第4話

 拓海は、ジョーカーの前に立っていた。ジョーカーは無言で、机の上に置かれた小さな白い箱を指先で押し出した。

「開けてみろ」

 箱の中には、厚手の最高級紙に印刷された名刺が入っていた。そこには、会社名も、役職も、住所も、そして「浅井拓海」という名前も記されていなかった。

 ただ中央に、銀色の箔押しで一言だけ。

『T』

「お前はTだ」

 ジョーカーの声は、重く、粘り気のある響きを持って拓海の鼓膜に張り付いた。

「いい仕事だ、T。お前は、壁を越えた」

 ジョーカーは、デスクの引き出しから、一冊の革装のノートを取り出し、Tの名の下に数字を書き込んだ。

「お前の今月のボーナスは、八万四千円だ。明日、口座に振り込まれる。どうだ、誰かの人生を『買い取った』気分は」

「……気分、ですか」

 拓海は、自分の指先を見た。ユウキの現金を数えた感触が、まだ指紋に残っている。

「特に、何も。ただ、数字が動いたという実感だけがあります」

「合格だ」

 ジョーカーが、低く笑った。

「感情はノイズだ。誰かが不幸になるとか、誰かが泣いているとか、そんなものは成功の本質とは関係がない。世の中は、奪う側と奪われる側で構成されている。お前は今日、奪われる側の椅子を蹴り飛ばして、こちら側のテーブルに着いた。それだけのことだ」

 拓海のスマートフォンに、銀行のアプリから通知が届いた。

 残高が増えている。

 それは、会社での一ヶ月の労働によって得られる「分配金」ではなく、彼が主体的に、他者のリソースを簒奪することによって得た「戦利品」だった。

 その瞬間、拓海は自分の胃の奥が熱くなるのを感じた。それは、一種の性的興奮に近い、どす黒い高揚感だった。

「浅井拓海という男は、平均年収を稼ぎ、上司の機嫌を伺い、いずれは誰にも思い出されずに死んでいく塵のような存在だ。だが、Tは違う。Tは、自らの意志で世界を再構築する側の人間だ。過去を捨てろ。親が勝手に付けたラベルに縛られるな。お前を定義するのは、お前の銀行残高と、これから生み出す結果だけだ」

 拓海は、その名刺を指でなぞった。T。

 ただの記号。しかし、その記号を受け取った瞬間、肩の荷がふっと軽くなるのを感じた。「浅井拓海」であれば守らなければならなかったはずの、社会的な良識、奨学金の返済、親への不義理。それら全てが、自分とは無関係な「他人の物語」に変わっていく。

 俺はTだ。それ以外の何者でもない。

​ その夜、南青山のある焼肉店に「家族」が集まっていた。

 一皿五千円を超える黒毛和牛の皿が、テーブルを埋め尽くしている。カノン、アキラ、レオ、ミチ……。誰もが本名を伏せ、あだ名で呼び合っている。

「T、今日のセミナー、ジョーカーの気合入ってたね。痺れたでしょ?」

 カノンが、脂の乗ったサーロインを拓海の皿に置いた。彼女は今日、プラダの新作だという黒いワンピースを着ていた。露出した鎖骨が、店内の照明を浴びて陶器のように白く光っている。

「焼肉に来てくるなよ」

 ジョーカーの指摘に全員が手を打って笑った。

「はい。今まで自分がどれだけ『言葉の呪い』にかかっていたか分かりました」

「そう、それだよ!」

 アキラが、ジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。

「世の中の奴らは、俺たちのことを『マルチ』だの『洗脳』だのって呼びたがる。でも、本当に洗脳されてるのはどっちだ? 満員電車に詰め込まれて、やりたくもない仕事をして、月給数十万で満足してる連中こそが、国家と企業に洗脳された家畜じゃないか」

「レオ、あいつらに教えてやろうよ。本当の自由をさ」

 金髪に近い茶髪のレオが笑う。彼らは肉を焼き、血の滴るようなレアの状態で口に運んだ。咀嚼する音が、会話の合間に湿ったリズムを刻む。

 拓海は、その熱狂の中にいた。ここには否定がない。

「でもさ」と、レオが少しだけ声を落とした。「最近、地元の友達にこの話したら、警察に通報するぞって言われちゃってさ。ショックだったよ」

「レオ、それはね」

 カノンが優しく、しかし冷徹なトーンで遮った。

「その友達は、ドリームキラーなの。君を心配してるんじゃなくて、君が自分たちの層から抜け出すのが怖いだけ。本当の友達なら、君の成功を喜ぶはず。喜ばない奴は、君の人生に必要のない不純物だよ。捨てちゃいなよ。新しい家族がここにいるんだから」

 レオは、憑き物が落ちたような顔で頷いた。捨てればいい。不純物を。拓海は、その言葉を反芻した。

 昨日、母親から届いた「お米送ったからね。仕事頑張りすぎないで」というLINE。それを未読のまま削除した自分を、正当化するロジックが完成した。

 親も、サトシも、地元の友人も。皆、俺を「浅井拓海」という檻に留めようとする敵だ。

 俺には、この肉の味を共有できる「家族」がいればいい。

​ 宴が終わり、深夜二時。

 拓海は一人、タクシーの車内でマッチングアプリを開いた。画面を流れる女たちの顔が、もはや恋愛の対象には見えない。それは、ジョーカーが言うところの「市場」であり、自分の「燃料」だった。

 月十五万円のノルマ。来月も、再来月も、この支払いは続く。自分の貯金は底をつき、消費者金融の枠も半分を消化した。

 延命するためには、自分と同じように「リスクを取る」人間を、この回路に引き込まなければならない。 

 ターゲットは、ユウキ。二十三歳。保育士。

 プロフィールには『毎日仕事だけで終わるのが不安です。何か新しいことを始めたい』と書いてある。

 カノンから教わった「スクリプト」を脳内で再生する。

 不安を煽れ。現状の延長線上に破滅があることを自覚させろ。そして、自分だけがその「解決策」を持っていることを匂わせろ。 

 拓海の指が、画面を叩く。

『はじめまして。プロフィール拝見しました。保育士さん、大変な仕事ですよね。僕も以前は同じように、自分の時間が削られていくことに恐怖を感じていました。でも、ある出会いで世界が変わったんです。もし興味があれば、一度コーヒーでも飲みませんか?』

 送信ボタンを押す。良心の呵責はない。これは救済なのだ。彼女を、あの脂ぎった首筋の上司や、黄ばんだ襟の後輩たちが蠢く「地上」から、この清潔で冷徹な「高層階」へと引き上げてやるための、慈悲の行為だ。

 スマートフォンの通知が鳴る。

『マッチング成立!』拓海は、暗いタクシーの座席で、ジョーカーと同じように口角を吊り上げた。

 窓の外、東京の街灯が線になって流れていく。

 彼はもう、誰のことも名前で呼ぶつもりはなかった。人間は、機能と数字で構成されたパーツに過ぎない。

 そのパーツを組み上げ、巨大なキャッシュフローのマシンを動かすこと。それが新しい生存戦略だった。



​ 午前四時三十分。スマートフォンのアラームが鳴る前に、拓海は目を開けた。

 視界の端がわずかに明滅している。慢性的で重い疲労が、鉛のように四肢に溜まっていた。月十五万円の「シードマネー」を捻出するために、彼は食費を極限まで削り、三食をリセッターズのサプリメントと、一袋数十円の安価なオートミールで済ませていた。

 彼は全裸で浴室に入り、蛇口を全開にした。

 真冬の冷水が皮膚を叩く。心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。

「一、成功は義務である。二、リスクを先に取れ。三、疑問を抱く時間は損失である」

 拓海は叫んだ。震える声がタイルの壁に反響し、水音に混ざる。

 十戒を唱えるたびに、脳内の「浅井拓海」が断片化され、排水口へと流れていく感覚があった。

 鏡の中の自分を見る。頬はこけ、目は血走っている。だが、その瞳の奥には、以前にはなかった病的な光が宿っていた。ジョーカーは言った。「狂気のない成功など、ただの幸運だ」と。今の自分は、確実に狂っている。そして、その狂気こそが、選ばれた人間である証拠なのだと、彼は自分を説得し続けた。

​ 午後一時、池袋。

 ホテルのカフェ。拓海は、カノンから贈られたクロムハーツのネクタイピンを何度も指先で確かめた。

 向かいに座るユウキは、ピンク色のカーディガンを着て、所在なげにメニューを眺めていた。彼女の爪は短く切り揃えられ、指先には保育士という仕事特有の、砂遊びによる微かな荒れが見えた。

「ユウキさん。保育士のお仕事、素晴らしいと思います。でも、今の生活をあと四十年続けて、その先に何があるか、具体的に想像したことはありますか?」

 拓海の声は、かつての自分のものとは思えないほど低く、そして冷酷だった。

「……何って、普通に、結婚したりして、普通に生きていければいいかなって」

 ユウキは困ったように笑った。

「『普通』が一番難しい時代なんですよ」

 拓海は、カノンから教わったグラフをノートに描いた。日本の平均年収の推移、物価の上昇、そして社会保障の崩壊。

「今のあなたは、沈みゆく泥舟の中で、必死に水を掻き出している状態です。手取り十八万。そこから家賃と光熱費を引いて、残るのが数万円。その数万円で、あなたの夢は買えますか? あなたの親が病気になったとき、最高のアプローチを提示できますか? できないでしょう。それは、あなたが『労働』という名の奴隷制度に、知らず知らずのうちに依存しているからなんです」

 ユウキの顔から血の気が引いていく。

 拓海は確信した。彼女は今、恐怖に支配されている。恐怖は、最も効率的な教育の材料だ。

「僕たちのグループには、その『普通』から抜け出した人たちがたくさんいます。中には二十代で月収数百万を達成し、時間の自由を手に入れた子もいる。彼女は、あなたと同じように不安を抱えていた。でも、彼女は『十戒』を選んだんです」

​「十戒……?」

 ユウキが微かに唇を震わせた。

「成功するための、絶対的な法則です。ユウキさん、あなたに必要なのは、努力じゃない。正しい『環境』と、リスクを取る『覚悟』だ。もし、本気で自分を変えたいと思うなら、僕のメンターに会ってみませんか? 普通に生きていたら、一生会えないような人です」

​ 三十分後、カノンが合流した。

 彼女は、ユウキを一目見るなり、まるで旧知の親友のように彼女の手を握った。

「ユウキちゃん、会えて嬉しい! T君から聞いてたよ、すごく頑張り屋さんだって。でも、頑張る方向を間違えちゃうと、人生ってあっという間に終わっちゃうんだよね」

 カノンの言葉は、拓海のそれよりも遥かに滑らかで、それでいて強力な引力を持っていた。

 ユウキの瞳が、次第に熱を帯びていく。拓海は、それを特等席で眺めていた。

 自分がかつてカノンにされた、精神の解体と再構築。

 ユウキは今、その手術台の上に載せられている。拓海の中に、微かな違和感が走った。

 彼女がこれから抱えることになる、月十五万円の負債。消費者金融への案内。友人たちからの絶縁。

 その光景が脳裏を過る。しかし、その違和感は、すぐに「成功の十戒」によって掻き消された。

『九、成功の邪魔になる感情は、即座に排せ』

 そうだ。これはビジネスだ。ユウキが救われるかどうかは、彼女の自己責任だ。自分の役割は、彼女をこのシステムの中に放り込むこと。そして、その対価として自分のキャッシュフローを太くすること。

 それ以外に、意味などない。 

 ユウキが、カノンの差し出した『金持ち父さん 貧乏父さん』を受け取った。

 その瞬間、拓海のスマートフォンに、ネイチャーの管理画面から通知が届いた。新規見込み客リスト、一名追加。拓海は冷めたコーヒーを飲み干した。舌に残る苦味は、勝利の味だった。

「せっかくだしSNSを教えていただいていいですか?」

 SNSは監視を簡単にする。自ら状況を教えてくれるからだ。

 窓の外では、池袋の雑踏が灰色に蠢いている。その中にいる数万人のうち、自分だけが、この「正解」を知っている。

 拓海は、自分の内側で何かが完全に死に絶えたのを感じた。

 それはかつて「善意」と呼ばれていたものかもしれないが、今の彼には、不要な内臓のようにしか思えなかった。

 彼は、次のターゲットを探すために、再びアプリの画面に指を滑らせた。

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