第9話:再会は夜より前
昼の光は、夜のことを容赦なく薄める。薄めるくせに、消してはくれない。ひかりはそれを、ここ数日で妙に実感するようになった。仕事の机に向かい、紙の端を指で押さえ、赤字の理由を口にする。相手の返事を待つ一拍の間に、運河の暗さが胸の奥でひっそり広がる。広がるのに、誰にも見えない。見えないことが、逆に怖い。
合図のない夜が一度あっただけで、生活の輪郭が少し歪んだ。大げさだと思いたい。たった一晩、来なかっただけ。そう言い聞かせると、言い聞かせたぶんだけ自分の中で何かが確定していくようで、ひかりは言い聞かせるのをやめたくなる。やめたくなるのに、やめられない。整える癖は、こういうところにまで手を伸ばす。
蓮からの連絡は短いままだった。
「今日は無理。ごめん」
それ以上でも以下でもない文字。理由はない。聞かないと決めたルールに守られているはずなのに、その守りが、今は指輪みたいに小さく締まる。締まって痛い。痛いのに、外そうとすると怖い。外したら、今の二人がどこに着地するのか分からなくなる。
編集部の昼は忙しい。忙しさは、感情に居場所を与えない。だから、昼は助かる。助かることに罪悪感が混じるのが厄介だ。ひかりは会議室の白い光の下で頷きながら、昨夜の自分の声を思い出してしまう。来ないなら来ないって言ってよ。言った相手はいない。いないのに言った。言うほど、自分が何を欲しがっているか見える。見えるのが怖い。
夕方、窓の外の色が薄く沈み、ビルの縁が輪郭だけになっていくころ、ひかりは資料を抱えて席を立った。小さな用事ができた。著者から届いた追加の修正箇所を、制作部に渡す。たったそれだけ。たったそれだけなのに、歩くたびに気持ちの重さがわずかに揺れる。揺れるものを抱えていると、歩き方まで不安定になる。自分の歩幅が乱れるのは嫌だ。嫌だから、靴先を揃えそうになって、またやめる。
廊下の空気はフロアより少し冷たい。エレベーター前で、ひかりは端末を見た。通知はない。見た自分に腹が立つ。腹が立ったあとに、落ち着く。落ち着くのが、さらに腹立たしい。自分はこんなふうに感情を往復させる人間だったのかと、今さら気づく。
制作部の扉を開けると、紙の匂いが少し濃い。インクの匂いと、裁断された紙の粉の乾いた気配。誰かが段ボールを運んでいて、床がわずかに震えた。ひかりは担当者に資料を渡し、短い確認を済ませる。仕事の言葉は明確だ。明確な言葉が、夜の曖昧さを余計に際立たせる。
戻る途中、ロビーで電話が鳴った。ひかりは立ち止まり、出た。電話の向こうの声は、少し焦っていた。急ぎの確認。ひかりは要点だけを返し、話を切り上げた。切り上げたあと、ロビーのガラス越しに外が見える。外はまだ夜ではない。夜になる前の時間。街が仕事の顔を少しずつ外し始めるころだ。
そのガラスの向こうを、誰かが横切った。
ひかりは一瞬、呼吸を忘れた。忘れた呼吸が戻るまでの間に、その人影はもう視界の端へ流れていく。広告代理店の人間らしい、少し急いだ歩き方。肩の力が抜けているのに、足だけが早い。ひかりは心臓が跳ねるのを感じた。そんなはずない、と思いながら、思った瞬間に確信する。
蓮だった。
夜の運河ではなく、夕方の街の中で見る蓮は、別の人みたいに見える。別の人みたいに見えるのに、息を短く吸う癖は同じだ。歩きながら視線を一度合わせて外す癖も同じだ。癖が同じだと、夜が昼へ滲む。滲んだ夜が、ひかりの胸に貼りつく。
ひかりはガラスの扉を押して外へ出た。空気はまだ冷えきらず、湿りが薄く漂う。車の音が近く、信号の電子音が少し高い。夕方の東京は、昼よりも音が尖る。尖った音の中で、自分の足音だけが妙に大きく感じる。
「……蓮」
呼びかけた声は思ったより小さかった。小さいのに、届いた。蓮が足を止めて振り向く。振り向いた顔に、夜の穏やかさはあった。けれど、どこか疲れが見える。目の奥が少し薄い。薄いのは眠れていない目だ。眠れていない目は、ひかりにとって馴染みがある。馴染みがあることが、胸をざわつかせる。
「ひかり」
名前を呼ばれる。昼に呼ばれる名前は、夜より少しだけ硬い。硬いのに、温度がある。温度があるから怖い。
「ここで何してるの?」
ひかりは自分の口調が探るようになっているのに気づいて、少しだけ眉を寄せた。探るつもりはない。けれど、探ってしまう。理由を聞かないと決めたのに、聞いてしまいそうになる。
蓮は一拍、黙った。黙り方が、夜の沈黙とは違う。夜の沈黙は守りだった。今の沈黙は、疲れた人間の沈黙だ。
「仕事の打ち合わせ。……終わったとこ」
「そう」
ひかりは頷いた。頷いた瞬間、自分が何を期待していたのか分からなくなる。偶然会って、何を言いたかったのか。責めたいのか。安心したいのか。どれも違う気がする。違う気がするのに、胸の奥は動いている。
「ひかりは」
蓮が聞いた。
「用事。……制作部」
言ってしまってから、自分が言い訳みたいな答え方をしていることに気づく。言い訳をする必要はない。必要はないのに、夜の話題に触れたくなくて、昼の理由で自分を固めてしまう。
二人の間を、人が流れていく。仕事帰りの背中。紙袋。傘を持っているのに開かない人。すれ違うたび、会話が細く途切れる。途切れた瞬間に、言えない言葉が喉に溜まる。ひかりはそれを飲み込んだ。飲み込んだものが胸に落ちる。落ちたものが重い。
蓮が視線を外し、また戻す。
「この前は、ごめん」
この前。運河の夜。合図のない夜。短い通知。ひかりは返事が遅れた。遅れたのは、言葉を選んでいるからだ。選ぶほどに、選べない。
「……うん」
うん、しか出ないのが悔しい。悔しいのに、うん、しか出ない。ひかりは下唇の内側を噛みそうになって、噛むのをやめた。痛みでごまかしたくない。ごまかしたら、また戻れない気がする。
蓮は続けようとして、息を短く吸った。癖。癖が出ると、言いかけてやめる前触れだと分かってしまう。分かってしまって、ひかりの胸が少し痛む。痛みは慣れたくない種類のものだ。
「言いにくいんだけど」
蓮が言う。言いにくい、という枕詞が、夜よりも現実的な重さを帯びる。
「言いにくいなら、言わなくていい」
ひかりは反射で言ってしまった。自分の中のルールが口を動かした。言わなくていい、は優しさだ。けれど今の自分にとって、それは逃げ道でもある。逃げ道を相手に差し出すと、相手は当然そこへ行く。そうやって、また何も変わらない。変わらないのが怖いくせに、変わるのも怖い。
蓮は少しだけ眉を動かした。困ったような、でも怒ってはいない表情。沈黙を怖がらない人が、言葉の前で困っている。ひかりはその困り方に、胸の奥が熱くなるのを感じた。熱は嬉しさに近い。嬉しさに近い熱が怖い。
「言わなくていい、じゃなくて」
蓮は小さく言って、言葉を探した。
「言う。……今は、言う」
今は。今は、という言葉が出たことに、ひかりは息が止まりそうになった。今は、と言うなら、言えない時があった。言えない時がある、と第7章で言った。今は、と言うなら、今夜は違うのか。違うのが怖い。違うのに、違ってほしい。
「夜、来られなかったのは」
蓮が言いかけて、そこで止まった。止まったまま、親指で関節をなぞる。癖。癖が、焦りの形になる。
ひかりは待った。待つ側になるのが苦しいのに、今は待つしかない。待つしかないと決めると、少しだけ胸が静かになる。静かになったぶんだけ、耳が敏感になる。車の走り去る音。遠くの工事の金属音。誰かのスマートフォンの通知音。現実の音が、二人の沈黙を囲む。
「家のことで、ちょっと」
蓮が言った。理由の核心ではない。けれど、理由だ。理由を聞かないルールの外側に、初めて足先が触れた。
ひかりは頷いた。頷くだけで、胸が少し締まる。締まるのは、彼が理由を持っているからではない。理由を言ってくれたことが、嬉しいからだ。嬉しいことが怖い。怖いのに、否定できない。
「大丈夫なの」
口にした瞬間、自分がルールを越えたのが分かった。分かったのに、引っ込めたくない。心配は、恋のふりをしている。恋のふりをして、恋に近づく。ひかりはその構造が怖い。
蓮は答えを探すように一度視線を落とし、戻した。
「大丈夫、って言えるほど整ってない」
整ってない。整ってないと言われると、ひかりは胸が痛む。痛むのに、彼が整ってないことを言葉にできる相手が自分だという事実に、また別の痛みが重なる。自分はどこまで相手の内側に入っていいのか。入ったら、もう出られない気がする。
「ごめん。こんなとこで言う話じゃないのに」
蓮が言った。こんなとこ、という言葉が、夕方の街の雑音を指している。
「……別に」
ひかりは言った。別に、と言う自分の声が少しだけ揺れる。揺れを誤魔化すために、ひかりは周囲を見た。歩道の端の植え込み。湿った土の匂い。信号待ちの人の足首。夕方の光は、足元から先に夜へ移る。上半身はまだ昼で、足元だけが夜に近い。そんな時間帯だ。
「少し歩く?」
蓮が言った。提案の形はいつも通りなのに、場所が違う。運河ではない。夜でもない。だから、意味が変わる。
「……いいよ」
ひかりは頷いた。頷きながら、自分が頷いた理由を整理しない。整理すると、言葉が増える。言葉が増えると、決めてしまう。今は決めたくない。けれど、決める場所へ向かっている気がする。
二人は駅前の大通りを避け、少し静かな道へ入った。ビルの谷間で風の層が薄く入れ替わる。紙の匂いではない匂いが混じる。店の出汁。焼けた油。湿ったコンクリート。東京の夕方は、生活と仕事の匂いが同じ通りで入れ替わる。入れ替わりに気づくと、自分の気持ちも入れ替わりそうで怖い。
「夜、連絡しないの、びっくりした」
ひかりは言ってしまった。責めたい言い方ではない。けれど、責めの成分がゼロではないのも分かる。分かるのに、止められない。自分はもう、あの夜をなかったことにできない。
蓮は歩幅を少し落とし、ひかりに合わせた。合わせる動きが、癖のまま出る。癖は嘘をつかない。嘘をつかない癖を見てしまうと、ひかりは少しだけ安心する。安心が怖い。
「ごめん。……連絡しようと思ってた。ほんとに」
「思ってた、って」
ひかりは続ける。続けた言葉が自分の口から出たことに驚く。驚くほど、感情が表に出ている。
蓮は言いかけて止まる寸前で、止めなかった。
「電話が来て、外に出て。戻ったら、もう遅くて」
遅い。遅い、という言葉が、ひかりの中で少し刺さる。自分もいつも遅い側だ。仕事を理由に遅れる。遅れても受け入れてもらう。受け入れてもらう側の安心を、当たり前にしていたのかもしれない。そう思うと、胸が少し痛む。痛むから、正直に言う。
「私は、待ってた」
言った。言ってしまった。言ってしまった瞬間、喉の奥が熱くなる。待ってた、は告白ではない。けれど、告白に近い形だ。自分の欲を晒す形だ。晒したくなかった。晒したのに、少しだけ楽になる。楽になるのが怖い。
蓮の目が揺れた。揺れた目は、ひかりの言葉をちゃんと受け取っている目だ。受け取られると、戻れない。
「ごめん」
蓮が言った。謝罪が短い。短いのに、重い。
「謝らないでって言ったのにね」
ひかりは思わず言って、すぐ自分で苦くなる。自分も同じ言葉を繰り返している。繰り返すほど、言葉の意味が変わっていく。変わるのが怖い。怖いのに、変わらないと息ができない。
蓮は小さく笑った。笑いは苦い。苦さがあるから、本当だ。
「言われても、謝りたくなる」
「……そういうとこ」
ひかりは言いかけて、止めた。そういうとこ、の続きが自分でも分かってしまう。好きだ、と言いそうになる。言いそうになって、飲み込む。飲み込むと、胸が痛む。痛みは、もうただの不安ではない。
道の先に、小さな橋が見えた。運河の橋ではない。車道を跨ぐ歩道橋のような橋だ。下を車が流れ、風が上がってくる。橋の上は少しだけ音が薄くなる。薄くなるのは、周囲の音が流れていくからだ。流れていく音の中で、二人の足音だけが残る。
橋の中ほどで、ひかりは立ち止まった。立ち止まったのは、理由があったわけではない。足が勝手に止まった。止まった瞬間に、背中に風が触れる。風は乾いていない。夕方の湿りを含んでいる。湿りを含んだ風は、肌に残る。
蓮も止まった。止まって、ひかりを見た。視線が合う。合って、外れない。夜の運河で外れなかった視線と、同じ温度だ。場所が違っても温度が同じなら、それはもう偶然ではない気がする。ひかりはその気がする、を否定できない。
「ひかり」
蓮が呼ぶ。
「なに?」
声が乾く。乾いた声が恥ずかしい。恥ずかしいのに、目を逸らせない。
蓮は息を短く吸って、今度は止めなかった。
「俺、あの夜のあと、少し怖くなって」
怖い。彼の口から怖いが出ると、ひかりの胸がきゅっと縮む。縮むのは拒絶ではない。むしろ近づく前の縮みだ。近づくのが怖い。
「ひかりが、待ってるって分かったから」
待ってる。自分が言った言葉が、相手の怖さになる。怖さになるほど、言葉には力がある。力があるから、言うのが怖い。怖いのに、言った。言った自分の責任が今、戻ってきている。
「待ってるって、言うの、嫌だった?」
ひかりは聞いた。聞きながら、自分が傷つく準備をしているのが分かる。準備をする癖が、こういうところでも出る。
蓮は首を横に振った。速くもなく、遅くもなく。迷いのない動き。
「嫌じゃない。……嬉しい。でも」
でも、が来る。ひかりの胸が痛む。痛むのに、聞きたい。聞きたいのに、聞きたくない。
「でも、嬉しいって思った瞬間に、欲が出る」
欲。ひかりは息を飲んだ。自分が昨夜、欲しいという言葉を心の中で使ったのを思い出す。蓮も同じ場所にいる。いるのに、言わない。言わないのは、相手の自由を守るためだと知っている。知っているのに、今夜は守られるほどに苦しい。
「欲って」
ひかりは言ってしまった。言ってしまった瞬間、自分の喉が熱くなる。聞いたら、戻れない。戻れないのに聞いた。聞いた自分の中で、何かが決まっていく。
蓮は一度目を伏せた。目を伏せるのはひかりの癖だった。蓮が伏せると、彼も同じように整えようとしているのが分かる。整えようとするほどに、整わないものがあるのだと分かる。
「言いたくなる」
蓮が言った。短い言葉。短いのに、重い。
「ひかりの夜を、俺のものにしたいって」
その言葉は、告白ではない形をしていた。けれど、告白より生々しい。生々しさが怖い。怖いのに、胸の奥が熱くなる。熱は拒絶ではない。熱は、ずっと黙っていた自分の内側を照らす。
ひかりは言葉が出なかった。出ないのに、心臓は返事をしている。返事の仕方が分からない。分からないまま、涙に近い熱が目の奥に溜まる。泣くほどのことではない、と思う自分がいる。泣くほどのことだ、と思う自分もいる。どちらも本当で、どちらも嘘だ。
橋の下を車が流れ、振動が足元に遅れて届く。遅れは現実のものなのに、心の遅れに重なる。ひかりはその遅れの中で、やっと言った。
「そんなこと、言わないで」
言わないで、は拒絶に聞こえる。ひかりは自分の言い方に驚いて、すぐ続けた。
「……言われたら、私、どうしたらいいか分からなくなる」
分からなくなる。弱音だ。弱音を口にした瞬間、ひかりは少しだけ楽になる。楽になるのが怖い。怖いのに、楽になる。
蓮は黙った。黙って、ひかりのほうへ半歩だけ近づいた。近づいたのに触れない。触れない距離が、夜の習慣の距離に似ている。似ているのに、ここは夜ではない。夕方の橋の上だ。橋の上の空気はまだ明るい成分を含んでいる。その明るさの中で、触れない距離は、夜よりもはっきり痛い。
「分からなくさせたくない」
蓮が言った。
「でも、分からないままにしたくない」
その二つは、両立しない。両立しないのに、彼は両方を抱えている。抱えているから沈黙が増えた。ひかりはそれをやっと理解した。理解すると、胸が少し痛くて、少し温かい。痛さと温かさが同時にあるのは、恋の手触りに近い。ひかりはその言葉を頭の中で使ってしまい、息が止まりそうになった。
恋。
恋と認めたら壊れると思っていた。壊れるのは怖い。怖いのに、もう壊れ始めている気もする。壊れ始めているのに、まだ戻れるふりをしている。ふりをしている自分が苦しい。苦しいから、正直になるしかない。
「私さ」
ひかりは言った。声が少し震える。震えは寒さのせいにできない。橋の上の風は、そこまで冷えていない。
「夜だけの習慣って、便利だった」
便利。恋愛の話に便利という言葉を使う自分が嫌だ。嫌なのに、便利だったのは本当だ。理由を聞かない。連絡は短い。集合場所は固定。便利にしておけば、壊れないと思っていた。壊れないと思っていたのに、壊れることを怖がる気持ちが増えただけだった。
「便利にしておけば、私が怖がらなくて済むから」
ひかりは続けた。続けながら、自分が何を言っているのか、少しずつ分かってくる。怖がっていたのは恋ではない。恋になった自分だ。恋になった自分が、不安で、自分を嫌いになるのが怖かった。そういう自分を彼に見せるのが怖かった。
蓮はじっと聞いている。遮らない。急がない。沈黙を怖がらない人の聞き方だ。聞かれると、言葉が出てしまう。出てしまうほど、止められない。
「でも、便利って、余る」
ひかりは言った。余るという言い方が自分でも変だと思う。変なのに、しっくりする。余白が余る。沈黙が余る。余った沈黙は、今夜みたいに痛みに変わる。
「余ったところに、私、勝手に気持ちを置いてた」
勝手に。勝手に、という言葉が、少しだけ卑怯だと分かる。相手も置いていた。相手も置いていたのに、自分だけが勝手だと言うのは逃げだ。でも、逃げを混ぜないと、今は言えない。
蓮の表情が少しだけほどけた。ほどけたのが分かると、ひかりの胸がまた熱くなる。熱は嬉しさに似ている。嬉しさだと認めると、涙が出そうになる。
「ひかりの勝手は、俺にとっては」
蓮が言いかけて止めた。止める癖。ひかりはその癖を今夜、止めたくないと思った。止めたくないと思うのは、もう自分が待つ側になっている証拠だ。
「……続けて」
ひかりは言った。自分の声が自分のものではないみたいに聞こえる。聞こえるのに、言った。言えた。
蓮は息を短く吸って、言った。
「嬉しい」
たった二文字で胸がいっぱいになる。いっぱいになるのに、まだ足りない。足りないと思う自分が怖い。怖いのに、足りない。
二人はしばらく黙っていた。橋の上の風が、髪の先を揺らす。遠くの街灯が一つずつ点き始める。点く明かりは、夜の準備をしている。夜はいつも準備が上手だ。人間よりずっと上手だと思ってしまう。
ひかりは視線を逸らし、街の方を見た。ビルの窓に点る光が、生活の数を増やしていく。自分もあの中の一つだ。編集者としての自分。整える自分。笑う前に感情を整える自分。そういう自分が、今、橋の上で震えている。震えている自分を嫌いになりそうなのに、嫌いにならない。嫌いにならないどころか、その震えを守りたいと思ってしまう。
守りたい。守りたいものの中心に、蓮がいる。蓮がいるという事実を、ひかりはもう否定できない。
「ねえ」
ひかりは言った。声が少し落ち着く。落ち着いた声が出るとき、感情が固まりかけている。固まるのが怖いのに、固めないと前へ進めない。
「今夜」
ひかりは続けた。今夜、という言葉が自然に出たことに、自分で驚く。合図がない夜が怖かったのに、今夜を言っている。言えるということは、もう夜をただの避難にしたくないのかもしれない。
「運河、行く?」
蓮の目が少し揺れた。揺れた目は、迷いではなく、確認だ。ひかりの言葉の温度を測っている。
「行ってもいい?」
蓮が聞いた。行ってもいい、という聞き方が、相手の自由を奪わないための癖だと分かる。分かるのに、その丁寧さに胸が痛む。痛むのは、もう丁寧さだけでは足りないからだ。
「いい」
ひかりは言った。言い切った。言い切った瞬間、足元が少し軽くなる。軽くなるのが怖い。軽くなると、落ちるのも早い。落ちるのが怖いのに、軽さは嬉しい。
二人は歩き出した。夜へ向かう。夜へ向かうのに、今日は夜に隠れたいわけではない。隠れたいわけではないのに、夜が必要だ。夜が必要なのは、言葉を選ぶのに時間がいるからだ。時間がいるのは、ひかりが怖がりだからだ。怖がりでも、今夜は進みたい。
運河へ向かう道の途中で、コンビニの明かりが一瞬だけ二人の顔を照らした。明るさが、表情をはっきりさせる。ひかりは反射で目を伏せそうになって、伏せなかった。伏せないことが、こんなに意識を使うとは思わなかった。意識を使うほど、恋は生活を乱す。乱すのに、乱されたいと思ってしまう。自分の中の矛盾が、今夜は少しだけ静かだ。
辰巳の運河沿いに着くころ、街灯の輪がいつものように等間隔で並んでいた。暗さは均一で、水面の揺れが光をほどく。ほどけた光が、言葉の切れ目をやさしく隠す。ここは、二人が夜の合図で集まってきた場所だ。合図が途切れた夜があったからこそ、今夜の足音が重い。重いのに、確かだ。
「昨日」
蓮が言いかけて、止めそうになって、止めなかった。
「昨日のこと、ちゃんと話す。全部じゃないけど」
全部じゃないけど。逃げ道を残す言い方。ひかりはそれを責めない。責めない代わりに、自分のほうの逃げ道を一つだけ閉じたいと思った。閉じたいと思う自分が、もう戻れない場所に立っている。
「いいよ。全部じゃなくて」
ひかりは言って、続けた。
「でも、私も、ちゃんと話す」
蓮がひかりを見た。視線が合う。合った視線が、今夜は外れない。外れない視線の中で、ひかりは自分の気持ちの名前を、はっきりと認めた。認めた瞬間、怖さが少し薄まる。薄まるのに、胸の奥が熱くなる。熱は、逃げ道を焼いていく。
夜の東京は二人の関係を隠す。隠すはずだった。けれど今夜は、隠すための夜ではない。始まりの前の夜だ。ひかりはそれを、言葉より先に身体で理解してしまう。
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