下を見て歩け

神夜紗希

下を見て歩け

今日は職場の飲み会。

楽しく酒を飲んでいると、あっという間にお開きの時間が近づいてきた。


ラストオーダーの飲み物が来た時、だいぶ酔いが回った上司が席に回ってきた。


「お前、この辺に住んでるらしいなぁ。」


「はい。最近越して来たんですよ。通勤電車の時間を少しでも減らしたくて。それに飲み屋からも近いし。」


そう言いながら、上司のグラスに自分のグラスを近付けて、チンッと軽く乾杯する。


「それは、良いな。分かるよ…ただな?

気をつけろよ。」


上司は嬉しそうに笑うと、フッと真剣な顔つきになった。


「この辺はな、ちゃんと、下見て歩けよ。」


「…え?」


真意が分からず聞き返す。


「どういう意味ですか?」


上司が言おうか悩み口を開こうとした時、

隣の席に居た幹事が立ち上がった。


「そろそろお開きですよー!タクシー呼ぶ人は呼んでください。二次会に行かれる方は自己責任でどうぞ〜!」


周りがより一層騒がしくなり、もう上司に詳しく聞ける空気は無くなってしまった。


上司も反対側に座ってる同僚に話しかけられてしまっていた。


…まぁ、いいか。

酔っ払いの言う事だ、気にすることはない。


ただ、普段は優しい笑顔で働く上司の、

一瞬の真剣な眼差しが印象的だった。


…きっと、飲み過ぎて転ぶなよ、とか、

そういう意味だろう。


明日も仕事だから今日はそんなに飲んでない。

帰る前に手洗いに行こうと立ち上がってみたが

足取りも問題ない。


あとで一言、気遣ってくれた事に礼を言って帰ろう。

そう思いながら手洗いに向かった。


用を足して外に出ると、もうメンバーの半分以上が居なくなっていた。


タクシーで帰宅した者、

二次会に向かった者、

まだ店の前で話し込んでいる者。


店の前で話し込んでいる女性社員達に早く帰るように促すと、その奥に上司が立っていた。


女性社員と軽く挨拶を交わし、上司のところへ行く。


「今日はお疲れ様でした。もう帰られるんですか?」


「あぁ、帰るよ。飲み過ぎたよ。

…お前は反対方向だろ?」


上司は駅とは反対方向の、俺の家がある方を見た。


「はい。歩いて10分なんで、近いんすよ。」


心配ない、という風に伝えようと笑うと、

上司が俺のジャケットのポケットに何かを押し込んだ。


「…持っとけ。じゃあな。」


上司は少しふらついた足取りで駅に向かって歩いて行った。


「…何だ?」


訳が分からずにポケットに入れられた物を取り出した。


タバコだった。

箱を手に持ち、疑問でいっぱいになった。


俺も上司も、タバコを吸わない。


持ってる理由も、くれる理由も分からない。

もしかして見た目以上に酔ってたのか?


急に心配になって上司の向かった駅方面を見たが、もう姿は無かった。


駅に行けば他の社員もいるから大丈夫か…

そう考えて、自分も帰宅する事にした。


明日も早いのだ。

早く帰ってシャワーを浴びて寝たい。


タバコをポケットに突っ込むと家に向かって歩き出した。


しばらく歩くと、

朝には無かった立札が立てられていた。


『工事中の為迂回してください』


真っ直ぐ歩けばすぐに家なのに…

迂回すると5分〜10分は変わるかもしれない。


越して来たばかりだった為、

迂回した場合の道を知らないのだ。


周りを見渡して人気がない事を確認する。

工事をしている気配もない。


(誰も見てないな…)


「少し歩けば、家なんですよ〜」

誰に聞かす訳でもない言い訳を、

小さい声で言いながら立札の横をすり抜けた。


夜道をただ一人歩いていく。

少し冷たい風が、酒を飲んで火照った体に当たり気持ちが良い。


鼻歌を歌いながら歩いていると

何処かからか音がした。


…パシャッ…パシャッ


水を踏むような音…。

足元を見たが水たまりはない。

川も近くには流れていない。


シーン…


足を止めて耳を澄ましたが、

もう何も聞こえない。


「…気のせいか?」


もしかしたら誰かの家から聞こえたのかもしれない。


また歩き出す。


…パシャッ…パシャッ


また、聞こえた。

今度は分かった。

音は、下から聞こえた。


歩くのを止めると水を踏む音も止まる。


(下って…下水道…か?)


もしかしたら、工事中の業者の人かもしれない。

俺が立札を無視したから、怒ってるのかも。


相手が下にいるうちに、走って家に帰ろう。

学生時代は陸上部のキャプテンをやっていた。

足には自信があった。


グッと足の裏に力を入れてダッシュした。

すると、ありえない事が起きた。


パシャパシャパシャパシャッ


自分と同じスピードで、

自分の真下を走る水音が響く。


(嘘だろ…?下水道を同じスピードで…)


ダダダダダダダダダダダダッ

パシャパシャパシャパシャッ


静かな夜の街に、

上下で走る足音が響く。


もう少しで家に着く。

だが下にいるものに家を知られたくなかった。


家の前を通り過ぎようとした時、

何かが靴先に当たり、走っていた勢いも手伝って思いっきり転んでしまった。


「いっって…」


一体何なんだ…

痛みに顔を歪めながら、何かが当たったであろう場所に目をやる。


マンホールの蓋が、半分ほど外れていた。


危なかった。

もう少しズレていたら…

ゾッとした。


気付けば、下の水音が止んでいた。


(帰るか…)


痛む足を庇いながら立ち上がると、耳を疑った。


ズズズズズッと、金属を地面に

引きずるような音が聞こえた。

それは、目の前で、足元から聞こえた。


視線を下に向けると、マンホールの蓋が動いていた。

半分ほどズレていた蓋が、目の前で全部開かれるまで動いた。


目が離せなかった。

金縛りに遭ったように足も動かない。


蓋が全部外れると、

カンッカンッ…と金属製のハシゴに足を掛けて

登ってくる音が聞こえてきた。


そして、それは姿を見せた。

業者の人ではなかった。


赤黒く、血が固まったような皮膚の腕が出た。

指が異様に長く、爪がなかった。

生きてる人間の腕ではないと分かる。


腕が伸びて足を掴もうとしているのが分かる。

動けない体では逃げる事も出来ない。


冷や汗が止まらない。

ふと、上司の言葉を思い出した。


『ちゃんと下見て歩けよ』

意味が分かった時には既に遅い。

腕らしきものが自分の足首を掴んだ。


グンッ!と強い力で引っ張られて、

あっという間に下半身がマンホールに沈んだ。


上半身だけ地上に残して何とかしがみつく。


「や、やめてくれ…」


制止する声も虚しく、

少しずつ上半身がマンホールに沈んでいく。


ズル…ズル…


手だけが地上にしがみついている状態になった。

下を見る事は絶対にしたくなかった。

足首を引っ張る力が強くなっていく。


「やめてくれ!頼む!」

パニックに陥りながらも、何とか切り抜けれないか必死に叫ぶ。


無我夢中で体を揺らし、片手で自分の持っている物全てを中に落とした。


「…っ全部、渡すから!やめてくれ…」


ポケットの中の物を出してマンホールの中に落とした。


財布、スマホ、定期入れ…

最後に、タバコ。


……カタン、ボチャン

下の下水道に落ちた音が響いた。


次の瞬間、足首を掴んでいた力が

——ふっと消えた。


慌てて腕に力を入れて、マンホールの中からよじ登る。


痛む足を引き摺りながらマンホールから離れて、荒い呼吸と心臓の鼓動を落ち着かせる。


一体、何だったんだ。


ズボンの裾を上げて足首を見ると、

くっきりと手の跡が残っていた。


——次の日。


痛めた足を少し引きずりながら出勤すると

すぐに上司のところに向かった。


上司は俺を見ると安心したように笑った。


「無事で何よりだ。」

「…知ってたんですか?」


問いかけると、上司は俺の足を見ながら頷いた。


「あぁ。俺もな、昔掴まれたんだよ。」


上司はズボンの裾を上げた。

足首に薄く痣が残っている。

…自分の足首に付いた手の跡と同じ場所だった。


まだ上司が若かった頃。

あの付近に住んでいた男が、マンホールに落ちて死んだらしい。


酔っ払って帰宅している最中、

歩きながらタバコを吸おうとして手元に夢中になってしまい、マンホールの蓋が外れている事に気付かなかった。


死体の手にはタバコが握られていたらしい。


「業者が蓋を締め忘れてたんだ。

…それからだよ。マンホールから足を引っ張る手が出るようになったのは。」


「…じゃぁ、タバコをくれたのは…。」


上司は真剣な顔で頷いた。


「そういう事だ。俺の時は偶然ポケットから落ちたんだけどな。」


「…ありがとうございました。」


俺は上司に深く頭を下げた。

上司はいつもの優しい笑顔で首を横に振った。


「良いんだ。もう誰も連れていかれたくないだけだ。」


「…誰も…?」


上司の言葉に背中冷たいものが流れた。


「連れが一人、連れていかれちまったんだよ。」


上司はポケットからタバコを出すと、少し悔しそうに握り締めた。


その日以来、俺は必ずタバコを持ち歩いている。

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