第10話:夜が名を明かす
辰巳の運河沿いに着いたところで、二人はすぐには歩き出さなかった。街灯の輪の端に立ち、同じ方向を見たまま息を落とす。暗さは均一で、均一だからこそ輪の内側だけがわずかに現実味を持つ。水面はゆっくり揺れて、ほどけた光が細い筋になったり、ふっと消えたりする。遠くの車の走行音は近づかないまま続いていて、都市が眠っていないことを、むしろ安心みたいに伝えてくる。
ひかりは両手をポケットに沈めた。寒いからではない。指先の行き場がないと、胸の奥のざわつきがそのまま外へ出てしまう気がした。下唇の内側を噛みそうになって、噛まない。返事の前に目を伏せる癖が浮かんで、伏せない。靴先を揃えそうになって、揃えずに踵を少しだけずらす。癖を消すのではなく、癖に引っ張られないようにする。そういう夜だ。
「……寒い?」
蓮が言った。声はいつもと同じ穏やかさで、けれど、いつもより少しだけ慎重だった。言葉の置き方が、街灯の等間隔に似ている。近づきすぎない。でも離さない。
「大丈夫」
ひかりは言い、すぐ自分の声の硬さに気づいた。硬いのに、蓮は笑わない。笑わずに立ち位置を半歩だけ変える。ひかりの歩幅を探す癖を知っている人の動きだった。半歩の間ができると、息が戻る。息が戻ると、言葉の重さが戻ってくる。
橋の上で言いかけて、運河に着くまで黙っていたことがある。話す、と言ったのに話していない。話す、の中身がまだ喉にある。その喉の奥が熱い。熱さが怖い。怖いのに、熱さを抱えたまま、ひかりは言った。
「さっき、私、話すって言った」
言ってしまうと、もう戻れない気がした。戻れなくてもいい。戻れない夜が必要だと、あの合図のない夜で分かってしまった。
蓮は短く頷いた。頷きが、続きを急かさない。急かされないと、逃げ道を探してしまう自分がいる。逃げ道があると戻ってしまう。だから、逃げ道を残したままでも進める言葉を探す。
「昨日のことも、今日ここに来たことも」
ひかりは言葉を整えすぎないように、わざと少しゆっくり言った。編集者の癖で、句読点の位置を頭の中で並べ替えそうになる。それをやめる。やめても言葉は出る。出ることを、今夜は信じる。
「全部、つながってる気がする」
蓮はもう一度頷いた。
二人は歩き始めた。足音が舗装に落ち、落ちた音が水面に吸い込まれる。吸い込まれた音は、少し形を変えて戻ってくる。遠くの工事音や、駅の方角から流れてくる人の声の断片が、同じ高さで混ざり合い、夜の底に薄い層を作る。東京の夜は静かだと思っていたのに、静かさの中に細い音がいくつも生きている。生きている音があるから、沈黙が怖くない。怖くない沈黙の中で、ひかりは言葉を拾える。
「家のこと」
蓮が言った。息を短く吸う癖が出る。言いかけて止めないための吸気だと、ひかりはもう知っている。
「母親は落ち着いた。命に関わるとかじゃない」
「うん」
「でも、ああいうのって」
蓮は言葉を探し、親指で関節をなぞった。
「戻った瞬間に、昔の自分が出てくる。何もできない自分とか、逃げたくなる自分とか」
逃げたくなる自分。ひかりはその言い方に胸が痛んだ。痛むのに、彼の弱さが見えたことが嫌ではない。嫌ではないというのが、少し怖い。
「昨日、連絡できなかったのは」
蓮が言い、少し間を置いた。その間に、水面の光がほどける。ほどけた光が、言葉の切れ目をやさしく隠す。
「甘えそうだったから」
ひかりは歩きながら、ポケットの中で手を握り直した。甘える。彼の口からその言葉が出ることが意外で、同時に妙に納得もした。自分だけが甘えていたと思っていた。彼も甘えたかった。甘えたかったのに、甘えないことを選んだ。その選択が、今夜までの夜を作った。
「逃げる、って意味で」
蓮が付け足す。
ひかりは短く言った。
「逃げないで」
言った瞬間、自分の声が少し強いのが分かった。強い声は、相手の自由を奪う。奪いたくない。奪いたくないのに、今夜だけは奪っていいと思ってしまう。思ってしまう自分に驚く。でも驚いたまま続ける。
「逃げたいなら、そう言って」
蓮は小さく息を吐いた。
「言ったら、ひかりが」
蓮は言いかけて、止めずに言った。
「ひかりが待つって分かってるから、余計に怖い」
待つ。待つという言葉が、ひかりの胸の奥で鳴る。自分が口にした言葉が、相手の怖さになる。怖さになるほど、言葉は力を持つ。力を持つ言葉を、今夜は持ったまま歩く。
「私」
ひかりは言った。喉が熱い。
「待ってた」
言い切ると、恥ずかしさが遅れて来る。恥ずかしさは嫌だ。でも、恥ずかしいままの自分を否定しないと決めた夜だ。
蓮の足音が一拍だけ乱れた。乱れはすぐ整う。整うのに、その一拍が残る。残る一拍に、ひかりは少しだけ救われた。自分だけが揺れているわけではない。
「ごめん」
蓮が言いそうになって、ひかりは首を振った。
「もう謝らないで」
繰り返しだ。自分でも繰り返しだと分かる。分かるのに言ってしまう。言ってしまうほど、謝罪では埋まらない場所がある。
「謝ってほしいわけじゃない」
ひかりは続けた。続けると決まる。決まると怖い。怖いのに、決めたい。
「欲しかったのは、ひとこと」
蓮が視線を外し、また戻した。その癖が、今夜は逃げではなく、受け止めの準備に見える。
「行けないって、早めに」
言うと、胸が詰まる。詰まるのに、まだ言う。
「私、あの夜」
ひかりは息を吸い、吐いて言った。
「運河に行ってた。一人で」
言った瞬間、世界が少し静かになる気がした。実際には遠い車の音も、風の擦れる音も続いている。ただ、自分の中でだけ音が引く。引いたところに、恥ずかしさと怒りと安堵が一緒に落ちてくる。混ざって、どれがどれか分からない。でも分からなくていい。分からないまま言えたことが、今夜の一歩だから。
蓮は立ち止まった。ひかりも止まる。街灯の輪の中で、影が二つ揺れる。
「行ったの」
蓮の声が少し掠れている。掠れは、驚きと痛みの混ざりだ。ひかりは頷いた。
「馬鹿みたいだよね」
言ってしまって、すぐ後悔する。馬鹿みたいと言うのは、まだ自分を守っている。守りたくないのに守る癖がある。
「馬鹿じゃない」
蓮はすぐ言った。
「俺が、馬鹿だった」
また自分を責める方向へ行こうとする。ひかりはそれを止めたい。止めたいのに、止めるだけでは足りない。足りないから、別の場所へ連れていく言葉を出す。
「ねえ」
ひかりは言った。
「この関係、最初から親しいのに、恋って言葉だけ欠けてたって」
言いながら、自分がその欠けを守ってきたのだと思う。守ってきた欠けは、守りでもあり、檻でもあった。
「最近やっと分かった」
分かったと言うと、胸が少し軽くなる。軽くなると怖い。軽さは落ちる速さにもなる。けれど、落ちてもいい夜がある。
蓮は黙った。沈黙が落ちる。沈黙は重い。重いのに、怖くない。怖くないのは、彼が沈黙を怖がらないからだ。沈黙の中で、水面の光がほどける。ほどける光の下で、ひかりは続ける。
「欠けてたの、わざとだよね」
蓮は頷いた。
「わざと」
「どうして?」
「言ったら」
蓮は息を短く吸って言った。
「ひかりが遠くなる気がした。顔が遠くなるっていうか、たぶん」
言葉が途中で柔らかく崩れる。崩れるのに、核心は逃げない。ひかりの胸が締まる。締まるのに、同じ恐れが自分にもあったことを認める。
「私も、そう思ってた」
ひかりは言った。
「好きって言った瞬間に、今の二人が壊れるって」
言った瞬間、喉が熱くなる。言いながら、自分がようやく核心に触れているのが分かる。触れてしまえば、もう戻れない。戻れないのに、戻りたいと思わない。思わない自分が怖い。怖いのに嬉しい。
「でも」
ひかりは言った。けれど、でも、は決断の入り口だ。
「合図がない夜があって」
あの夜が胸に蘇る。街灯の輪に一人で立ったこと。幻の振動に反応したこと。来ない人を待つ自分を見てしまったこと。
「壊れるのが怖いって言いながら、夜を失うほうがもっと怖いって分かった」
ひかりは息を吐いた。吐いた息が夜に溶ける。溶けた先に、街灯の輪が続いている。輪は等間隔で、逃げ道も同じ間隔で並んでいるように見える。逃げ道へ行くこともできる。でも今夜は、逃げ道の入口に立って、入口を閉めたい。
「だから」
ひかりは言った。声が震える。震えは寒さのせいにできない。
「私が先に言う」
蓮の目が揺れた。揺れは驚きではなく、受け止める準備の揺れだ。ひかりはその揺れを見て、少しだけ息が戻る。
「好き」
短い。短いのに胸がいっぱいになる。
「久遠蓮が好き」
名前を言うと、夜の輪郭が変わる気がした。変わったのは夜ではなく、自分の側だ。自分の側が変わると、夜が別の役目を持つ。
「怖い」
ひかりは言った。怖いと言った。嫌な言葉だ。嫌なのに、必要な言葉だ。
「怖いけど」
喉が詰まりそうになる。詰まりそうでも、続ける。
「壊れる覚悟、する」
覚悟と言うと大げさだ。でも大げさでもいい。今夜の自分には、これくらいの言い方が必要だ。軽く言えば、また逃げる。
蓮は一拍、何も言えなかった。何も言えないまま、親指で関節をなぞる癖が止まる。止まって、手が動いた。ひかりのポケットの外側にある手の位置へ来て、触れないまま止まる。触れないのに、温度が伝わる。
「ひかり」
蓮の声が掠れる。
「それ、俺が言うつもりだった」
「知ってる」
ひかりは言ってしまった。ずるいくらいの言葉だ。けれど本当だ。沈黙や視線や歩幅がずっと言っていた。言葉だけが遅れていた。
蓮は小さく笑った。苦くない笑いだった。
「俺も」
蓮が言った。今度は止めない。
「ずっと好きだった」
ずっと。ずっとと言われると、胸が痛い。痛いのは、言わなかった時間があるからだ。言わなかった時間は無駄ではない。無駄だと思ったら、今までの夜を否定することになる。否定したくない夜がある。
「言ったら、奪う気がして」
蓮は続けた。
「ひかりの自由を狭めたくなかった」
ひかりは首を振った。
「狭まるのが怖かったの、私のほうだった」
言うと、少しだけ楽になる。楽になるのが怖い。怖いのに、続ける。
「狭まらない形にしてた。夜だけにして、短い連絡にして、理由を聞かないって決めて」
ルールを口にすると、ルールが急に古く見える。古いと切り捨てたくなる。切り捨てたくない。ルールがあったから来られた場所がある。
「でも、狭まらない代わりに、どこにも行けなかった」
蓮が黙って頷いた。頷きが、否定ではない。受け止めだ。受け止められると、ひかりの胸の奥が熱くなる。熱くなると涙が近づく。でも今は泣かない。泣いたら終わりのような気がする。終わりではなく始まりのはずなのに、始まりの前に泣くと、自分が崩れてしまいそうだった。
蓮の指先が、ひかりの手を探すように動いた。触れない距離で、触れたい気配だけがある。触れたい気配が、言葉より正直だ。
「触れていい」
ひかりは言った。言ってしまうと決まる。決まった瞬間、胸が静かになる。静かだから、触れる瞬間がよく分かる。
ひかりがポケットから手を出すと、夜気が指先に触れて冷える。冷えた指を、蓮の掌が覆う。掌が重なると体温が移る。移る体温が、言葉の後ろにある本当を伝えてくる。
「冷たい」
蓮が言った。
「今夜、ずっと冷たかった」
ひかりは少しだけ意地悪に言う。意地悪でもいい。整えすぎない夜にする。
蓮は指を絡めた。絡めると、ひかりの心臓が跳ねる。跳ねるのが恥ずかしい。恥ずかしいのに隠さない。隠さないと決めた。
街灯は等間隔で並び、暗さは均一で、だからこそ夜はごまかしを許さない。二人の足音が舗装に落ちるたび、その響きは水面に吸い込まれ、吸い込まれた音がわずかに形を変えて戻ってくる。その往復のあいだに、言葉にしきれなかった感情や、言わないことで守ってきた距離や、名前をつけなかった時間の重みが、順番を争うことなく胸の奥に沈んでいくのが分かり、ひかりはそれを振り払わず、ただ歩くことで受け止めようとした。歩くという行為は、決断を言葉にするよりも先に身体を納得させる。納得した身体が、ようやく心に追いつく。追いついた心が、好きという言葉の意味を遅れて増やしていく。
歩く。
手をつないだまま。
握られた指の温度は、さっきよりも少し安定している。強すぎず、弱すぎない。その中途半端さが、これから始まる関係の現実味を連れてくる。恋が生活を乱すものだと信じてきた自分が、今はその乱れを恐れずにいられるのは、夜が覆い隠してくれるからではなく、この夜が、隠してきたものを街灯の輪の下へ一つずつ並べていくからだと、ひかりは遅れて理解する。並べられたものは恥ずかしい。恥ずかしいのに、並べられたままでも嫌いにならない自分がいる。そのことが、ひかりにとって小さな救いだった。
「明日」
ひかりが言うと、声が少しだけ明るくなってしまう。明るくなるのが恥ずかしい。恥ずかしいから、夜のほうへ言い訳を投げたくなる。でも投げない。
「昼、会える?」
「会える」
蓮はすぐ答えた。そのすぐ、が嬉しい。
「どこで」
「ひかりが楽なとこ」
「楽なとこって」
ひかりは笑いそうになって、笑った。笑いは短い。短い笑いのあとに、熱が残る。残る熱が、明日の昼を先に照らす。
「改札の外とか」
改札の外。人が多くて、明るくて、逃げ道の多い場所。逃げ道が多い場所で会うのは少し怖い。怖いのに、その怖さが生活の側にあるのが嬉しい。夜だけの二人ではなくなるということだ。
「連絡、ちゃんとして」
ひかりは言った。
「短くじゃなくて」
「ちゃんとする」
蓮が繰り返す。繰り返された言葉が約束になる。約束は生活を乱す。乱すのに、支えにもなる。
運河の水面が街灯の光をほどいて流す。ほどけた光は何度も形を変えながら、同じ方向へ進んでいく。進むのに急がない。急がないまま確かに進むものがある。今夜の二人も、たぶんそういう進み方をする。
ひかりはふと、数日前の自分を思い出した。合図のない振動を待って、幻の震えに反応して、馬鹿みたいに立ち尽くした自分。あの夜の自分は、今の自分を想像できただろうか。できない。できないからこそ、夜は夜だった。夜は隠すためにあると信じていた。隠れている間は安全だと思っていた。でも安全は、いつか窒息に変わる。窒息する前に、今夜ここまで来た。来たことを、否定したくない。
「ねえ」
ひかりは小さく言った。
「私、あの夜、一人で歩いたとき」
言いかけて、言葉を探す。探す間に、蓮の指がひかりの指を軽く握り直す。握り直しは返事の前の癖みたいだった。
「夜が、二人を隠すんじゃなくて」
ひかりは続けた。
「私を隠してくれてたんだと思った」
蓮は黙って聞いた。黙って、歩幅を合わせる。合わせる歩幅が返事になる。
「隠れなくていいのに、隠れてた」
ひかりが言うと、蓮が少しだけ首を傾けた。
「隠れてたの、悪いことじゃない」
蓮は言った。
「隠れてたから、ここまで来た」
ここまで。言われると胸が熱くなる。熱くなるのに落ち着く。落ち着くのは、その言葉が過去を否定しないからだ。否定しないことが、この物語の終わりには必要だと思う。今までの夜を肯定したまま、次へ行く。
街灯の輪が一つ、背後へ流れる。次の輪が足元に落ちる。輪の中で、ひかりは一瞬だけ立ち止まりたくなる。立ち止まりたくなるのは終わらせたくないからだ。終わらせたくない夜がある。夜の価値が変わった。
「帰ろうか」
蓮が言った。帰ろうか、の言い方が夜の終わりではなく、生活への接続みたいに聞こえる。ひかりは頷いた。
「帰る」
帰ると言うと、帰る場所がちゃんとあることを思い出す。部屋の白い光。湯を沸かす音。眠れない夜にだけ持っていた静けさ。けれど今夜は、そこへ戻る道に手の温度がある。温度があるだけで、部屋の白さが少し優しくなる気がした。
運河の匂いが背中に残る。街の音が遠くなったり近くなったりする。二人の影は二つで、重なりそうで重ならないまま、同じ方向へ伸びる。その影が完全に一つにならないことを、ひかりは悪いことだと思わない。余白があるから、これから先も歩ける。余白があるから、名前を呼び合っても夜は壊れない。
ひかりは握られた手を、もう一度だけ握り返した。強くはしない。強くしないのが自分らしい。自分らしさを残したまま変わっていける気がした。
明日の昼を思う。明るい時間に会うことを想像すると、少しだけ心臓が早くなる。早くなる鼓動が、今夜の最後の合図みたいに聞こえる。夜はもう、名前を隠すためにあるのではない。名前が呼ばれたあとも、静かに続く場所だ。
-完-
夜が名前を隠していた reika1021 @reika1021
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