第8話:夜が途切れる前

その夜の余熱が、部屋の白い光の中でようやく薄まったころ、ひかりは眠りに落ちた。深い眠りではない。湯を沸かす音と、立っては消える湯気の気配だけが記憶の端に残り、目が覚めたとき、それが夢だったのか現実だったのか、すぐには判別できない。そんな眠りだった。


翌日、紙の匂いに包まれた昼は、昨夜の揺れを何事もなかったかのように押し流した。編集部の空気は乾いていて、プリンターの吐き出す熱が机の間を行き来する。誰かが資料を束ねる音、椅子の脚が床を擦る音、短い笑い声。音の粒が忙しく散らばって、心の余白を埋める。ひかりは原稿に赤字を入れ、赤字の理由を説明し、説明の途中で相手の機嫌を探る。笑う前に一拍だけ息を整えた。癖は役に立つ。役に立つ癖がある限り、昼は滞りなく進んでいく。


それでも、胸の奥のどこかは、昨夜の最後の沈黙をまだ握っていた。握ったまま、ほどく方法を探している。ほどかないほうがいいのかもしれない、という考えも一緒に抱えたまま。握っているものの正体が怖い。怖いのに、手放したくない。矛盾を抱えるのに慣れたつもりでいたのに、慣れていない部分が残っていることに気づく。


午後、窓の外で光の角度がわずかに変わるころ、ひかりは端末の振動を待っている自分に気づいた。待っていないふりをして、待っている。そういう自分が少し嫌で、画面を伏せて仕事に戻る。けれど指先が紙の端をなぞるたび、夜の輪郭が先に立ち上がる。運河の空気。街灯の等間隔。水面にほどける光。記憶は順番を守らない。思い出したくなくても、思い出す。思い出すほどに、昼の手触りが薄くなる。


校正刷りの余白に、別の余白が重なることがある。たとえば、句点の位置ひとつで息の長さが変わる。その息の長さを読者の胸に合わせるために、ひかりは今日も紙の上で呼吸を調整している。自分の呼吸は調整できないのに。そう思ってしまい、ひかりはペン先を止めた。止めた瞬間、昨夜の自分の声が蘇る。言いかけてやめるの、やめないで。自分はあんな言い方をする人間だったのか。あんな言い方をした自分を、否定したいのに否定できない。


隣の席の同僚が、資料の束を抱えて通り過ぎるとき、軽く声をかけてきた。


「今日、顔、疲れてない?」


いつもなら笑って受け流す。今は笑いが遅れた。


「大丈夫。寝不足じゃないだけ、まし」


まし、という言い方に自分で引っかかる。まし、で選ぶ癖がある。まし、を重ねて生活を守ってきた。恋は生活を乱すものだと思っていたのに、その乱れを避けるためのましが、今は逆に胸を締める。


夕方、街の色が静かに沈み始め、帰路につく人の背中が増えるころ、ひかりはようやく仕事を切り上げた。外へ出ると、空気は冷えきらず湿りを含んでいる。雨の匂いはないのに、地面の奥が水分を抱えているのが分かる。靴底がわずかに吸い付く感触が、昨夜の歩幅を思い出させて、ひかりは一度だけ立ち止まった。


夜の入口は、いつも同じ形でやって来るはずだった。空が完全に黒へ落ちる前の、色の境目がまだ残っている時間に、端末が短く震える。ひかりはその振動のために昼を片づける速度を少しだけ上げ、帰り道の靴紐を結び直し、無意識に呼吸を整える。それがいつもの順番だった。


その夜は、順番が来なかった。


駅へ向かう人の流れに混じりながら、ひかりは何度も画面を確認してしまう。通知はない。分かっているのに指が動く。動いた指に腹が立ち、腹が立つほど、待っている自分がはっきりする。待つ側になりたくなかった。待つ側になったら、自分の中の甘い部分が増える気がして怖かった。けれど、待っているのは事実だ。


改札の前まで来て、ひかりは足を止めた。電車に乗れば帰れる。帰れば安全だ。安全な夜は、眠れなくてもまだ生活の範囲に収まる。収まる、という言い方が苦しい。収めてきたせいで、今の自分がいるのではないか。ひかりは唇の内側を噛んだ。痛みで現実に戻る。戻った現実は、駅の明るさと、すれ違う肩の熱と、聞き取れない会話の断片だ。自分だけが、何かを待っている。


端末をポケットの奥へ押し込めば、少しは楽になるかもしれない。楽になることが怖い。楽になったら、待つのをやめてしまう。待つのをやめたら、夜の合図が戻ってきたとき、自分はどんな顔をすればいいのか分からなくなる。分からなくなるくらいなら、待っていたほうがましだと思ってしまう。まし、がまた出る。ひかりは自分に呆れて、改札を通らずに反対側へ身体を向けた。


足は辰巳の方角へ向かった。目的地だと認めたくない。認めたら、今夜の自分の形が決まってしまう。ただ、体が覚えている。運河の匂いを、街灯の並びを、均一な暗さを。覚えている体は賢いふりをして、心を置き去りにする。置き去りにされた心は、遅れて痛む。


街灯が等間隔に並ぶ道へ入ると、暗さが均一になる。均一な暗さは、視界の端をやさしく曖昧にする。今夜はその曖昧さに隠れたかった。隠れたいのに、合図がないという事実だけが、ひかりをはっきりと露出させる。露出するのは肌ではなく、気持ちだ。自分がこんなに揺れるのだと、自分に見せつけられる。


運河の近くは人の気配が薄い。車の音は遠く、風の音が際立つ。水面の匂いは金属と泥のあいだのようで、吸い込むと喉の奥が少し冷える。冷えは現実だ。現実に触れるたび、彼がここにいないことが具体になる。具体になればなるほど、理由が欲しくなる。理由を欲しがるのは、二人が決めたルールに反する。理由は聞かない。聞かないことで保ってきた距離がある。その距離が、今夜は自分の首を絞める。


いつもの街灯の下に立ってしまった。光の輪の中。輪の外は夜と混ざり、境目がぼやけている。誰もいない。来る理由がないのだから当然だ。それでも胸の奥が勝手に理由を探し始める。忙しいのかもしれない。体調が悪いのかもしれない。仕事で誰かに捕まっているのかもしれない。あるいは、夜そのものをやめようと決めたのかもしれない。最後の考えが浮かんだ瞬間、ひかりは下唇の内側を噛んだ。痛みで現実に戻る。戻った現実は、街灯の輪と、水面の揺れと、湿った冷えた空気だ。彼はいない。合図もない。


「……何してるんだろ」


声が出た。誰に向けた声でもない。声にしただけで、胸のざわつきが少し形を持つ。形を持つと、耐えられる。耐えられることが悔しい。悔しいのに、その悔しさで自分を保っている。


ひかりは歩き始めた。歩幅が定まらない。合わせる相手がいないと、自分の速度が分からなくなる。速くなると息が切れ、遅くなると考えが増える。どちらも嫌で、結局、ちょうどいい速度を探し続ける。探し続けるのは編集の仕事に似ている。違うのは、どこにも締め切りがないことだ。締め切りがないと、いつまでも決められない。決められない夜は長い。


水面は暗く、街灯の光が細く揺れている。揺れは一定ではなく、風の層が変わるたび、ほどけては結び直される。その様子が、言いかけてやめた言葉に似ていて、ひかりは視線を逸らした。似ているものを見たくない。見たくないのに、目が勝手に戻る。戻るたびに、胸の奥が細く痺れる。痺れは痛みに変わる手前で止まり、止まったまま増える。


端末を取り出し、またしまう。何度も同じ動作を繰り返している自分が嫌になる。嫌になるのに、ポケットの奥へ押し込めない。押し込めば、気持ちまで見えなくなる気がする。押し込んで整えるのは得意だ。得意だから、押し込むと戻れなくなる気もする。戻れなくなるのが怖い。怖いという言葉が、最近すぐ出てしまう。出るたびに嫌になる。嫌になっても消えない。


運河沿いの柵に手を置いた。金属は冷たく、指先から冷えが上がる。冷えは確かだ。確かなものに触れると、頭の中の想像が少しだけ後退する。後退した隙間に、昨日までの夜が入り込んでくる。橋の下の湿り。店の湯気。視線が合ったまま外れなかった瞬間。続けたい、という短い希望。どれも具体なのに名前がない。名前がないから守れた。守れたのに、名前がないから今夜みたいな夜に迷子になる。


ひかりは柵から手を離し、ポケットの奥へ指を沈めた。深く沈める癖が、寒さのせいだけではないと分かってしまう。握れるものが欲しい。握れるものがない。握れるものがないから、手を隠す。手を隠すと、心も隠せる気がする。気がするだけで、隠せない。隠せないものが増えている。


道の向こうから、ランナーが一人、一定の息で近づいてきた。足音が規則的で、呼吸が乾いたリズムを刻む。ひかりは脇へ寄り、風の切れ目を感じた。ランナーは何も言わずに通り過ぎ、すぐ遠ざかった。一定のリズムが羨ましい。自分のリズムは今、崩れている。崩れたリズムを誰かに整えてもらおうとしている自分が嫌だ。嫌なのに、整えてくれる人がいないと苦しい。矛盾が胸の奥で擦れる。


少し先で、若いカップルが立ち止まっていた。言葉は聞こえない。けれど、肩の角度と、互いの手の距離だけで、感情が分かってしまうことがある。触れそうで触れない距離。触れないまま保つ距離。今夜の自分が欲しがっているのは、距離なのか、それとも触れることなのか。分からない。分からないまま、ひかりは視線を落とした。落とした先の靴先が、いつもの癖で揃いそうになって、またやめる。揃えると逃げになる気がした。


歩いているうちに、工事の柵の前に来た。いつもの道を少しだけ歪める金属の壁。光が反射して白く、夜の均一さを壊す。壊すものがあると道は現実になる。現実になると心が戻ってくる。戻ってきた心は痛い。痛いのに、戻ってこないよりはましだと思う自分もいる。まし、で選ぶ癖がまた顔を出す。ひかりは自分の癖の多さに少し笑いそうになって、笑えなかった。


「帰ろう」


言ってみる。言うと決まるはずなのに足が動かない。動かない足が、まだ待っている。待っていないふりをして、待っている。そんな自分が情けなくて、ひかりは唇の内側を噛んだ。痛みは薄く、すぐ消える。痛みすら消える夜だ。


ポケットの中で、端末が微かに震えた気がした。気がしただけだった。幻の振動に反応した自分が急に可笑しくなる。可笑しいのに笑えない。笑ったら泣く気がするからだ。泣くほどのことではない。泣くほどのことではないと言い聞かせるほど、泣くほどのことになってしまう。ひかりは首を振り、深く息を吐いた。


そのとき、後ろから自転車のベルが小さく鳴った。ひかりは慌てて道の端へ寄る。自転車が通り過ぎる。通り過ぎた背中が小さくなる。小さくなるものばかり見ていると、何が残るのか分からなくなる。残るものが欲しい。欲しいという言葉を、心の中で使ってしまったことが少し怖い。蓮が言えなかった言葉の核心も、たぶんそこにある。欲しい。欲しいと言った瞬間、相手の自由を奪ってしまう気がするから、彼は黙ってきた。黙るのが優しさだと分かっている。分かっているのに、今夜は黙られるほどに自分の中の欲が大きく見える。


ひかりは街灯の下へ戻った。最初に立った輪の中。ここに立てば、来るかもしれないという期待がまた生まれる。期待は自分を消耗させる。消耗して、明日また仕事をする。そんな繰り返しを選びたくない。選びたくないのに、輪の中は落ち着く。落ち着くのは、夜の習慣が体に染みているからだ。染みたものは簡単には抜けない。


端末を取り出し、画面を見た。新しい通知はない。ない。ないことを何度確認しても、ない。ないことに慣れようとしている自分がいて、その自分がいちばん怖い。慣れたら、夜は本当に失われる。失われた夜を取り戻したいと思うだろうか。取り戻したいと思う自分が、もう恋の入口に立っている気がする。


ひかりは画面を閉じ、端末を握りしめた。角が掌に当たり、硬い。硬さは現実だ。現実に触れると、言葉が出る。


「来ないなら、来ないって言ってよ」


声が震えた。震えを聞かれる相手はいない。それでも震えは残る。震えが残ると、涙が近づく。涙は嫌だ。嫌なのに、目の奥が熱い。熱さは、今夜一人で歩いた証拠みたいに思える。証拠を消したくない気もして、ひかりは瞬きをせずに水面を見た。水面の揺れが、視界の熱を少しだけ散らしてくれる。


そのまま、しばらく立っていた。時間は時計では測れない。街の音の遠さが少し変わり、風が一段冷える。遠くのマンションの窓の明かりが消え、別の窓が点く。生活が入れ替わる気配だけが、夜の厚みを教える。厚みの中で、ひかりはようやく一つ決めた。今夜は終わりにする。終わりという言葉を嫌いでも、今夜は終わる。


踵を返したとき、端末が震えた。


短い震えだった。幻ではない。今度は確かに震えた。心臓が跳ねて息が止まりそうになる。止めたくないのに止まる。ひかりは画面を開いた。通知は一つだけ。


「ごめん。今日は行けない」


短い。短すぎる。理由は書かれていない。いつものルール通りだ。理由は聞かない。連絡は短い。そう決めた。決めたのに、今夜だけは、その短さが鋭い刃みたいに感じる。刃は胸の奥に触れ、何かを切る。切られたものが何か分からないまま、ひかりは立ち尽くした。


怒りが先に来ると思った。寂しさが来ると思った。けれど最初に来たのは安堵だった。行けない、でも連絡は来た。彼は消えていない。その事実が、情けないほど救いになる。救いになったあとで、遅れて悔しさが来る。もっと早く言ってほしかったという幼い欲だ。幼い欲を持ってしまう自分が嫌で、ひかりは画面を閉じた。


返信を打つ指が動かない。どう返せばいいのか分からない。大丈夫、と言えば嘘になる。怒りをぶつければ、ルールを壊す。ルールを壊すのが怖い。怖いのに、今夜の自分はもう少しだけ壊したい。壊したいのは夜ではなく、自分の中の癖かもしれない。整える癖。逃げ道を残す癖。待っていないふりをする癖。そういう癖を、今夜だけは少しだけ外したい。


ひかりはゆっくり打った。指先が画面に触れる音が、自分の耳にだけ大きい。


「分かった。気をつけて」


送信。たったそれだけ。たったそれだけで終わらせた自分に腹が立つ。腹が立つのに、これ以上の言葉が浮かばない。浮かばないのは、言葉にした瞬間に自分が何を欲しがっているか、はっきりしてしまうからだ。はっきりすると、もう戻れない。戻れない場所へ行く勇気が、今はまだない。


帰り道、運河の匂いが背中に残った。街灯の輪がいくつも後ろへ流れ、光と影が入れ替わる。入れ替わるたびに胸の中の温度も変わる。怒り。安堵。寂しさ。悔しさ。全部が混ざって、どれが本当か分からない。分からないまま、ひかりは駅へ向かった。電車の金属の匂いが近づく。人の声が増える。生活の現実が戻ってくる。戻ってくる現実の中で、今夜一人で歩いた時間だけが妙に重い。


部屋に戻り、照明をつけると、白い光が床を平らにした。ひかりは靴を脱ぎ、コートを掛け、手を見た。冷えている。冷えは温度だ。温度なのに、今夜は感情の形に見える。湯を沸かし、カップを包むと、温かさが掌に戻る。戻った温かさが、さきほどの安堵に似ていて、ひかりは小さく眉を寄せた。安堵は救いであるはずなのに、救いに似たものほど怖い。救いに依存した瞬間、自由が小さくなる。


聞かないと決めたルールが、今夜ほど重く感じたことはない。重さを抱えたまま眠れない夜を受け入れる。受け入れる以外の選択肢がない。ひかりはベッドに横になり、天井の白を見つめた。昼の色の中に夜が残っている。夜はもう、隠す場所ではなくなり始めている。隠れなくてもいい夜が来るのか、それとも隠れる場所ごと失うのか。どちらか分からないのが怖い。


目を閉じると、均一な暗さが浮かぶ。均一な暗さの中で、一拍の沈黙が恋を置いていた。今夜、その沈黙は彼の側にしかなかった。彼の沈黙に触れられない距離が、初めて現実になった。現実になった距離を、これからどうするのだろう。自分は待つのか、踏み込むのか。踏み込むなら、何を言うのか。言葉を選ぶのは、もう彼だけではない。自分も選ばなければならない。


選ぶという考えが胸の奥で小さく熱を持つ。熱はまだ形にならない。形にならないまま、ひかりは眠りへ落ちようとした。落ちる直前、端末の震えが幻のように指先に残っていて、ひかりはそれを振り払うように、静かに息を吐いた。

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