードの審査が通って、限度額の五十万を見て、急に怖くなって……手が震えて、眠れないんです。お母さんに電話しようと思ったけど、怒られるのが分かってるから、できなくて」

 拓海はベッドから起き上がり、暗闇の中で冷えた水を一口飲んだ。喉の奥を、無機質な液体が滑り落ちる。

「ユウキさん。君が今感じているのは、恐怖じゃない。産みの苦しみだ」

 拓海の声は、録音されたテープのように抑揚がなかった。

「昨日まで、君の脳は月収十八万という安全地帯に飼いならされていた。そこから一歩外に出ようとすれば、防衛本能が働くのは当然だ。でもね、その『お母さん』に電話して、何が解決する? 彼女は君の老後を保証してくれるのか? 君が自由を手にするために必要な五十万を、無利子で貸してくれるのか? 違うだろ。彼女たちは、君を今の場所――つまり、彼女たちと同じ不幸な場所に留めておきたいだけなんだ。それを『愛』という言葉で偽装しているだけだ」

 電話の向こうで、呼吸が整うのが分かった。

 拓海は確信していた。彼女にはもう、逃げ場がない。彼女が恐怖しているのは、金を失うことではなく、この真夜中に自分を導いてくれる唯一の存在――つまり拓海との繋がりを失い、再びあの灰色の保育園の日常に放り出されることなのだ。

「明日、十時に新宿のアルタ前。カードを持ってきて。僕が付き添う。君が一人で戦う必要はない。僕も、カノンさんも、ジョーカーも、君の成功を信じてる。世界中で、僕たちだけが君の味方なんだ」

 ユウキは、「はい」と短く答えた。その声は、断頭台へ向かう罪人の潔さと、宗教的狂信者の恍惚が混じり合っていた。

​ 翌朝、新宿。街は、巨大な胃袋のように人々を飲み込み、消化していた。

 アルタ前に現れたユウキは、昨夜の電話の主とは思えないほど、表情が消えていた。目は虚ろで、ファンデーションの下に隠しきれない隈が浮いている。

「おはよう、ユウキ。よく来たね。一歩前進だ」

 拓海は彼女の肩に手を置いた。ポリエステル混紡のカーディガンの、安っぽい手触り。この女は、今日、自分の未来を切り売りして、拓海の銀行残高を増やすための部品になる。

 二人は、雑居ビルの陰にある「レイク」の無人店舗へ向かった。

 狭いブースの中には、消毒液の匂いと、誰かが残したタバコの脂の匂いが漂っている。

 ユウキが震える指で、プラスチックのカードを挿入口に入れる。

 拓海は彼女の背後に立ち、液晶画面に表示される数字を注視した。

『お引き出し可能額:五〇万円』

「『全額』を押して」

「全額……ですか?」

「そう。リスクを分割してはいけない。一気に取る。それがレバレッジの基本だ。十五万は商品の初回購入代。残りの三十五万は、君がビジネスを加速させるための運転資金、つまり『勇気の証』として手元に置いておくんだ」

 ユウキは、まるで操り人形のように、「五〇〇、〇〇〇」と数値を打ち込んだ。

 機械が、札束を数える駆動音を立てる。バラバラバラ、というその音は、拓海にとって、どんな音楽よりも甘美な旋律だった。

 排出口から吐き出された五十枚の一万円札。ユウキはそれを、まるで呪われた遺物のように両手で受け取った。

「これで、君は変われる」

 拓海は彼女の耳元で囁いた。

 その瞬間、拓海の頭を占めていたのは、彼女への同情でも、自分の冷酷さへの嫌悪でもなかった。ただ、これで自分の今月のノルマが達成され、さらに「紹介料」としてのマージンが発生するという、数学的な喜びだけだった。

 彼は、恵比寿の百貨店に入り、これまで一度も足を踏み入れたことのない高級靴のフロアへ向かった。

 ジョンロブの、一足二十万円を超える黒いオックスフォード。彼はそれを、カードで一括購入した。ユウキが消費者金融で借りた金の、四割に相当する金額だ。

 新しい靴を履き、店を出る。地面を叩く音が、以前の安物の靴とは明らかに違っていた。硬く、鋭く、確実な音。

 この音が、自分を次のステージへ運んでくれる。 

 彼はカフェに入り、再びアプリを開いた。ユウキという「獲物」は、もう半分以上消化してしまった。彼女はもうすぐ、保育士の給料では消費者金融の返済が追いつかないことに気づき、発狂するだろう。その時、彼女にさらなる「救済(さらなる借金と、新規の勧誘)」を提示する。

 しかし、彼女一人では足りない。月十五万のノルマを維持し、もっと上を目指すにはあと三人は「ユウキ」が必要だ。

 拓海の指が、画面を滑る。新しい顔。新しい不安。新しい獲物。彼は、自分が巨大なシステムの一部であることを自覚していた。

 ジョーカーに食われながら、自分はユウキを食う。ユウキは、また別の誰かを食う。

 その食物連鎖の循環こそが、この街を動かしている真理なのだ。

「……よし」

 拓海は、一人の女性にメッセージを送った。

『はじめまして。突然のご連絡失礼します。あなたのプロフィールを見て、直感的に「リスクを取れる人」だと思いました。今の退屈な日常を、根本から壊してみませんか?』

 送信。 

 新しい靴が、テーブルの下で鈍く光っている。

 彼は、自分がどこまで堕ちていけるのか、その深淵の深さを測ることを楽しみにさえしていた。救済など、最初から誰も求めていない。ただ、この加速度的な破滅の中に、生の実感があるだけだ。

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