第3話 『学校という世界』

久しぶりの登校だった。

教室の窓から差し込む朝の光が、机の表面を淡く照らしている。


明日香は席に座り、背筋を伸ばした。

特別なことは何もない。ただ、少しだけ空気が違う気がする。

理由は分からない。でも、身体がそう感じていた。


クラスメイトの笑い声。

椅子を引く音。

筆箱の留め具が鳴る小さな金属音。


その中で、達也がこちらを向いた。


「おはよう」


「おはよう……」


短いやり取り。

それだけなのに、明日香の胸の奥で小さな揺れが生まれる。


――何かが起きるかもしれない。


確信はない。

理由もない。

ただ、心がそう伝えてきた。


授業が始まると、その感覚はいったん遠のいた。

ノートを取り、黒板を見て、当てられたら答える。

体調は悪くない。むしろ、頭は冴えている。


それが、少しだけ不思議だった。


昼休み。

校庭から、乾いた音が響いてくる。

野球部の練習だ。


その音に気を取られた一瞬だった。


ボールが、勢いよくこちらへ飛んできた。


「――っ」


考えるより早く、明日香は右手を出して庇っていた。


次の瞬間、

ボールは、そこにあったはずの軌道ごと消えた。


跳ねる音も、転がる気配もない。

ただ、空白だけが残る。


明日香は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、自分の右手を見つめた。

何かをした感覚は、はっきりとは残っていない。

でも――何もしていない、という感じもしなかった。


胸の奥で、また小さな揺れが生まれる。


「……消えた?」


達也の声で、はっと我に返る。

彼は首を傾げているだけで、深刻そうではなかった。


「今の、見た?」


「え? いや……なんか、消えたなって」


それ以上、誰も何も言わなかった。

周囲もすぐに別の話題に戻っていく。


明日香は、何も言わなかった。

言えなかった、というより――

言葉にする前に、心が止めた。


放課後。

家に帰ると、いつもの匂いがした。


「ただいま」


「おかえり」


キッチンから顔を出した加奈子は、いつも通りだった。

それが、少しだけ救いだった。


「もう、大変だったんだよ」


「どうしたの?」


明日香は、昼の出来事を“そのまま”は話さなかった。

ボールが飛んできたこと。

ちょっとびっくりしたこと。

それだけ。


加奈子は話を聞きながら、一瞬だけ手を止めた。

ほんのわずかに、表情が固くなる。


でも、すぐに戻る。


「びっくりするよね。怪我がなくてよかった」


その言葉は、母のものだった。

けれど、その奥に別の気配があることを、明日香は感じ取ってしまう。


――お母さん、何か知ってる。


そう思ったけれど、口にはしなかった。

聞けば、何かが変わってしまう気がしたから。


夜。

部屋に戻ると、ベッドの上でサキが丸くなっていた。

明日香が近づくと、少しだけ身じろぎする。


「……今日ね」


誰に向けたでもない言葉が、喉まで出かかって、消えた。


右手を握る。

何も起きない。


それでも、確かに――

自分の中に“何か”がある。


その感覚だけを抱えたまま、明日香は布団に潜り込んだ。

眠りは、思ったより早く訪れた。

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